瑠璃子
小雨が上がり雲が晴れて太陽の光が差し込んでいる。喫茶レディーバグの花壇には雨露に濡れて光るタチアオイが花を咲かせていた。
栞は大晴から受け取った紙を見ながら、
「今月もこんなに入ってもらっていいんですか?休みの日ほとんど……。試験もうすぐですよね?」
「大丈夫です。テストは……何とかなります」
大晴は不安を打ち消すように笑顔を見せる。
「勉強も大事ですよ?出来る内にやっておかないと……」
「俺、そんなに勉強好きじゃないし、再試にならなきゃ大丈夫です」
「そんな事言って……」
大晴がテーブルを拭いているとドアベルが鳴った。
「ただいまぁ。冷たいお茶ちょうだい」
髪をくくった瑠璃子が大きな声で扉を開ける。続いて、
「うさぎぴょんぴょこ~」
上機嫌に歌う亜子が帰ってきた。
「どこ行ってきたんだー?」
カンナがカウンターにささっと麦茶を用意する。
「公園よぉ。久々に童心に帰って遊んじゃった。かっこいいパパさんがいてねぇ」
ハンカチで汗を拭き、興奮気味にまくし立てる。 窓際に箱座りしているアランが目を開き、つまらなそうに欠伸をする。
「大晴さん、入口開けてきてください」
大晴は、メニューボードを持って入口に向かう。ボードを外に出して戻ると、目を見開いているカンナが目に飛び込んだ。
「どうしたの?」
首を傾げる瑠璃子の姿がみるみる半透明になり、体の向こう側が透けて見える。
「瑠璃子!」
カウンターからカンナが慌てて出てくると、瑠璃子は咄嗟に自分の体を見る。
「カンナ……!」
瑠璃子は泣きそうな表情で腕を伸ばすが、カンナの手は掴めずその姿は、頭からすぅ……と空気に溶けていく。ワンピースのぱさりと地面に落ちる音がした。大晴はきょろきょろと見回し、
「瑠璃子さん?」
「……行っちまった」
しんとした店内にカンナの呟きだけがやけに響いていた。
お店の入り口に『臨時休業』と書かれた札が掛かっている。栞は奥から持ってきたクッキー缶を開けて、一枚の写真を取り出した。テーブル席でそれを囲んで覗き込む。
「これ……瑠璃子さんです」
いつも明るい栞が声を落とす。写真は喫茶レディーバグの店内で客達と栞が集まって写っているものだった。
「ここに来たばかりのなんですけど」
「どの位前のなんですか?」
「五年位前ですね」
その中の白髪で年配の女性を、栞は指差す。大晴は不思議そうに、
「誰ですか、これ?」
「瑠璃子さんです」
真顔の栞に、大晴は普段あまり使うことのない頭をフル回転させ、慌てて写真をもう一度見る。
「老けメイク?」
「ふざけてても、あいつがやるか?」
「そうだけど……」
「アンチエイジングにも限界があるからな」
「……じゃあ、若返ってる……?」
「そうですね。みたいなものです」
「えっ……」
曖昧な返事に、大晴は訳が分からなくなる。
「あ、でもこの栞さん、今と変わんないですね」
広げられた写真の内、下の方にあった白黒写真を見ると、昨日撮ったと言ってもいいくらいの、着物にエプロン姿の栞が笑顔でこちらを見ていた。
「こんな現像の仕方もあるんだー。すげぇ」
持ち上げて何気なく裏面を見ると、『文子、二十歳にて』と書かれていた。
「文子……?」
大晴の手から、栞は写真を流れるように取り、缶へと戻す。顔を上げると、栞は黙って微笑んでいた。大晴はごくりと唾を飲み込み、
「……瑠璃子さんはどこに行ったんですか?」
「見ただろ」
透けて、消えた。何かの映像を見ているみたいだった。
「連絡先は聞いていないので分からないです。ただ、言えるのは本人の意志以外で消えるのは自身に何かあったときだけです」
「何かって、いつも通りだったのに……」
「必ず本体がいるので、そちらに何かあったとしか……」
「今までいたのが本人じゃないんですか?」
「本人でもあります」
大晴はさらに混乱する。
「俺だけですか?知らなかったの……」
「すみませんでした。こんなことにでもならなきゃ、ずっと黙ってるつもりでしたし……。大晴さんも言われたって信じられないでしょ?」
「もしかして、みんな……」
喫茶レディーバグに住んでいる、カンナや耕造、亜子が思い浮かぶ。
「それは……」
栞は何か言おうとして口を開くが、ぐっと堪え、
「言われたくない人もいると思うので……」
「ごはんおいしー?」
カウンターのそばの床で魚を食べるアランの背中を、亜子が撫でながら呑気に不穏な空気を破る。カンナが長い溜息をつき、
「……もうちょっと説明したほうがいいんじゃないの」
「そうですね。実際に見た方が分かりやすいかも。久々に今晩開きましょうか」
「そうだな」
「今晩……?」