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八章【恩返し】
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「杏鶴がいなくなった」
「そう。別れの挨拶もしなかったのね」
「……は? どういうことだよ」
「あの子は、私の所には来ないって」
「え? いやっ……。ちょっと待ってくれ。話が違う」
「そう? どう違うの?」
「おまえは杏鶴の面倒を見るって約束しただろ!」
「あんたとはしたわね。でも、あの子は拒んだ。私はその意思を尊重しただけ」
「……杏鶴は。俺の所にも帰ってこないのか」
「嫌気が差したのかもしれないわね。和泉にも。私にも」
「俺はいい。仕方ない。でも、あいつは神谷のことを信頼してた」
「……そう。それでも。もう嫌だったのよ」
「なんで……」
「分からないでしょう? あんたは知ろうとしなかったから」
「……」
「知らないのって恐いことよ。あんたが平気だったとしても。あの子は違う」
「杏鶴はもう怖がらなくて済むように、私達の前から姿を消したの」
―――――
「俺は杏鶴を……、杏鶴の味方で……」
「ユキト? おい雪翔っ!」
頭の中に声が響いて、飛び跳ねるみたいに身体が動く。
目を開けて取り込んだ光は、視界を白く霞ませて、雪翔の意識を強制的に覚醒させた。
「……なに?」
重たい倦怠感に圧し潰されながら発した声はしゃがれたように掠れてしまう。
そんなつもりはなかったのに、どうやら眠ってしまっていたらしい。
ようやく目が慣れてくると、目の前に旧友である夏の顔があった。
そうすると一気に記憶が呼び起こされてきて、今居る場所が彼の仕事場であることとを思い出す。
若くして彼がオーナーを務める美容院は夕方の時間帯でも開店中であり、間違っても待合室を占領して、居眠りをしていい場所ではない。幸いにも客が入っていなかったのは、夏が気を利かせて、店仕舞いの看板を出してくれていたからだろう。
危なく開店したばかりの店に泥を塗ってしまうところだった。
「おまえの顔色終わってる」
「……気にすんな。その内気絶したように寝る」
「寝ずに活動できんのは二十代前半までだかんなぁ?」
「今仮眠を取ったから暫くは平気だ。そんなことより、何か情報あったか?」
手の甲で瞼を擦り、凝り固まった背中を伸ばす。
仕事中の夏の元を訪ねたのは、何も悪戯や気紛れからではない。
伸びた髪を散髪してもらうためでもなかった。
協力して欲しいことがあって、情報収集を頼むために訪ねたのである。
その成果を、彼は普段よりも少しだけ神妙な顔をして教えてくれる。
「英蓮に連絡はした」
「何て言って?」
「雪翔に言われた通りにさ。柚鳥杏鶴ちゃんって子の学生証を拾ったんだがぁ。まだ下校せずに学校に残ってっかなーって。相手は懐かしの蘭ちゃん先生だったわ」
「知り合いだったなら有難い。それで。久保田先生はなんて?」
「いないってよ。先週末から体調不良で休んでるんだって」
「……先週末か」
それは、彼女が雪翔の家に帰ってこなかったタイミングと一致している。
あの日。朝起きた時にはもう杏鶴の姿はなくて。
日付が替わっても帰ってくることはなく、手当たり次第に夜の街を探したけれど、ついに見つけることは叶わなかった。
「何か事件に巻き込まれた可能性は……」
「欠席の連絡は自分でやってんだろ。事件性は、今のところないんじゃね?」
「……そうか。確かにそうだな」
夏に指摘されて、思考が短絡的になっているのを感じる。
或いは、彼女が帰ってこなくなった理由を、他者に押し付けたいと思う雪翔の臆病さが、視野を狭めているのかもしれない。
杏鶴の行方が分からなくなっているのだとすれば、学校側も誘拐事件として把握している筈だろう。であれば、簡単に情報を教えてくれたりなんてしないし、学生証なんて大きな痕跡が出れば、直ちに警察沙汰になっている。
現状。彼女は、無事であると考えても良さそうだ。
それだけは、きっと、間違いない。
「まぁ。これで校門待ち伏せ大作戦は通じねぇか」
「ああ。ぐぅの音も出ないくらいに対策されてる」
「そこまでするだって。おまえに会いたくないから」
「……やめろ。言うな」
杏鶴に忘れ物を届ける手段は、唯一それだけしかなかったのだが、彼女自らの手で封じられてしまった。
それが意図的なのか。偶然なのかは、考えるまでもないことだ。
「残された手掛かりは……」
言葉に出しながら、次のことを考える。
ポケットの中にある、或る物に触れて、眼前に取りだした。
夏に語らせた内容は、雪翔が捏造した、事実無根のシナリオという訳ではない。
杏鶴の生徒手帳は今、雪翔の手の中にあり、それが彼女の足跡を辿る、ただ一つの希望だった。生徒手帳には、確かな情報として、柚鳥家の住所が記されている。
「俺は。これから。あいつの家に行ってみようと思う」
家出少女の居場所を、他でもない彼女の実家に訪ねて調査する。
当然、堂々と行えることではないし、家出の理由を鑑みれば、姉妹の杏鶴に対する関心は低いのだろう。進展は望めない可能性の方が高い。
そして、明らかに不審だ。
リスクばかりが大きいことは、覚悟しておかないといけない。
「ナツは、その手帳を学校に届けてくれるか」
「あー。これ? おぉーん」
「……忙しい時に面倒に巻き込んで悪いとは思ってるよ」
「別にそれはいいんだよなぁ。ここからだったら歩いて行ける距離だし」
「何か。他に気になることがあるのか?」
「ない訳がないだろ?」
「……訳ないか」
二人の間には、決定的な温度差がある。
それを雪翔も理解していた。
「雪翔さ。もう止めといたら? これ以上深入りすんの」
その言葉で、空気がしんと静まり返る。
おちゃらけた夏が纏う有無を言わさぬ雰囲気に言い返す気力も、真っ当な理由も、今の雪翔は持ち合わせていなかった。
「おまえは昔から。誰彼構わず人助けをしたがる奴だったな。よーく知ってる」
「……」
「自分を救ってくれた、“名前も知らない演劇団”に報いたい。その台詞は何度聞いたかも分かんねぇ」
雪翔が演劇を始めたきっかけである、とある演劇団。
その名前は分からず、今現在活動が続いているのかも定かではないが、確実に雪翔の人生に影響を与え、彼の生き方を定義付けてしてしまった存在。
彼等の喜劇のように人々を笑わせたい。助けたい。救いたい。
そんな劇的な理想を描いて、これまでの日々を生きてきた。
しかし、志半ばで挫折し、自分が平凡な人間であることを知る。
それでも、信念だけは絶やすまいと心に決め、いつか自分が誰かの救世主になれると信じ、ある時目の前に現れたのが、柚鳥杏鶴という少女だったのだ。
「あの子の英雄になれれば、夢が叶えられたか?」
夏の言葉が胸を抉る。
否定はできなかった。
何もかもが図星だった。
雪翔が為したかったのは、あの人達への恩返しで。
杏鶴を介し、疑似的に成し遂げようとしていただけ。
本当の意味で、彼女の心を理解してなどいなかった。
「だけど、結果はこんなもんだ。おまえの傲慢は杏鶴ちゃんを傷付けて、悲しませた。自分のことしか考えられねぇなら。まだ子供のあの子に関わって欲しくねぇ」
雪翔に人を救い出す力なんてない。
寧ろ。無意識に傷付けてしまう。
であるなら、縁を断つべきだろう。
「……ナツの言う通りだ。俺は、あの人達のような光にはなれないらしい」
杏鶴の仮住まいは、一時的な羽休めであると。雪翔はそう口にした。
いつか旅立つ時が来る。そう思っていた。
初めから最後まで面倒をみるつもりなんかなくて、巣立った彼女に追い縋るなんて、酷く矛盾した行動だ。
救いたいのに傷付ける。
手放したのに取り戻そうとする。
まるで一貫性がない。
言葉に責任を持っていない。
雪翔は、杏鶴の嫌いな大人だ。
再び会うことができても、口を効いてくれるか不安である。
ただ、それでもーー。
「俺は、あの子に飯を食わせてやれる」
矛盾していたっていい。
張りぼての正義感だと嘲られても受け入れる。
想いは確かに、あの子を救いたかったのだから。
「杏鶴はさ。俺がどんなに情けなくても帰ってきてくれたんだ」
その意味が、今なら分かる。
だからもう揺らがない。
「もう一回だけ。手を伸ばしてくる」
今度こそ。彼女のヒーローになれるように。




