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「うーん……」
研究課のオフィスで遅めの昼食を食べる雪翔。
例に漏れず、口にするのは健康パンで。
食べれば食べるだけ、口の中の水分が奪われていく。
喉の渇きを潤したくて、会社の敷地内の自販機で買ったペットボトルに手を伸ばしたが、中身は既に空っぽだった。
このままでは干乾びてしまいかねない。
急ぎ、ウォーターサーバーで何か淹れようと立ち上がろうとして、
「はい。どうぞ」
「あ、ああ。悪い」
対面の座席に鹿奈が座り、紙コップを渡してくれる。
中にはウォーターサーバーの水ではなく、彼女が持参した麦茶が入っていた。
「感謝」
手を合わせて鹿奈を拝み、紙コップに口を付ける。
冷たい麦茶は喉を潤して、緊張感が弛んだように人心地ついた。
「何だかずっと上の空な感じね」
「ん?ー まぁ。ちょっと考え事をな」
「杏鶴のこと?」
「言ってないのになんで分かんだよ」
「それくらいしかあんたが悩む要素ってないじゃない」
「はぁー? 仕事だって頑張ってるんですけど?」
「それは知ってるわよ」
「お、おぉ……」
そんな当たり前のことのように言われると、照れよりも気恥ずかしさが勝ってしまう。思わず頬を赤らめた風に顔を背けたが、鹿奈には相手にもされなかった。
改めて正面に向き直ると、素知らぬ顔で自身の弁当箱を広げている。
「それで? 何があったのよ。喧嘩でもした?」
「喧嘩……、というか。全面的に俺が悪かったと言えなくもないというか……」
「ふーん。自分が悪かったって言う割には、何だか煮え切らないわね」
「い、色々なことが噛み合って起きた事故なんだ。杏鶴にも原因はある、と思う」
尻すぼみに言葉は小さくなっていく。
彼女が、自力で二階によじ登る身体能力を持ち合わせていなかったら起きなかった事件だ。そう思うと、やはり自分の責任ばかりではないように思えてきた。
杏鶴は、今朝も素っ気なくて、行ってきますも言ってくれなかった。
「あの子にも悪い所があったって言いたいのね?」
「俺はただ、風呂上りに寛いでただけなんだよ。……全裸で」
「同居してる女の子がいるのに?」
「ぐっ……。その一点が俺の過失を際立たせてる……」
それさえなければ、何のトラブルも生まれなかった筈なのだ。
「服を着るだけじゃない。それくらいの気も遣えない訳?」
「ぐぬぅ。でもさぁ」
「見苦しい言い訳ならやめてよね」
「……はい」
「仕事でポカして、理由があったら許される訳?」
「それは時と場合によって欲しいけど……、概ね神谷の言う通りだよ」
常に気を張って監視しなければいけない工程で、雪翔は気を抜いてしまった。
犯した間違いの本質は、雪翔の杏鶴に対する無理解が原因だと言えるだろう。
「……難しいな。女子と生活するの」
ここにきて、初めて強く実感する。
どうあっても異なる。価値観の違いに。
「今更。分かり切ってたことを言うのね」
「……一人暮らしが長いもんでさ」
「だから。こうなるまで分からなかったの?」
その言葉には、確かな冷気が籠っていた。
雪翔を非難する、凍て付いた冷気が。
「……」
鹿奈にとっては本当に今更なのだろう。
こうなることを、彼女は初めから予感していたのかもしれない。
「分かってなかったのかもしれないなぁ。俺は。何も」
蚊の鳴くような声で呟いて、紙コップを掴む。
それを喉に流し込んでも、不思議と味は感じなかった。
「いいえ。違うわ」
実感を持って呟く雪翔を、鹿奈は真っ向から否定する。
瞳を据えて、有無を言わせぬ気迫を持って。
「あんたは、また同じ失敗をするでしょうね」
「……それはないと思いたいけど」
「じゃ、和泉にあの子の気持ちが分かるの?」
「いや……」
「そもそも理解しようとした?」
全てを見透かしたように、彼女は言う。
訳あって特殊な例ばかりを見てきた雪翔にとって、女性とは理解の範疇を超えた存在であった。理屈を感情で撥ね除けたり、突然ヒステリックになったりする。
それに対して、一つずつ応えようとすれば身が持たない。
だから、雪翔は、分からないことに甘えて生きてきたのだ。
「今日は滅茶苦茶刺してくるな……」
「杏鶴は賢いから。あの子が言えなかった文句を言ってるだけ」
「……そうか」
思えば、あんなことがあった後でも、彼女が声を荒げることはなかった。
きっと恨み言を言いたかった筈なのに、グッと我慢して、感情を抑えていた。
その理由を、雪翔は考えただろうか。
「これからどうするつもり?」
「どうするって。どういう意味だよ……?」
「杏鶴のこと。今後も面倒見ていくの?」
「そりゃ……。あいつには行く宛がないだろうし」
「私が引き受けてあげてもいいって言ったら。どう?」
「……え?」
あの少女に合う環境は何処だろう。
彼女が気を張らず、安心を覚える環境は。
「……杏鶴を? 神谷が?」
二人は、何度かの交流を得て、仲良くなったようだ。
雪翔も知らない連絡先を交換していて、時々やり取りをしている姿を見かける。
鹿奈は杏鶴を気に掛けてくれていて、杏鶴は同性である彼女を頼りにしていた。
「あんたにとっても悪い話ではないでしょ?」
「俺にとってもだって……?」
「成り行きで始まった関係に固執する必要はないんじゃないかしら?」
「だけど、安易に巻き込むのは……」
「心配は要らないわ。あの子に心中するつもりなんてないでしょうし。手が掛からないことは知ってるもの。経済的な負担は同居人にも賄ってもらう」
あの少女に合う環境は何処だろう。
傷を負った少女が、心を休められる場所はーー。
「部屋も余ってる。セキュリティーに関しても、和泉の所よりはいいかもね」
雪翔は何も知らない。
彼女の好物も、苦手な物も。
自分の意思で、知ろうとしてこなかった。




