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杏鶴の部屋は物が少なく、実に簡素な印象を受けた。
特別目に付くのが、勉強机の棚に整列されている参考書ぐらいで、彼女の人となりを感じさせる物はかなり少ない。必要最低限度の物だけが置かれた空間は、ともすると雪翔が用意した、ロフトよりも寂しげである。
彼女の私服姿も初めて目にする機会となった。
その恰好は、見慣れた英蓮の制服でもジャージ姿でもなく、ゆったりと着られる黒のカットソーと、足首丈のワイドパンツだ。
どちらも無地だが、それ故に本人の素朴な魅力が映えている。
男物のシャツでは分からなかった、女性らしい身体のラインも顕わになっていた。
「元気そうでよかった」
部屋の中央で立つ杏鶴にそう声を掛ける。
その背中はマネキンのように立ち尽くしていて、返事は返ってこない。
至極当たり前に会話が弾む筈もなかった。
「体調不良だって聞いてたけど。もしかして仮病か?」
「よくそんなことまで知っていますね」
「あの手この手で調べたからな」
「モラルを疑います。あなたも。個人情報を漏らした学校側も」
「悪いとは思ってるが、杏鶴も悪いから同罪だ」
「責任転嫁をしないでください。あなたのことなんて知りません」
心の底から鬱陶しそうに吐き捨てる杏鶴。
その声のトーンが、機械的な歩鷹によく似ていた。
肩の動きだけで、彼女が溜息を吐いたのが分かる。
それは、執拗な雪翔に対する呆れだろう。
普段であれば気にしない。けれど、今は少しだけ心の中にさざ波をたてた。
明言された拒絶に嫌でも痛感する。
雪翔の行動が、彼女が望まない、身勝手な感情の発散でしかないことに。
それを噛み砕いた上で、一歩踏み出す。
「……嘘吐いて。学校まで休んでるんだってな」
雪翔が黙る訳にはいかない。
「自分を棚に上げて説教ですか」
「そんなつもりはねぇよ。確認だ」
「全く持って意味のない会話です」
「ある。杏鶴と話していることに意味がある」
もう二度とないのかもしれないと思っていたから。
「それに。理由次第では俺は謝らなきゃいけないだろう」
そのための確認だ。
杏鶴は何も言わない。
続けて、雪翔が口を開く。
「俺の考察だと、杏鶴が俺を避けようと躍起になってる説が濃厚なんだが」
「……躍起になんてなってません。自意識過剰な人ですね。恥ずかしっ」
「違ってたらガチで恥ずいけど」
あくまでも彼女は認めない。
白々しい口調でもって、的外れだと嘯く。
あまに信用できないが、これ以上の押し問答に意味はないだろう。
杏鶴に本心を話すつもりがない。
「杏鶴も……、嘘吐けるんだな」
「私のことを聖人か、箱入り娘だとでも思っていたのです?」
「思ってたのかもしれない。意外と素直なところあるし」
「うるさいです」
「気まぐれで内申点に響くようなことして。らしくもない」
「……うるさい」
「兄貴みたいになりたいんだろ?」
言葉にすればするほどに、理想の自分と乖離していく。
これが、雪翔の憧れた英雄の姿だったろうか。
「あなたに……っ! 私の何が分かるんですかッ!!」
抑え付けていた想いを発露し、語気を荒げる杏鶴。
らしくないことをさせたのは、他の誰でもない。
「教師だと騙って不法侵入。見限った相手の前にわざわざ現れて。頼んでもいないことばかり。一体何がしたいのです……っ!」
彼女が息苦しいと言う場所に再び閉じ込めたのは雪翔だ。
「……」
彼女の叫びは、心の奥の奥にまで突き刺さる。
痛みを感じることがお門違いで。恥知らず。
自業自得な雪翔には、訂正する余地もない。
「なぁ。どうしてーー」
だからこそ。受け入れられなくて、内側から弾けそうになってしまう。
「どうして。ここにいるんだよ……」
自分が、彼女を追い詰めた事実に心が張り裂けそうになる。
「何も言わずに出て行ったんだ……っ」
「私は……、自分の居るべき場所に引き返しただけです」
ただ淡々と。感情の殺された答えが返ってくる。
まるで、初めからそう在るべきだったんだと主張するかのように。
夢を諦めた、聞き分けの良い子供のように。
「ここに居ると苦しいから。拠り所を探してたんじゃないのか」
雪翔が彼女を導くことができれば。
前を歩いて、手を引いて、彼女の心に寄り添うことができていれば、こんなことにはならなかった。いや。そもそも今が正しい形であって。気に入らないからと食い下がり、非行の道に走らせようとする雪翔は、悪人以外の何者でもなく。
説得にも満たない暴論では、彼女の心にも響きはしない。
「……あなたには、もう関係のないことです」
ようやく振り返った彼女の表情は、雪翔との決別を告げていた。
「あなたも面倒事から解放されて清々したでしょう……っ」
真っ直ぐに見つめ合った綺麗な顔がぐにゃりと崩れる。
泣き笑いのような歪みに、少しずつ浸食されていく。
「もしそうだったら。こんな所まで来ない」
「……」
「居てくれ。杏鶴の気が済むまで。ずっと」
でなければ、夜も眠れない。
食事も喉を通らない。
二度と英雄になれない。
「……いずれ見放されてしまうのなら。何処に居ようと変わないじゃないですか」
震える腕を抑えながら、決壊した本心を口に出す。
「もういいんです。こんな気持ちを耐えなくちゃいけないのなら。もう」
彼女は、全てを諦めてしまった。
失う怖さに足を竦ませて。
初めから何も要らないという結論に辿り着いた。
その方が何倍も怖ろしいと。彼女はあの日々を経て知ったのだ。
「……帰ってください」
消え入りそうな声で、終わりを求める。
もと来た道を引き返していく。
手を伸ばそうとしても、想いだけでは届かない。
この感情も、言葉も、彼女の目には映っていないから。
「あなたにも。誰にも。二度と迷惑は掛けません。本当です」
これまでだと、目を伏せる杏鶴。
もう何も聞きたくはないとする彼女に、何としてあげればいいだろう。
どうすれば、彼女への想いが伝わるのだろう。
「俺は。迷惑だなんて。一度も……」
答えは浮かばず、そんな言い訳が零れるだけ。
心を閉ざした少女の殻に、触れることさえ叶わない。
「……なん、だ?」
ふと、静まり返った部屋の中に、バタバタと階段を駆け上る、激しい足音が聞こえてきた。
それは、杏鶴の部屋まで近付いてくると、躊躇いなく扉を開ける。
「えっ」
廊下に立っていたのは、長い“金髪”を振り乱す、ニ十歳頃の華やかな女性で。
部屋の中を目線だけで見渡すと、雪翔の奥の杏鶴を捉えた。
雪翔の存在には欠片の興味も示さない。大きな瞳には赤い血管が浮き出ている。
「ちょっと。面貸しなさいよ」
物騒な物言いをする彼女もまた、杏鶴と似た顔立ちをしているのであった。




