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憧れと悔しさ

 びっしりと文字で埋め尽くされた黒板の前で、団扇をあおぎながら教科書に目を落とした教師が、


「……であるから、この頃のヨーロッパは……」


 エアコンから風は出ているようだが、下敷きであおぎながら授業を受けている生徒ばかりだ。大晴は先程から、シャーペンを持った手も動かさず、ぼうっとしている。

 大晴はキリっとした表情の栞を思い出す。


『今日みたいに、時間帯によってはお子様もいらっしゃるので、フロアを歩くときは注意してくださいね』


 栞がくるりと振り向くと、笑いながら走ってきた子供がぶつかり、『きゃっ』と、後ろに栞はぐらついて、そのまま大晴の胸にすとんとおさまった。子供はそのまま走って席に戻り、親に叱られている。栞は少女のように恥ずかしそうに笑い、


『……人のこと言えない』


「ここ、要注意だからな。よく覚えておけよ」


 そこかしこからペンをカチカチとする音が聞こえ始め、大晴は、はっとして教科書をめくったが、ペン先はさまよい、また手が止まる。


「じゃあ、次の章いくぞー」


教科書がめくられる音を聞きながら、窓の外を見ると眩しいくらいの青空が広がっている。大晴の脳裏に、栞が胸に手を置く様子がよぎる。教師の声がどんどん遠くなっていった。


                    *


「……さん、大晴さん、注文入りましたけど」


 慧が、無心で皿拭きをしている大晴の顔を首を下げて覗き込む。


「わっ、分かった、分かった」


大晴は注文票を見て、棚にあるコーヒーカップを一つ取る。飲み終わったグラスをおぼんに乗せた栞が、


「今日お客さん少ないですし、たまにはお店閉めましょうか。慧さんは何かしたいことありませんか?」

「え?えっ……と」

「ゆっくりでいいですよ」


 栞はいつもの調子で、


「大晴さんも一緒に」


 大晴は急いでコーヒーをドリップする手を止め、顔を上げた。


「えっ、あ、はい」


                    *   


 公園に近付くと、蝉の鳴き声が一層大きくなり、あまりの大音量に大晴は栞と笑い合い、慧は顔をしかめる。公園の前を通ると、バスケットコートがあり、大学生くらいの男女のグループが和気あいあいとバスケットを楽しんでいた。青年がパスをカットし、シュートを決めている。その様子に慧は思いを巡らせた。

ジャージを着た青年が慧のボールを奪い、力強くゴールを決める。その瞬間を前に、時が止まったかのように茫然と立ち尽くしていたことを思い出すが、大晴の声で我に返る。


「ここじゃなくて、もうちょっと先です」

「そうなんですか。はあ、暑いですね」

「着物だからじゃないですか?」


 栞は水色の着物を見下ろして、


「これ、夏用なんですよ。気温が高過ぎですって」

「夏のこの時間帯って激暑ですもんね」

「本当」


                 *


 閑静な住宅街の外れにある公園に到着し、脇にある階段を下りると、少し寂れたバスケットコートがあった。あんまり人気スポットではないのか、誰もいない。

 大晴は手をかざしながら太陽を見上げ、コートの端でリュックを下ろす。


「ここです。俺の中学の時の練習場所」


栞はきょろきょろしながら、木陰になっている階段の端に座る。


「こんな場所あったんですね」


 バスケットコートに着物がなんだか異質な感じだ。


「一日中練習し放題ですよ」


 慧は靴紐を結び直しながら、大晴を無表情で見上げる。


「大晴さんってバスケ部だったんですか」

「俺?俺はサッカー部。授業でバスケ部多くて下手だと肩身狭いからさ、練習してたんだよ」

「へぇ、そうなんですか」

「慧はバスケ部だった?身長もあるし」

「……まぁ」


 栞は水筒を取り出して、


「喉乾いたら言ってくださいね」

「はい」


 大晴はリュックからボールを取り出し、Tシャツの袖を肩までまくる。


「俺からでいい?」

「良いですよ。俺負けないんで」

「何だとー」


 慧はゴールを背にして構える。大晴はボールを何度か慧に渡してから、ドリブルをし始めた。左右に動き、フェイントを入れながら抜こうとするが上手く抜けず、シュートは何度も阻まれる。攻防の末、慧にボールが渡った。


「あっ、くそー」

「交代ですね」

「だいぶ鈍くなっちゃったな」


 大晴がゴールを背にして構える。慧がドリブルし始めると、大晴は左右に振られ、フェイントに引っ掛かってしまいシュートを打たれる。ボールはそのまま網をくぐりシュートが決まった。


「うまっ」

「すごーい!」


 慧は小さく驚き、表情が明るくなる。

交互に攻守を代えて続ける。シュートはほとんど慧が入れていたが、決まる度栞は手を叩き、盛り上がっていた。



 しばらくすると、大晴は疲れ切り勢い良く地面に座り込む。


「もう……無理ー!バスケ部には勝てんって」


頬が紅潮した慧は体をあちこち見回して、


「なんか……あんま疲れてないような」

「慧さんはその体だからですよ」

「……そうなんですか」


 大晴は肩で息をしながら、慧を睨み付ける。


「お前現役だろ!」

「えっ……違いますけど」

「だって上手いもん!」

「慧さん、いつもよりなんか生き生きしてました」


慧はきょとんとする。


「かっこよかったですよ」

「えっ、俺は……?」


 栞は困り顔で笑い、

「大晴さんも!」

「なら、嬉しいなー」

「何言ってるんですか、もう」

「だってー」


 慧は顔に手を当て、一人で子供のような満面の笑みを浮かべる。


「慧、次はスリーポイント対決やろうよ」

 振り返ると、慧は姿が半透明になっていた。そのまま目を細めた横顔からすぅ……と消えていき、慧が持っていたボールが地面へと落ちた。


「あ……」

「慧さん、笑ってましたね」

「はい」

 少しの間、慧がいなくなった場所を二人で見つめていた。やがて、地面に落ちた服や靴、懐中時計を拾った栞は吹っ切れた顔で、


「じゃあ、帰りましょうか」

「はい」


 大晴はいつの間にか軽くなった体で立ち上がった。


                     *


 図書室の窓際の席に座った、紺色の制服を着たショートヘアの女子が、ノートから顔を上げる。目を細めながらグラウンドを見下ろすと、バスケットコートで何人かの男子がシュートの練習をしていた。ショートヘアの女子は微笑み、机の下で小さくシュートのポーズを繰り出していた。



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