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「杏鶴ぅ……。お願いだから出てきてくれないか」
意図せず半裸姿を晒した雪翔。
それを至近距離で目にした杏鶴は、ロフトに引き籠もってしまい、完全にパーテーションを閉め切っている。声を掛けても返事はない。
「俺が悪かったからさぁ」
何度呼びかけても反応がなくて、泣き言のように訴える。
膠着した現状がいたたまれず、いっそ遮蔽になっているカーテンをこじ開けてしまおうかとも思ったけれど、力任せなやり方は、きっと好まれない。
先程の表情を見てしまった以上、慎重にならざるを得なかった。
「さっきのは事故なんだ。誓って悪気があった訳じゃないんだ」
雪翔が配慮に欠けていた。それは疑いようのないことだ。
心の何処かで、彼女であれば、あまり気にしないのではないかと、淡白な反応が帰ってくるのではないかと思っていた。大した根拠もないのに。
雪翔と杏鶴の歳の差は十歳。
高校生の感覚からすれば、おじさんと言って差し支えない年齢差だろう。
彼女には兄がいるけれど、異性の裸には耐性がなかった様子だ。
杏鶴は、恥じらいのなかった雪翔の妹とは違う。
誰もかれもが同じ感覚ではないこと。
雪翔と杏鶴が他人であることに、もっと意識を向けなければいけなかった。
「今はもうちゃんと着替えたから。怖がらなくて大丈夫だぞ」
階段の六段目に足を掛けて、根気よくカーテンに向かって声を掛ける。
怖がらせた自分が、的外れな言い訳を用いて。
「……お腹空いたりしてないか? 一緒に晩御飯にしよう?」
だって、雪翔には、彼女が泣いた理由が分からない。
単純にショックだったのか。
恐ろしかったのか。気持ち悪かったのか。
想像は出来ても、理解までは至らない。
どうしようもなく、雪翔は“少年”の感性のままであった。
「今日はその……、疲れてるだろうし。弁当でも買ってくるよ」
返事がないことに諦めて、一歩、二歩と階段を下りる。
無意識に物音を発てないように配慮し、外行き用のジャケットを羽織ろうと手を掛けたところで間が悪く、ピンポーンっと、インターホンの音が響いた。
「……なんだよ」
こんな時に空気を読んでくれと身勝手なことを思う。
来客の予定なんて取り付けていない。であれば、セールスの可能性が高いのかと、ドアスコープを覗いてみれば、そこに立っていたのは制服を着た警察官で。
「はっ……!?」
否が応にも背筋が伸びる。
それと同時に、嫌な汗が背中を伝っていく感覚を覚えた。
「何……?」
予想外の訪問に、情報が処理しきれない。
何か理由があって、中年の警察官はここにいる。
その理由が気掛かりで、思考が一気に熱を帯びた。
そうしている間にもう一度呼び鈴が鳴って、焦る雪翔を殊更に急かした。
困惑している時間はない。
対応するか否かが頭の中を駆け巡る。
セールスであれば、面倒だからと無視をしていた。
今だって、そうすることが安パイだと言えるだろう。けれど、思考は纏まらないまま、後ろめたさに後ろ髪を引かれて、ゆっくりとドアノブに手を掛ける。
「……はい?」
扉を押して、四十代ほどの精悍な顔付きをした警察官と対峙する。
「あぁ。こんばんは。お忙しい所すみません」
「こんばんは……。どうかされましたか?」
「お尋ねしたことがありまして。今お時間大丈夫ですか?」
「ええ……。大丈夫ですよ」
隠したいことがある故に、身の潔白を証明しようと試みる。
男性は手元のバインダーをチラチラと確認しながら、流暢に話し始めた。
「昨日。この近くのマンションで空き巣事件がありまして。ご存じですか?」
「いやぁ。初めて聞きました」
「十六時近辺で不審な人物が目撃されているのですが、何か知りませんかねぇ?」
「すいません。その時間はまだ職場にいたので……」
そこで、一瞬杏鶴の顔が思い浮かんだけれど、彼女には縁のない話だろう。
彼女の正義感、物欲で、他人に危害を加えるとは思えない。
「そうでしたか。因みに何のお仕事を?」
「化学工場の研究職を……」
話を聞く限り、未成年の誘拐、拉致といった展開ではなさそうだ。
主に近所で起こった事件の注意喚起として、足を運んでくれたらしい。
それが分かると気持ちも落ち着いてきて、心の中だけで一息つく。
そうして、二、三言世間話を交わし、前触れもなく警官の視線が足元に落ちた。
「御一人でお住まいですか?」
その質問に胸の奥が縮み上がりそうになる。
演劇で培った忍耐力がなかったら、表情に漏れていたかもしれない。
「ええ。お恥ずかしながら」
「ああ、いえ。とんでもない。今の時代はそういうのも自由なんでしょう? それでは、充分にご注意を。二階であっても戸締りはしっかりとお願いします」
「分かりました。お疲れ様ですー」
最後は駆け足で話は終わり、静かに扉を閉める。
ドアスコープから一度外を覗けば、警官が隣りの部屋に歩いていく姿が見えた。
耳を澄ませていると、微かにインターホンの響く音が聞こえてくる。
「……ふぅ」
改めて見下ろした玄関には、雪翔が使うスニーカーが一つだけ。
杏鶴の穿いているローファーは、今もベランダに置きっ放しになっていた。
様々な偶然が重なって、カモフラージュになっている
恐らくは疑問に思われもしないだろう。
「心臓に悪い……」
嫌な想像が尽きず、息が詰まる思いだった。
この感覚は、そう何度も味わいたくはない。
「よしっ……」
一気に重くなった体で振り返り、部屋に戻る。
「……」
「うおっ」
その死角の暗がりに俯いている立っている杏鶴がいた。
「ど、どうした? 大丈夫か?」
忘れていた部屋の証明を灯しつつ、声を掛ける。
明るくなった中でも、杏鶴の顔色はよろしくない。
「……何の話だったのですか?」
「あぁ。えっと……。この近くで空き巣があったんだと」
「私ではないです」
「分かってる。分かってるよ。疑ってない」
「……そうですか」
「あ、杏鶴が目を光らせるのは珍しい食べ物くらいだもんな。はは……」
「……」
「な、なんちゃって……」
思い切り肩に力を込めて、冗談ぽく揶揄ってみるけど、彼女の反応は芳しくない。話しかけてくれたのは義務的な理由で、まだ先程のことが尾を引いているのは明白だ。
その気まずさに目を逸らし、彼女の隣りを通り過ぎて、ベランダに向かう。
「靴。玄関に戻しとくな」
「はい。お願いします」
「それと……。これからベランダの鍵は閉めようと思うんだ」
「……はい」
「犯人は現場に戻るって言うし、ここも目を付けられてるかもしれないな」
「そうですね。分かりました」
「えっとー……。それで大丈夫か……?」
「何がですか? 何の問題もないです」
「……そっか」
「ええ」
ベランダからローファーを掴み、窓を閉める。
それから、長らく開けっ放しにしていたロックを回した。
「じゃ……。ちょっくら弁当屋にでも行ってくるわ」
「駄目です」
「……え?」
改めてジャケットに手を掛けて、そう告げると、杏鶴が小さく首を振った。
「だ、だめ……?」
「冷蔵庫の中に今日が賞味期限の鶏肉が入っています」
「あ、あぁ……。そうだったのか。それは使っておかないとな」
「家主だったら。それくらい把握しておいてください」
「ごめん……」
そう言うと、彼女はローファーをひったくり、玄関に戻しに向かう。
その対応がいつもより冷たく感じるのは、気のせいではないだろう。




