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「杏鶴? 風呂沸いたぞー」


 会話の少ない食事を終えて、後片付けは雪翔が行う。

 いつもは杏鶴に任せていたのに、今日は自然と名乗り出ていた。

 終わる頃に風呂も貯まり、そう声を掛けてみたが、彼女からの返事はない。


 キッチンタオルで手を拭きつつ、部屋の方に顔を出しても姿はなかった。

 知らぬ間に、ロフトに上がっていたみたいだ。


「寝たのか?」


 控えめな声量で尋ねても、閉め切られたカーテンに動きはない。

 それでも、寝ているとは思えなくて、執拗に声を掛ける。


「あんずー。風呂はどうするんだぁー?」


 彼女の様子が普段とは違うと感じる。

 それが、ただの勘違いだったらいい。


 広がらない会話も。沈み切った表情も。

 全て。雪翔の後ろめたさが見せた錯覚であると。

 

 そう思えたら、どれだけ楽か。


「おーい」


 こんな時でも、いつも通りを演じようとする自分が酷く滑稽に映る。

 同じ声音で。同じ温度感で。自分を、相手を化かそうとする。

 誰かを騙すために、演技を学んだ訳ではないのに。


 繰り出す足は重く、小さな階段が高く感じる。


 一寸先の移動距離にうんと時間をかけて。

 それでも、一分も引き延ばせず、ロフトの床に手が触れた。


 雪翔が敷き詰めたパネルマットに熱はない。

 無機質な質感は、雪翔を一気に不安にさせた。


「……さっきの話だけどさ。杏鶴が不安に思う必要はないんだぞ」


 そうして、聞かれてもいないことを、未練がましく並び立てる。


「仮に鹿奈が厳し過ぎたりしてさ。合わなかったら、帰ってくればいいし」

 

 縺れてしまった糸を、どうにかして解きたくて。


「だから、俺は……」


 けれど、それは、更なるもつれを引き起こし、雪翔の口を固く縫い付けた。


「俺は……」

「……ません」

「杏鶴……?」


 僅かに聞こえた息遣い。

 荒っぽく吐き出された微弱な声は、静寂の中に残滓を残して、雪翔の五感全てを掌握する。


 澄ました耳に、


「それ以上。近付くことは許しません」


 確かな拒絶が聞こえた。


 その境界線を受け入れたくないから。

 カーテンに手を掛けて、力任せに抉じ開ける。


「……っ」


 そして、すぐに後悔するのだ。


 目にしたのは、布団の上で、膝を抱えて座る杏鶴で。

 壁際で蹲る彼女は、ウミウシのぬいぐみるを抱き抱えている。


 俯き加減。垂れ下がった前髪。

 判然とはしない表情に、一粒の雫が流れていく。

 喉は嚥下し、肩は小さく震えていた。


「覗かないでくださいと。言ったのに」


 翌日。杏鶴の姿はなく。

 日を跨いでも、帰ってくることはなかった。





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