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「いってぇ……」
「動かないでください。冷やしますから」
「うぅっ。冷たっ」
真っ赤に腫れた右頬に冷たいタオルが押し当てられる。
水で濡らされたそれは患部の熱を冷まし、少しだけ痛みを和らげてくれた。
「何か血の味がするんだけど……」
二度も思い切りビンタされて、口の中が切れているような気がする。
本当に加減を知らないようで、痛みが完全に引くには、数日時間が掛かりそうだ。
「律儀に受け止めるからそうなるのです。どうして避けないのですか」
「いやっ。目にも留まらぬ早さ過ぎて避けるとか無理だったんだが……?」
動きに無駄がなく、躊躇いもないから、身構える余裕もなかった。
気付いたら無様に倒れ込んでいたし、暫く立ち上がれなかった次第である。
「それに。避けたら避けたでもっとキレられてただろ」
平手を華麗に躱して、千隼の気が済むとは思えない。
自棄になって、フライパンでも出てきたら笑えないのだ。
初対面ながらに、彼女は後先考えないタイプの人間だと確信している。
「まぁ。正直? 甘んじて受け入れたところもあるかな。これが大人の交渉術だよ」
雪翔を殴り倒して満足したらしい千隼は、リビングから消えている。
歩鷹ともう一人いた少女も、知らない間にいなくなっていた。
今、リビングに居るのは、雪翔と杏鶴の二人しかいない。
「参考にしてくれてもいいぞ」
「嫌です。頼まれてもいないのに。誰かの身代わりになるなんて」
「あははは……。手厳しいなぁ」
棘のある言葉をはぐらかそうとして、乾いた苦笑いが漏れる。
手当てをしてくれる彼女に気が弛んでしまったけど、彼女との確執は未だ健在。
仲直りはできていない。
それを思い出した瞬間に、緊張感が戻ってくる。
杏鶴の表情も、硬さを増したような気がした。
「……」
「……」
柔らかいカーペットの上に手をついて座る雪翔の正面で、杏鶴が神妙な面持ちを浮かべる。右手に持っていたタオルは胸元に引き寄せられ、膝立ちの状態で雪翔のことを見下ろしていた。
「どうして……。私のことを庇ったのです?」
本心を探るような冷めた質問。
或いは、迷惑だと突き放さんとする拒絶。
けれど、伏せられた瞳には、物言わぬ哀愁が漂っていた。
「どうしてかなんて……。そりゃ。こうなっちゃうからだろ」
名誉の負傷を指差して、彼女に見せる。
指先が振れると痛みが広がり、思わず左目を閉じてしまった。
「杏鶴のモチ肌だったら。青アザになってたかもしれない」
目に付く痕が残ったかもしれない。
白い肌の中にあっては、余計に痛ましく見えたことだろう。
「女の子には酷な話だ。怪我がなくてよかった」
あの瞬間に、そこまで考えられていた訳ではないけど。
咄嗟に身体が動いたのは、そんな理由だと思う。
もっと簡潔に説明しなければ伝わらないのであれば。
「単純に。杏鶴が傷付く姿を見たくなかっただけだよ」
それ以上でも、以下でもない。
「どうして。私なんかのために……」
「なんかじゃねぇ。杏鶴だからだ。こんなもん本当は痛くもないしな」
「……うそ」
「嘘って言うなよ。方便ってやつだ」
「今度は屁理屈」
「あはは。えーっと……。杏鶴はこういうの嫌いか」
のらりくらりとした物言いも、雪翔の独りよがりでは伝わらない。
二人は、まだ出会って二週間しか経っていないのだから。
「私は分からないのです……。ちゃんと言ってくれなきゃ。分からないです」
彼女は、ずっと理解したかった。
知らないことは、凄く怖いことだから。
雪翔が、どんなことを考えて、どんな思いで行動するのか。知りたかった。
そんな彼女の想いを疎かにしたから。二人はすれ違ってしまったのだ。
「……そうだな。杏鶴の言う通りだ」
唯一の同僚も厳しい言葉で教えてくれた。
同じ過ちを繰り返すことは許されない。
必ず。心に届くように。
抱えた想いが伝わるように。
「誤解を恐れず言うんだったら……」
少しくらいならば、創作めいた発言をしたっていいだろう。
「俺が。杏鶴のことを好きだからだよ」
淀みなく、恥ずかしげもなく、ぶつけたい言葉を言い切った。
そうすると、
「……へ?」
杏鶴は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で固まってしまう。
「誤解はしないでくれよ?」
そう念入りに付け足して、一秒、二秒と待ってから、緩慢に動き出す杏鶴。
「ロリコン?」
「ちげぇよ」
やはり、誤解は避けられなかった。
想いを伝えるのは難しい。
「紛らわしいことを言わないでください。通報するところでした」
「この状況だとマジで捕まるから止めてくれ」
「……女子高生相手によく躊躇いもなく言えましたね」
「ふっ。女子高生だからとか関係ないぞ」
「何を格好つけているんですか」
「男はいつだって格好付けたがる生き物なんだよ」
「そうやって。いつか身を滅ぼすのでしょうね」
「お、おい。怖いこと言うなよ」
先行き不安なことを言って脅かしてくる杏鶴。
只ならぬ説得力に雪翔が怯んでいると、彼女は真顔で続けた。
「女は、怖い生き物ですから」
「ひえっ……。いや。待て。割と知ってるな?」
思わず、空気に呑まれかけたが、元より被害には遭っている方だ。
今更だと言えなくもない。
「災難な人生を送っているようで。御愁傷様です」
「ばか。こういうのはいつかより戻しがくるんだよ」
「叶えばいいですね。叶わない夢」
「こら。俺の未来を諦めるな」
明るい展望を描く雪翔に、水を差してくる杏鶴。
そんな彼女に顰めっ面で吠えたら、タオルで口元を隠して、確かに「ふふっ」と笑みを漏らした。
「……笑った」
弾んだ声に心の底から安堵する。
その口角を隠したって、目元は間違いなく和らいでいて。
呆けた顔をして見つめていたら、杏鶴は耳を赤く染め、慌ててそっぽを向いてしまう。
「い、今のはちがっ……」
取り乱しながら言い訳を始めたところで、雪翔には聞こえない。
頭の中を渦巻いていたモヤが晴れ、勢い任せに身体が動く。
赤い瞳に近付けば、自分の表情さえも覗き込めてしまいそうで。
思いがけずに伸ばした腕が、杏鶴の手のひらを強く握った。
「ごめん」
それを言わなきゃいけなかった。
彼女は、誰でもない雪翔に。心を開いてくれたのだから。
「……何がごめんなんです?」
「杏鶴のことを人任せにしようとしてごめん」
「他には?」
「杏鶴の気持ちを聞かなくてごめん。厄介事って言ってごめん」
「……まだありますよね」
「そうだなぁ……。本当に、マジのガチでごめん」
「早々に出尽くしてるじゃないですか」
「いやっ。ちょっとだけ時間をくれたら出てくる筈!」
「捻り出さないといけない時点で駄目でしょう。もういいです」
「そ、そんなぁ……」
「……私も。ちゃんと言葉にできそうにはないですから」
難しい宿題に頭を悩ませるような表情で、杏鶴は言う。
それから、雪翔と視線を合わせると、角の取れた笑みを浮かべた。
「……そうか」
勤勉な彼女が言うのだから。
それは本当に、言語化できない想いなのだろう。
無理矢理言葉にしようとすれば、別の解になってしまう。
複雑で、曖昧な謎掛けのような。
「それじゃ……。その分はツケといてくれ」
答えを急かす必要もない。
「いつか。利子付きで返すよ」
そう言って、中途半端に握られた彼女の指を丁寧に開いていく。
その細く、柔らかい手のひらに、一回り大きな自身の手のひらを重ねた。
「え? これは……」
「好きに使ってくれたらいい。遠慮は無用だ」
「……女子高生に自宅の合鍵を渡すなんて。ふしだらです」
「如何なる時でもパンツだけは履いて待ってるから」
「はぁ……。嫌なことを思い出しました」
「やべぇ。余計なこと言ったっぽい」
「あなたの駄目なところですね。ばーか」
そうして、最後に失言をした雪翔を、杏鶴は思い切り笑ってくれた。




