見た目
台所の椅子に座っている慧の毛先を、栞が丁寧に切っている。昨日と比べて襟足がすっきりしてきているようだ。
「もうちょっと切りますね」
切った先から、髪は落ちる間もなく消えていく。
向かいの椅子に座り、その様子に釘付けになっている大晴は、広げた教科書の上に箸からサラダをぽとりと落とした。
「あっ!」
急いでふきんで拭く。慧はテーブルに置かれた鏡に映る前髪をじっと見る。自分よりも頭二個分は背の高い慧似の青年が前髪を左右に分けて整えている姿を鏡越しに見上げているところを思い出す。
「はい。出来ました」
「ありがとうございます」
思い出した青年のように前髪を真ん中で分け、慧は席を立った。
フロアに戻り、大晴は食器を運んだり、洗ったりしながら慧をじとーっと見ている。よく入り浸るマダムたちに慧は捕まり、
「新しく入ったの?」
「かわいいわね」
「背がすらっとしててモデルみたいね」と、人気のようだ。
慧はぎこちないながらも、一生懸命に動き回っている。一見するとただのバイトだが……。
慧は大きな手の平を一瞬見つめ、何事もなかったかのようにおぼんに食器を乗せて、カウンターへと戻った。一瞬目を離すと、真正面で慧がこっちを見ていた。食器を下げた慧に驚きつつも受け取る。
慧は低い落ち着いた声で、
「栞さんっていつも着物なんですか?」
「えっ……うん」
意外な質問に戸惑ってしまった。頭を捻るが、着物姿ばかりが思い出される。
「ふーん、そうなんですか」
慧は店内を見回し、
「こうやって見ると普通の喫茶店ですね」
壁掛けにはいつものように枝をモチーフとした壁掛けがかかっていた。昨日の夜は生きていたのに、今はうんともすんとも言わない。昨夜の出来事は幻だったのかと思ってしまうくらいだ。亜子が大晴の裾を引っ張った。
「ねー、ねこちゃんいない」
「アラン?」
窓際や棚の上を見ても確かにアランの姿がない。
「本当だ。外に遊びに行ってるんじゃない?」
亜子は不貞腐れて人形がある棚に渋々向かった。慧は自分のみぞおち辺りに触れて、
「この時計、結構気になるんですけど、どうしてるんですか?」
「えっ、気になるって……?」
「大晴さんは持ってませんよ」
おぼんを抱えた栞がメニュー表をカウンターに置く。慧はちらりと大晴を見やり、
「……そうなんですか」
「もう少し鎖、短くしましょうか?」
「……はい、それで」
「じゃあ奥で直しましょうか」
栞に続いて慧はカウンター横の部屋に入った。入れ替わりでドアベルが鳴り、カンナが顔を出す。
「大晴、ちょっといい?」
*
「弁当屋でん」の隣の花屋で、大晴は紙袋を両手に受け取った。中身を見るとピンクのバラがメインのアレンジメントが二つずつ入っている。
「悪いね。急な注文が入っちゃったんだけどバイトが休みでさ。車出せないんだよね」
カンナは緑色のエプロンを外し、別の紙袋を両手に持つ。
「バイト代はそのまま出るから」
「配達の手伝いってことですか?」
「そう。栞にも許可はもらったから」
「分かりました」
大晴は「弁当屋でん」の看板を見上げ、
「俺、この弁当屋よく来るんですよね」
「そう」
カンナは大晴を軽くあしらい、店の奥の店長に目配せする。
「じゃ、行くよ」
電車が到着すると、座席はほぼ満席で、立っている人がちらほらいるくらいには混んでいた。大晴とカンナはドア近くの座席前に立ち、電車に揺られる。
目の前で座っていた男性がスマートフォンから顔を上げ、大晴とカンナをちらっと見た。するとカンナの方を向きながら席を立って、
「どうぞ、座ってください」
カンナが周りを見ると少し離れたところで老人が手すりにつかまっていた。サラリーマン風の男性が席を譲っている。
「……どうも」
カンナは小さな声で言い、席に座った。男性はカンナの前に立ち、
「この花きれいっすねー。こんなにたくさんどうしたんすか?」
紙袋をのぞきながら馴れ馴れしく話し掛けてくる。
「……仕事なので」
「へぇー、もしかして花屋さんでしょ」
カンナは溜め息をつき、首から懐中時計を取り出す。四を指している時計の長い針を指で動かして十一あたりにまで進めた。大晴はぎょっとし、栞の、「針はむやみにいじらないように」という言葉を思い出す。カンナの顔にみるみるシワが刻まれ始めていた。一緒に顔全体が垂れ下がりシミがちらほら見え始める。
「ちょ、カンナさん」
「カンナちゃんって言うんだ。ねえ、花屋さんの話もっと聞かせてよ」
白髪交じりになった髪をかき上げ、カンナは顔を上げると、男性は目を丸くした。
「なにか?」
「えっ」
男性は言葉を失い、カンナの顔を凝視する。
カンナがうつむき、時計の針を四あたりに戻すと、元の顔に戻った。
「次はーコガカリーコガカリー」
車内アナウンスが鳴り、電車の速度が緩やかになり始めると、カンナは腰を浮かせた。
「降りるんでどいてください」
「えっ、あぁ……」
男性の横をすり抜け、ドアの前に立つカンナに、大晴は慌ててついていく。ドアが開き、ホームに降り立って大晴が振り向くと、男性はまだ突っ立ったままだった。
「カンナさん、待って」
足早に階段を降りるカンナに必死でついていく大晴。
「この顔だから席を譲ったんだろうな」
「え?」
「面白かったぁ、あいつの顔。急に黙りこくって。あたしが後二十年もしたらあいつが席譲ることなんてないだろうな」
カンナはあざ笑う。
「針動かすと見た目変わんの。すごいだろ」
「いいんですか?!人前でやっても」
「見間違いだったって思うって」
ケラケラと笑うカンナ。
大晴とカンナは切符を通して改札を抜け、駅を出てガード下沿いに歩く。
「ああいう男って多いよな」
「それは……カンナさんが美人だから仕方ないんじゃないですか」
「美人ね……」
「何ですか?」
「こっちのせいかよ」
「どういうこと……?」
「近くに立ってる年寄りがいただろうが」
「そうでしたっけ」
大晴は斜め上を見ながら思い出そうとする。
「疲れているように見えたとか」
「この体は老化しないんだよ」
「えっ、それは……便利だなー」
不思議なことに対して、もはや脳がほぼ動いていない。カンナは子供のように無邪気に、
「だろ?」