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それぞれの朝

 ひんやりとした空気が満ちている台所で、ぐらぐらと湯が沸く音だけがする。

蓋を開けると、鍋から水蒸気が上がり、思わず手をかざしてしまう。流し台の前にある、少し開いた小窓からは、淡く朝日が差し込んでいるが、窓の向こうは霞がかっており、花壇に咲くビオラやデイジーは朝露で光っている。


 鍋の隣で豆腐を切っている(しおり)の足元で、ニャオーと低い声がした。下を見ると、小太りの茶色の猫がうろつき、ゴロゴロと喉を鳴らしながら、栞の黄緑色の着物にすり寄ってきている。


「アランさん、ちょっと待ってくださいね」


 割烹着のポケットから取り出した手ぬぐいで手を拭くと、戸棚から小皿を取り出して、冷ましておいた焼き魚をほぐしながら盛る。くるりと振り向き、近くのテーブルのそばへしゃがむと、床の軋む音がした。

 小皿を置くとすぐにアランは近寄り、何口か食べる。満足したのか、台所の奥にある扉へと近付き、小さな隙間からするりと廊下へと出て行った。


「もったいないから、残りも食べてくださいねー」


 髪をほどくと、低めにお団子を作り直しながら、扉に向かって声をかける。


廊下には同じような扉が左右に三つと突き当りに一つある。アランは一番近い扉の取っ手を掴むと、ジャンプをして掴まり、その体重を利用してギーイという音をさせながら扉を開けた。服や小物が散らかった部屋の中を横切り、ベッドへと一直線に向かう。足に力をため、布団の中央あたりに飛び乗ると、「ぐぇっ」とうめき声と共に、払いのけようとする手が飛んできたが、それを身軽に避けると、軽快にベッドから降りて部屋を出ていく。

 向かいの扉も同じように開けて入り、布団からはみ出たパーマのかかった髪を噛んで引っ張る。「痛ぁっ」という声をよそにその部屋を後にした。

 さらに隣の扉にアランが目を向けると、その扉が開く。全身灰色のスウェット姿でしかめっ面の耕造がさらにしわを深くして足元を見やり、お互いじっと動かず数秒目を合わせる。先にアランがふいっと踵を返し、台所へと戻った。


 アランの入った扉が次々と開き、気分が悪そうにティーシャツの上からお腹をさすっているカンナ、ネグリジェの袖で目を擦っている瑠璃子が廊下に現れ、耕造に続いて廊下の洗面台で顔を洗い、台所へと入っていった。


「おはようございます」


栞のコロコロとした鈴の音のような明るい声とは裏腹に、カンナは機嫌が悪そうで、


「……はよ」


棚の上に乗ったアランをちらりと見上げるが、アランは涼しげな顔をしている。


「もー、鍵つけてよぉ」

「どうしたんですか?」

「おはよぉ。アランがねぇー」


 瑠璃子の話を聞きながら、各々席に着く。

 六人掛けのテーブルには四人分のご飯、みそ汁、焼き魚、漬物、湯飲みが並ぶ。洗い物をしていた栞は手ぬぐいで手を拭き、割烹着を脱いで椅子の背にかけ、最後に席へと着いた。


「いただきます」


 栞に続いて各々声を出し、箸を持ち始める。栞は袂をおさえながら湯飲みに手をのばし、


「耕造さん、お風呂場の戸が開けにくくなっちゃったんですけど、また調整してくれます?」

「やっとく」


 耕造は焼き鮭の骨を、目を凝らしながら見る。目頭を押さえていると、瑠璃子が指を差した。


「もー、年じゃない。やめてよぉ」

「体は動くんだからいいだろう」


 白髪交じりの頭を撫でながら一瞥をくれる。


「それはそうだけどぉ。でも、残しちゃだめよ。栞ちゃんのご飯おいしいんだし」

「そうですよ。ちゃんと食べてくださいね」

「……分かってる」

「あ、今日私、龍臣さんとデートないから出られるわよ」


 カンナは金髪のショートヘアを束ねながら、


「あたしバイト」

「皆さん、分かってると思いますけど、時計忘れないでくださいね」

「分かってるわよぉ。ねぇー?」


 耕造が小さく頷く。

 壁にかかっている木彫りの鳩時計がもうすぐ六時を示していた。


          *


 秒針がゼロへと移動し、八時を示した目覚まし時計が頭の上で小さく鳴り始めるが、大晴(たいせい)はぴくりとも動かず幸せそうな寝息を立てている。ドアの横にあるハンガーラックには、紺色のブレザーや教科書のはみ出た学生鞄がかかっていて、カーテンの隙間から差し込む朝日がそれらを照らしていた。


 だんだん音が大きくなる電子音が階下に響き始め、リビングにも届き始める。


「今回は自信あるぞぉ」


 父の博は眼鏡の奥を光らせて不敵な笑みを浮かべ、食べ終わった食器の前で新聞をめくった。電子音は十分リビングにも聞こえてくるが、耳を澄ましても階段を降りる足音は全く聞こえてこない。

 母の真千子は食器を下げ、空いている席にフレンチトーストやサラダの乗った皿を並べつつ、博に冷たい視線を向ける。


「起きないわね」


 博はおどけた調子で、


「おかしいなあ」


 新聞で真千子の厳しい視線を防ぐ。


「一応ちょっとは高かったんだぞ、あの時計」

「本当かしらね。当てにならないんだから」


 博はわざとらしく咳払いをする。スーツ姿の兄の湊が席を立ち、


「今日飲み会あるから遅くなるね」


 キッチンで洗い物をする真千子が、声を張り上げて、


「帰りはどのくらい?お父さん、大晴呼んできて。もう時間だから」

「今のところ分からないから先寝てて。大晴は俺が起こしてこようか」


 湊がドアノブに手をかけて振り返ると、真千子は顔を上げて、


「そうして」と、言い放った。


 一段ごとに急速に音に近づく感じがしながら階段をのぼり、湊が音の聞こえるドアを開くと、一気に大音量を浴びた。耳を塞ぎながらベッドの前まで近付き、大音量に負けじと、


「大晴、俺がフレンチトースト食べていいかー?うまいんだけどなあ」


 大晴の耳がピクリと動き、目をぱっちりと開いて勢いよく起き上がる。


「食べるっ」


 大晴は軽やかな足音をさせて階下へと降り、リビングのドアを開けた。


「お、起きたな」

「本当にフレンチトーストだ!俺の好きなやつ」


 席につくと、すぐに目の前にスープが置かれた。きつね色にこんがりと焼かれた厚いフランスパンにたっぷりのメープルシロップをかける。


「はいはい。食べて」


 キッチンに戻った真千子は、食器乾燥機に食器を並べていく。

 遅れて入ってきた湊は上着を羽織り、


「俺もう出るね」

「はい、いってらっしゃい」


ドアがばたんと閉まった。


          *


 駅の改札口へと到着すると、上り線の電車が後一分ほどで到着するところだった。大晴は改札を通り、肩にかけている学生鞄を背中に回して階段を駆けのぼる。

のぼりきるとホームのベンチにいつもの見慣れた制服姿を発見した。悠々と腰掛けているガタイの良い男子が、耳にイヤホンをつけ、腿に肘をつき単語帳をめくっている。近付くと、こちらに気づきイヤホンを外した。


武智(たけち)、おはよー」


 単語帳から顔を離した武智は大晴と小学校の頃からの友達で、趣味・嗜好はあまり合わないのに、何となく気が合うため何だかんだずっと一緒にいる仲だ。


「おす」


 武智の隣に腰を下ろし、ホーム屋根の先に広がる青空から武智の手元にある単語帳に目を移し、


「……今日小テストとかあったっけ」

「ないな」


 無表情かつ平坦な態度だ。


「じゃあ、なんで勉強してんの?」

「こういう日々の積み重ねが大事なんだよ」

「えらいなあ」

「俺は部活もあるからな」


 短髪の頭を掻き、武智は上着のポケットに単語帳をしまい込む。


「剣道部って勉強も厳しいんだっけ?」

「そういうわけじゃないけどな。時間のある時にしておいた方がいいだろ」

「なるほどねー」

「お前もさぼんないでやったほうがいいぞ」

「もう少ししたらね」

「まあ、いいけどな」


 アナウンスが鳴り、席を立った大晴と武智は短くできた列に並ぶ。風を切って電車が進入し、少し遅れた春の冷たい風が二人の体を突き抜けていった。

 


 駅の改札を抜けると、ちらほらといる紺色の制服姿が東口の方へ流れていった。

「弁当買いに寄ってもいいか」

「いいね。俺も買いたい」


 大晴と武智はサラリーマンたちに混ざり、西口へと向かう。階段を下りて外に出ると、風が吹き、大晴は首を縮こまらせた。


「風寒いねー」

「そうか?」

「こんなに暖かそうなのになー」


 大晴は羨ましそうに雲ひとつない空を見上げた。


 駅を出てコンビニやいくつかの商店を通り抜ける。裏道に入るとすぐ目に飛び込むカラフルな花屋の隣に『弁当屋でん』があった。駅から徒歩一分ほどであり、安くてボリュームのあるところが売りなので、他の学生にも人気が高い。

店の前にはすでに他校の生徒やスーツ姿の人がいて、なかなか賑わっていた。人だかりは隣の花屋までは浸食していないが、そちらは開店準備中らしく、店員が店の外にある脚立型の花台に、花束の入ったバケツや小さな鉢を並べていた。


弁当屋の前の集団に混ざって品物を物色し始める。大晴は、客たちの隙間からのぞいて唐揚げ弁当へと手をのばし、レジへと進んだ。お金を払って集団から外れると、武智がすでにレジ袋をさげて待っていた。


「早くね?こんなに混んでんのに」

「隙間を見つけるんだよ」

「武智、達人じゃん。俺も剣道やろっかな」

「道のりは長いぞ」


マーガレットやバラ、アネモネなどの花が並んだ花屋の前を通り過ぎると、店の中から短い金髪を束ねた女性がバケツを持って出て来た。


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