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エピローグ

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 心地良い風が、背の高いビルの隙間を吹き抜けていく。

 気が付くと、空には濃紺の墨が引かれていて、触れる空気に寒さが混じった。

 ジメジメとした湿気がなければ、もう相当秋めいていて、真夏日が続いていた反動もあり、より一層寒々しく感じる。


 そんな中で、雪翔の身体は確かな熱を持っていた。


 柚鳥家を後にして、一時間近く経っただろうか。

 何を血迷ったのか、電車もバスも使わずに歩き続けて足が痛い。

 鳩吹く風に冷まされても、額には汗がじんわりと滲んでいた。

 腹を圧迫されたような空腹感も相俟って、今にも体力が突きてしまいそう。

 

 途中、商店街の近くを通り掛かったのも良くなかった。

 賑やかな歓声と、飲食店のジャンキーな香りが、一本入ったアーケードから漏れ出していて、雪翔のことを誘惑してくる。


 焼き肉のタレの匂いか。

 ラーメンのスープの香りか。


 どちらでもいい。

 今は、ガッツリした物をかき込みたい。


 そう思いながらも、不思議と商店街の方に足を向けようとは思わなくて。

 重い身体を引き摺りつつ、自宅へ続く道を行く。

 徒歩で帰る手段を選んだ癖に、気が急いたように帰路を急いだ。

 

 通りすがりに大通りを見れば、酔い潰れた上司がタクシーに詰め込まれている。

 大学生らしき集団は、どんよりとした雰囲気で、細道の方へと消えていく。


 もう随分といい時間だ。


 それでも、中央通りの三車線はひっきりなしに車が行き交っていて、この街で生きる人々の活気を感じさせた。しかし、それも、高松駅の駅舎が見え始めた頃には落ち着き始め、多少の人だかりが確認できる程度になる。


 駅前広場も幾らか騒がしくはあるけれど、商店街の様子と比べれば大人しいもので、若者よりも仕事帰りのサラリーマンが多い。

 ぐったりとした表情は、雪翔にも通ずるものがあるだろう。


 ワイシャツ姿で方々に散る彼らの背中は、少しだけ肌寒そうに見えた。

 

 九月もあと数日で終わる。

 社会人になれば、そこに特別な感慨もないが、今年が残り三か月で終わってしまうことについては恐ろしくて仕方がない。


 年を追う毎に時間の経過は早くなっていく。

 何も為さねば、為さぬまま。あっという間に終わる一年。

 運動会も文化祭も。舞台の公演も。雪翔のカレンダーからは消えてしまった。

 在るのは仕事と仕事の繰り返し。

 実に退屈で、眠たくなるくらいに安定した日々を過ごす。


 そんな人生を自分で選択したのに、物足りないと思う我儘さ。

 憧れは、いつまで経っても忘れられない。


 瓦礫に埋もれた暗がりで、一筋の光が差し込んだことを。

 夜が更けるまで笑い転げた、生涯で一番の舞台のことを。


 今も雪翔は、夢を見ている。

 自分が、困っている誰かを救う。

 ヒーローにはなれないかと。


 ただ、夢とは往々にして挫折が付いて回るもの。

 そう上手くことは運ばない。

 力不足である実情も、今回の件で痛感した。

 

 正義のヒーローを目指すには、どうやらブランクがあるらしい。

 そもそも、雪翔はヒーローになる以前に、囚われの姫役が多いのだ。


「ひったくりだ!」


 突然、誰かの叫び声が聞こえてくる。


 雪翔は初め、それを真に受けることができなかった。

 気もそぞろで、声が遠くに聞こえたせいもあったかもしれない。

 そうではなくても駅前には交番があって、悪事を働く環境としては最悪だ。

 何かしらの撮影なのではないかと推察する方が賢明で。


 しかし、身構えない訳にはいかなかった。


 出鱈目に響く足音は、刻一刻と近付いてきている。

 これから何が起きるのか。

 予感めいた感覚があって、不運な男は、ゆっくりと振り返った。


「は……?」


 見れば、黒尽くめの男が、不自然な態勢で宙を舞っている。

 その姿は、逆ぞりのような形でくの字に曲がっており、顔を認識するよりも早く、体一つ分隣りの地面をゴロゴロと転がっていった。


「……えぇ!?」


 不幸に見舞われかけたが、何故か既に解決している。

 その光景にも覚えがあって、一拍の後に、小気味良い着地音が聞こえてきた。


「間抜けな顔ですね」


 どよめく周囲の雑音を一閃する。澄み切った声音。

 それは一見冷ややかで。なのに、何処か弾んでいる。

 かと思えば、ぷいっとそっぽを向いて、唇の先を尖らせていた。


「……なんと声を掛ければいいか悩んでいた訳ではないですから」


 あまりにも早すぎる対応は、そういうことだったらしい。

 柔らかさを感じさせる音色は、雪翔の口角をも弛ませる。


 そのタイミングで、


「あそこです! 急いでください!」


 野次馬のように二人を囲む、誰かの声が聞こえてくる。

 緊迫感を伴った口調は、誰かを案内しているようで、人混みの隙間に紺色の見知った帽子が見えた。


 またしても事情聴取を受けなければいけない。

 きっと、それは今回も自分だけなのだろう。


 そんなことを考えていたら、手を強く握られる。

 

「えっ」


 そのまま駆け出した、ジャージの少女に引っ張られて走り出す。

 初めはたたらを踏んだって、すぐに歩調は重なった。 


 駅前広場を風のように駆け抜けて、行きつけのコンビニの前を通り過ぎ、街灯の減った暗がりの住宅地を疾走する。


 そうして、見えてきたアパートの階段を、二人分の足音が慌ただしく上っていき、玄関の扉を開いたのは、果たしてどちらだったろうか。


 なだれ込むように部屋の中へと転がり込んで、何かに躓き、バランスを崩す。

 今も手を繋いだままだった少女も巻き込んで、背中を強く廊下に打ち付けた。


「いったぁー……」


 ドタバタと近所迷惑な音を出して、掠れた声が吐息と混じって漏れていく。

 咄嗟に庇った杏鶴の身体は、雪翔の腕の中に納まり、小さく縮こまっていた。


「どっかぶつけたりしてないか?」

「……大丈夫です。鼻が潰れそうになりましたが」

「そっか。それくらいならよかった」

「全然よくはないですけど。あと……、近いです」


 雪翔との密着を嫌がって、もぞもぞと動く杏鶴。

 すぐにでも立ち上がろうとする彼女を繋ぎ留めるのは無意識で。

 少しずつ狼狽え始めた気配を、遠退く意識の中で感じた。

 

「杏鶴」

「な、何ですか?」

「おかえり」


 そう言って、視界に蓋をする。

 世界が急速に閉ざされていく。


「え。雪翔……?」


 その中で、少女が名前を呼ぶ声が、何度も何度も響いて。

 腹に巣くう偏食な虫が、豪快な唸り声を鳴らすのであった。





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