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 九月も後半戦に入り、日中でも多少過ごし易くはなっていたが、その日は直近で発生した台風の影響もあって、真夏日に近いくらい気温が上昇していた。


 雨こそ降らないものの、ジメジメした湿気が肌に纏わりつき、歩いているだけでも汗が噴き出す。張り付いたインナーの感覚が、一層不快感を強調していた。


 その呪縛から解き放たれるためにも一路帰宅し、何よりも先に脱衣所へ向かう。


 脱いだ服を洗濯機に放り込み、浴室へ。

 こんな暑い日は、お湯を四十度に調整し、シャワーのほどよい水圧に身を任せる。水分を含んだ髪の毛は、その分ずっしりと重くなり、完璧に視界を覆ってしまった。


「何も見えん」

 

 前回夏の美容院を訪ねてから一ヶ月以上経過しているため、前髪が少し邪魔になってきた。業務上、顧客と対面することもあるので、そろそろ散髪の頃合いだろう。

 実験等をするにしても、視界が悪いとやりづらい。


 ただ、自宅で生活を送る分には特段支障もなく、長年暮らしてきた物の配置は、一々確認せずとも把握できていた。


 目を瞑った状態でも、シャンプーとボディソープは使い分けられるし、熱湯側の蛇口も閉めて、シャワーヘッドを元に戻すことも造作ない。


 そうして浴室から上がり、大きなバスタオルで水気を拭う。

 粗方雫を吸収し終えたら、今度は急速に喉の乾きを自覚した。


 風呂上がりの爽快感を高めるための至極の一杯。

 それを何にしようか考えながら脱衣所を後にし、冷蔵庫の扉を開ける。

 最近では、野菜や精肉類がレギュラー入りするようになった冷蔵庫から取り出したるのは、赤いパッケージの牛乳で。


 マグカップ一杯に注ぎ、浴びるように一息で煽る。


 キンキンに冷えた恵みのミルクは、火照る身体に優しく染み渡り、思わず「ぷはぁ」と声が漏れた。雪翔はあまり好まないが、こういった時に飲むビールは最高なのだろう。


「うまい……っ!」


 入浴前に付けていたエアコンのおかげもあってか、全能感が凄まじい。

 高窓から見える空模様は変わらずどんよりとしているが、雪翔の心は晴れ晴れとしていた。パンツも履いていないから、いつにも増して開放的な気分である。


「何かつまめるもんないかなー」


 服を着るのは後回しで、冷蔵庫の中身を物色。

 杏鶴に頼まれた買い出しで魚肉ソーセージを買ったので、その余りがないかと探していたら、ダンッと、大きな衝撃音が部屋の外から聞こえてきた。


「うん?」


 自然に発生する音ではない異音に小首を傾げる雪翔。

 物音の大きさから、それなりの大きさの物が何かに衝突したのは理解して。

 それは、恐らく、すぐ目の前の、この部屋のベランダから聞こえてきた。 

 

 部屋の外で起きた現象は、カーテンに遮られていて目視できない。


「誰かのイタズラか……?」


 最初に思い浮かんだのは、近所のマンションに住んでいる子供が遊んでいて、暴投でもしたのかと思ったが、時刻は十八時も過ぎた夕方であり、天気も悪い。

 何より、子供たちの無邪気な声は、全く聞こえてこなかった。


「そこまで風も強くはなかったしなぁ」


 幾つかの予想をしながら、何はともあれ、ベランダを確認してみようと近付いていく。


 バスタオルを腰に巻き、カーテンに手を掛けたところで、その奥にある窓枠の方が、先にガタっと揺れた。 


「はっ?」


 力の抜けた声が漏れて、そこでようやく思い至る。

 つい先日、杏鶴がベランダを使って、雪翔より先に部屋に侵入していたことを。


「ま、待て!」


 空き巣よりも彼女である可能性の方が高いと決めつけて、制止をかける。

 流石に今の、全裸に近い姿を、十も離れた女子高生に見せるのは不味い。

 それくらいの道徳心は持ち合わせていて、殆ど反射的に伸ばした腕で、思い切りカーテンを引っ張る。


「え?」


 その迫真の声で、窓を開けようとしていた手も止まり、小さな吐息が聞こえてきた。


「雪翔? 帰っていたのですね」

「おう。おかえり。一度手を染めたらもう遠慮がないな?」

「はい? あぁ。いえ。チャイムは鳴らしましたよ。でも、反応がなかったので」

「あー……。なるほど。すまん。風呂入ってた」

「そうでしたか。別に何でもいいので、入っていいです?」

「今の俺。全裸。あゆおけい?」

「……は?」


 雪翔が現状を端的に伝えると、杏鶴の声が侘しく響く。

 心なしか距離が遠退いたような気配もした。


「いや。風呂上がったばっかりだからな? これで待ち構えてた訳じゃないぞ」

「……本当ですか?」

「なんで疑われてるんだよ……。おかしいだろ」

「……」

「今日は一日中ジメジメしてて蒸し暑くなかったか?」

「どうやら台風が近付いてきているみたいですね」

「そうそう。そのせいで、な?」

「……怪しいですね」


 状況は伝わっている筈なのだが、どういう訳か信じて貰えない。

 カーテンで顔は見えないけれど、眉根を寄せている様子が鮮明に思い浮かぶ。


「私以外に誰かを連れ込んでいるのでしょう」

「ベランダで人聞きの悪いことを言うんじゃねぇ! この状況すらヤバイのに」


 傍から見れば、少女がベランダに締め出されている状況だ。

 事件性しかなく、こんなやり取りを交わしている余裕はなかった。


「とにかくパンツだけでも穿くから。ちょっと待っててくれ」

「着るならさっさと全部着てください」

「俺のセクシーショットは要らないか」

「要りません」


 それでも最後につまらない小ボケをかまして、それが本当に余計だった。 

 

 開いた窓の隙間から、一陣の風が吹き込んで、勢いよくカーテンを捲る。

 視界は途端に開け、暗がりの夜空の下に、ジャージ姿の杏鶴が見えた。


「……え?」

「あ……」


 目が合って。そして、時が止まる。

 いや。正しくは、全てがスローモーションに見えた。

 彼女の視線は、雪翔の全体を捉えるようにして下がり、硬直。


「えっと……」


 大事な部分は隠している。

 それだけは手で触れて確認したが、それでは、許してもらえないことで。

 

 杏鶴の表情は恐怖に慄き、その瞳に大粒の涙を溜めていく。

 透明なそれは、彼女の頬に一筋の跡を残して、怖いという感情を訴えるのであった。





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