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目を開くと、正面に見慣れた天井があった。
正確に言えば、天井の手前にはロフト部の出っ張りがあって、何故そうなったのかは分からないのだが、ウミウシのぬいぐるみがお腹をはみ出し、雪翔のことを覗いている。
ウミウシは、意思を持った生き物のようにのそのそ傾くと、足場を失くして急降下。ツノのような触角は真下に向けられ、雪翔の顔面目掛けて落っこちてくる。
起き抜けの頭では避けようと思っても身体が動かない。
顔にごつんとぶつかって、壁際の方に転がっていった。
「おぅふ」
遅れて薄いリアクションを取れば、今度は右腕の方で何かが動くのを感じた。
視線だけで確認すると、白い髪の少女が頭をベッドに乗せて眠っており、物音に反応して、ぴくっと肩を揺らしている。
その初動だけが緩慢で、それから一息で顔を上げた。
座ったままうたた寝していた様子の彼女は、一も二もなく雪翔を見やり、それから思い切り顔を顰める。判別付きにくい表情は、怒りも内包しているようで、目付きが鋭く細められていた。
「お、おはよう?」
怒られそうな気配を察知しつつ、取り敢えず一言声を掛ける。
そうすれば、彼女は無言のまま高窓の方を顎で指した。
そこには外の暗がりが映り込んでおり、月灯りも通さない。
そもそも円盤型のシーリングライトは、目が眩む程の輝きを放っていた。
「え? 今何時?」
「夜中の二時です」
「おぉ……。疲れて寝ちゃってた、のか?」
帰宅してからの記憶は朧気で、どうだったろうと首を傾げる。
仮に、一回りも華奢な少女にベッドまで運ばれていたら、相当恥ずかしいのだが、杏鶴はそれについては答えず、表情に影を落として神妙な面持ちを見せた。
「……覚えていないのですか?」
「え? 何を……?」
「あなたは帰宅直後に倒れて。病院に運ばれたんです」
「はぁ……? 俺が病院に運ばれた……?」
「栄養失調だった、と。あなた自身。自覚症状があったのでは?」
「まぁ。多少腹は減ってたかなぁ?」
「多少の範囲で倒れたりなんてしません。最後に食事を摂ったのは何時です?」
「あー。いつだったっけ? いや。っていうのは冗談でー」
指折り数えようとして、視線の圧に冷や汗を流す。
慌ててはぐらかそうとしたけれど手遅れで。
おもむろに立ち上がった杏鶴は、言い淀む雪翔に、中身が空っぽの冷蔵庫を見せてきた。
「ほ、ほら。俺には健康パンがあるから……っ!?」
「おかしいですね。数は減っていないように見えますが?」
「んなっ……。まさか覚えてるのか?」
「えぇ。勿論です」
「すんげぇ記憶力だな……」
そうなってくると、言い逃れも難しい。
雪翔が料理をしない人間であることは当にバレている。
「杏鶴がさ……」
「私が?」
言いたくないが、彼女は退いてくれそうにない。
怒られる覚悟を決めて、たどたどしく説明を始める。
「杏鶴が行き場もなくて。どっかで行き倒れたりしたら。俺のせいだろ?」
「……責任の一端がある自分は、同じ目に遭うべきだと?」
「そ、そこまで考えてた訳じゃないけど……」
「身勝手な罪悪感の証明はやめてください」
冷蔵庫の扉をパンっと閉めて、雪翔を睨みつける杏鶴。
仲直りしたばかりだというのに、早々にして空気が悪い。
怒られると分かっていたが、彼女の迫力に耐えかねて、自然と正座をしてしまう。
「そんなことされたって許しませんから」
「……うん。すまん」
これは、雪翔の自己満足でしかない贖罪だ。
当然、誰にも語るつもりはなかったけど、詰めが甘かった。
気が抜けた拍子に、緊張の糸が切れてしまったらしい。
「マジで反省してます……。はい……」
後悔に苛まれつつ、顔を伏せると、彼女がゆっくりと近付いてきて。
震えた声が耳に届く。
「……死んじゃうのかと思いました」
その声色に顔を上げれば、杏鶴が唇を噛んでいる。
瞳の端に光が反射して見えるのは、雪翔の気のせいではなくて。
堰を切って溢れ出した想いが、寸でのところで耐えようとしていた。
「ばか。大丈夫だよ。杏鶴の飯をもう一回食べるまでは死ぬつもりない」
こんな無茶をしておいて、安心させられるようにニカッと笑う。
元気な姿を見せるためにも、ベッドから起き上がろうとするが、全身に若干の浮遊感が残っていた。やせ我慢をしても、万全ではない体調が邪魔をする。
「……そんなことを言うなら何も作りません」
「えぇー。今のは仕方ないですねーの流れじゃないのか」
「ふん……」
「お腹減ってるんだけどなぁ」
「駄々を捏ねられても。冷蔵庫には何もないですし」
「あ。そうだった。どのみち今日は無理か……」
こんな時間帯では買い出しにもいけない。
体調のことを考えても、今は安静にしておくべきだろう。
「店が開いたら色々買ってくるから。……そしたら。いいか?」
「……今日の分を作ればいいのですね」
「いやっ! できれば明日、明後日も頼む!」
「それ。毎日ってことじゃないですか」
「おう! 末永く俺のご飯を作ってくれたら助かる」
「はぁ……。本当に。仕方のない人ですね」
そう溜息を吐いて、杏鶴が後ろ手に手を組む。
半ば呆れた様子の彼女だったけど、踵を返すその所作は、まるでステップを踏んでいるかのような華やかさで。
雪翔は強く、惹き付けられる。
「作ってはあげます。料理は好きになってしまいましたから」
「はは。ありがてぇ。旬の献立を頼むぞ。秋らしい奴をさ」
「注文が多いですね。……参考程度ですが。例えば何です?」
「うーん。炊き込みご飯とか食いたいかな。キノコとかさつまいもの入った」
「好きなんですか?」
「ああ! ご飯ものに外れはないんだよ。そぼろ丼とかも良い」
「浮気ですね。健康パンが泣いていますよ」
「ダイジョーブ。ダイジョーブ。この後食べようと持ってるから」
「そんな都合のいい時だけ使うみたい……」
杏鶴が若干引きながら、スマホを取り出して、何かを調べている。
今日の夕飯は期待してもいいのかもしれない。
いや。今日だけではなく。これから彼女が作ってくれる物には楽しみしかない。
「杏鶴」
「はい?」
「おかえり」
「……さっきも聞きました」
「あれ? そうだったっけ」
「それに病院から帰ってきたのはあなたの方です」
記憶がないので実感がない。
思えば、救急車を呼んでくれたのは、杏鶴だったのだろうか。
「そういや。俺を病院に連れてってくれたのって?」
「救急車に付き添ってくれたのは鹿奈さんと百瀬さんです」
「え……。俺の知らない間にそこが知り合いになってる?」
雪翔の与り知らない所で、友人と同僚が顔を合わせてしまったらしい。
別に問題はないけれど、言いようのない気恥ずかしさがある。
「苦情は受け付けません。私だって必死だったんですからっ」
「そ、そうだよな。全然文句はないよ」
「有坂さんも後から連絡をくれてます」
「お、おぉ……。手当たり次第に連絡してるな」
「何ですか?」
「謝る相手が増えちゃったなって……」
その三人には、後日改めて謝罪をしなければいけない。
もれなく全員に怒られる筈なので、今から気が憂鬱だ。
「じゃ。まぁ。病院で点滴でも打たれて、その後家に返されたのか」
「そうだと思います。私はここに居たので詳しいことは分かりませんが」
「ふむ。思い返してみると。そういう夢を見た気がしなくもないな」
「……受け答えはしていたと言っていましたが?」
「うーん。言われてみると? 何か会話をしたような?」
「早く家に帰らなきゃいけないと。そればかりだったようで」
「……記憶にねぇ」
「そんな状態になるまで無理を……。こんなことは二度としないでください」
「わ、分かってるから。怒らないで!」
「怒ってません!」
「怒ってるじゃんか!」
間違いなく、怒っている時の顔をしている。
彼女の硬くて分かり難い感情の機微も、少しは分かるようになったのだ。
「ほら。約束するから」
口だけにはならないように、右手の小指を彼女に差し出す。
「もし破ったら。百日間ピーマン食べる」
「いえ。千日で」
提示した条件を十倍に膨らまされて、返事えお前に指が取られる。
絡められたか細い小指は力強く、決して逃げ出すことがないように捕まえられていた。
「うえぇー!? いやだなぁ……」
「約束に対する意識が低いですね。勢い任せの出まかせですか?」
「そういう訳じゃなくてっ。三年は幾ら何でもじゃない?」
「では、通説通り。針千本にしましょう。可能な限り大きな」
「分かった。分かったよ……。約束破ったら。ピーマン千日生活をする」
「あなたが有言実行すればいいだけの話なのですから。我儘言わないでください」
ぶっきらぼうに言い放たれ、右手の自由も奪われる。
杏鶴はしばらく無言で雪翔の右腕を振り回した後、じっと目を合わせてきた。
「歌う?」
「歌いません」
「指切りげんまん嘘吐いたら針千本のーます。指切ったっ」
「……契約成立ですね」
そう宣言しても、彼女は指を離さずに、グイッと胸元に引き寄せる。
力が抜けていた雪翔は、そのまま簡単に引き寄せられて、杏鶴と正面から向かい合った。
切れ長の瞳が確かな温もりを携えて、雪翔のことを見下ろしている。
そうして、弾んだ声を紡ぐのだった。
「雪翔」
「ん?」
「帰ってきました」
「……うん。そうだな」
「ただいま、です」
「何度だって言っていいよな。おかえり。杏鶴」
ここまで読んでいただきありがとうございます。
二人の物語はまだまだ続きますが、ここで筆を置かせてください。
応援のほどありがとうございました。




