夜の喫茶レディーバグ
喫茶レディーバグの扉には「Close」の札がかかっているが、店内の窓は少しずつ開けられていた。店の前を帰宅途中のOLやサラリーマンが通り過ぎる。雲がゆっくりと動き、月を陰らせたり輝かせたりしていると、いつの間にか店の前を歩く人もいなくなり、風だけが吹いていた。
月がはっきりと現れ、窓際の棚に寝そべっているアランの髭がぴくりと動く。すると店内のあちこちに飾られている枝をモチーフとした木彫りの絵がゆらりと動き出し、木の枝となって伸び、窓の外に顔を出した。アランの耳の動きと鼓動するように、しゅるしゅると葉が開き、白い花の蕾が一斉に咲き始め、店内の壁は枝や葉、花で覆われる。夜の風が葉や花を揺らし、花の香りを乗せて通り過ぎていった。
*
目を覚ますと、誰もいない公園のベンチに腰掛けていた。公園は月の光に照らされていて光と影がはっきりしているのに、何かがおかしい。瑞季は自分の腕を動かし、自分に影がないことに気がついた。手の平を見つめると、半透明で下が透けて見える。
何……これ。
あちこちから自分を見まわしていると、周りの木々が騒めきどこからか花の香りがした。風に乗ってきたのだと思うが、風が自分を触れる感覚がなかった。よくよく気にしてみると夜独特の匂いや暑さも全く感じていないことに気がついた。
……死んでる?
はっきりと発したのに自分の声も聞こえない。足元の小枝を拾おうとすると空振り、ティーシャツの裾をを直そうとすると自分の体にも触れられなかった。先程まで座っていると思っていたが、座るような形で浮いていたことにも気がついた。こんなにも異常事態が起きているというのに、瑞季は不思議と恐ろしさは感じていなかった。視覚と聴覚以外の感覚はほとんどなく、まるで夢の中にいるように体は軽いが、一つはっきりとしたものがあったからだ。花の香り、それだけは公園の入り口がある方角から流れてきていることが分かる。瑞季は立ち上がり、吸い寄せられるように花の香りをたどって、砂利の感覚もない地面を歩きだした。
*
喫茶レディーバグの前の道には人っ子一人居らず、涼しい風が時折吹いている。大晴が扉の窓を覗くと、店内は真っ暗でドアノブに手を伸ばすのをためらう。それでも扉をゆっくりと開け、暗闇に声をかけた。
「お疲れ様でーす……」
カウンター横の扉が少し開き、オレンジ色の明かりが入り込む。お団子頭の影から、栞だということが分かった。
「一応、親には遅くなるって伝えてきました」
「その方がいいですね」
ぱちりとスイッチを入れる音がした。点灯すると、店内の壁中に枝が這っていて、葉が覆い茂り、手の平サイズの白い花が咲いていた。
「何だこれ?!」
栞はカウンターに入り、
「お店の壁掛け、覚えてますか?」
「あ、木の……」
「そうです。木彫りの枝なんですけど、夜になると時々こうやって伸びて葉がついて花が咲くんです」
「へ……」
思考が止まる大晴を横目に、栞はそっと艶やかな花びらに触れ、
「不思議でしょう?」
栞は懐から木製の眼鏡を取り出して掛ける。
「すぐそこのの神社の御神木が戦争で倒れた時に、オーナーがもらい受けたそうなんですけど、それを元に時計や壁掛けを作ってもらったそうなんです。変わったことが起きるのは御神木の力なのかもしれませんね」
栞は小さく笑う。店中に広がる植物は自然に風に揺れているが、今にも不自然に動き出しそうに感じ、大晴は小さな恐怖を覚える。
「それじゃあ、ちょっと遅くなるかもしれませんが、しばらく一緒に待ってみましょうか」
開いている窓から緩やかな風が入り込み、カーテンを揺らす。
「すごいなー……」
大晴が店内をきょろきょろと見ていると、おもむろに栞がカウンター内で椅子から立ち上がる。カウンターの椅子に座る大晴の横を、袂をおさえて手の平で示した。
「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」
「えっ」
一点を見つめる栞の視線の先には何もない。木製の眼鏡を外し、栞は大晴に差し出す。
「これです」
誰にも聞こえないような声で栞は、
「こんなにすぐ来るなんて……」
どこか悲しげな表情だが、大晴は眼鏡に視線が向いていて、気づかなかった。
恐る恐る眼鏡を掛けると、入口でティーシャツにズボン姿の背の高い青年がぽつんと立っていた。青年の後ろの閉まっている扉がうっすらと見えているから、全体的に透けている状態だ。
「わあっ!」
驚いてのけ反る。青年の肩がびくりと動いた。栞は懐から何かを取り出して青年に差し出し、優しい声で、
「これ、持ってみてください」
青年はそろそろと近寄り、栞の手の平にある木製の懐中時計にゆっくりと触れた。すると、一本しかない針がくるりと回り、三を示す。触れた指先から体全体へみるみる色が濃くなっていった。
「えぇっ」
大晴はさらに座ったままがたがたと後ずさりして、眼鏡が下にずれるが、はっきりと青年の姿が見えている。
「何ですかこれ」
言った青年が驚いて喉に手を当てる。喉仏に触れ、すぐに手を離して困惑する。
「この時計は決して手放さないようにしてください。持っている間はあなたも実体を持てるようになります。でも、針はむやみにいじらないように。数字が増えると見た目の年齢が上がってしまうので」
大晴は青白い顔になり、
「実体ってことは……、幽霊なの?!」
「大晴さん、この人死んでないですよ。思いが形になって抜け出てるんです。あんなに執着してたのに、いつの間にかどうでもよくなってた、こんな経験ありませんか?」
「死んでないんだ……。じゃあ生霊ってこと?!」
「え……そう、そうですね。そう言われちゃうとなんだか複雑ですけど、でも決して呪ってる、とかじゃないですよ?たまにそういう人もいますけど」
「い、いるんですか」
「もー、怖がらないで大丈夫ですよ。願いが成就すれば自然と還ります」
「じゃあ、瑠璃子さんは……」
「来たときから病気を患ってたらしいので、……急変されたのかもしれません。お年がお年だけに仕方がないことかもしれませんけど」
『大晴くん』と、笑顔を向ける瑠璃子が思い浮かび、胸が詰まる。青年は不安そうな表情で、
「つまり、私は死んでないんですよね?」
「そうです。大丈夫ですよ」
栞はつま先立ちし、鎖を青年の首にかけた。
「では、あなたの願いが叶うまでうちにいてください。叶えたいことがあるんでしょう?」
「……」
青年はじっと懐中時計を見つめる。
「お名前は?」
「……み」
カウンターに置いてある鏡が目に入り、青年は自分の顔を見て驚く。
「びっくりしましたか?その姿、あなたの理想の年齢なんですよ」
青年は一瞬考えた後、
「名前は慧」
「年は?」
「十五」
「学生さんですか?」
「高一」
「あんまりお姿と変わらないんですね。ではひとまずはここでお仕事してもらいましょうか」
「仕事……?」
慧は店内を見回す。壁一面、枝や葉、花が広がっていて、異様な光景だ。
「ちょっと分からないかもしれませんが、ここは喫茶店です。アルバイトのご経験は?」
「ないですけど」
「じゃあ明日から頑張りましょうね。大晴さん、後輩ができましたよ」
「えっ」
「大晴さん、大丈夫ですか?」
大晴は平静を装って、
「大丈夫です」
「先輩、よろしくお願いします」
肩につきそうなショートヘアを揺らし、慧はぺこりと頭を下げる。
「一応言っておきますけど、不思議なこと諸々は他言無用ですよ?内緒、でお願いします」
栞の妖しい笑みに、大晴は何度も頷くことしかできなかった。
*
靴を脱ぎ捨て、勢い良くリビングの扉を開け、「ただいまっ」と言ってすぐ閉じる。大晴はそのまま二階へと駆け上がった。
リビングでは真千子と博がソファでテレビを見ている。真千子はテレビから目を離さず、煎餅を口に入れながら、
「お帰りー」
博は振り返り、
「何だ?」
「さあ」
「勉強大変なんだな」
「違うわよ、バイト」
「そうか」
「頑張ってるんじゃない?」
「そうかあ」
博は腕を組み、うんうん頷いた。
ベッドに飛び込み、大晴は枕に顔を埋める。しばらくすると扉が開き、歯を磨きながら湊が覗く。
「どうしたー?」
顔を埋めたまま、
「何でもない!」
「そうかー。着替えてから寝ろよ」
「……うん」
扉が静かに閉まった。