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七章【分からないから】
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九月十七日。月曜日。
週明けの仕事は色々と建て込んでいて、久々に残業を熟してから帰路に就く。
空には三日月が浮かび、駅前広場には、軽く一杯ひっかけた後であろう人だかりが大きな盛り上がりを見せていた。
時間を確認してみれば、とっくに二十時を過ぎている。
今日は一日中立ち仕事だったため、足がずっしりと重い。
空腹も限界にきていて、腹の虫がけたたましく鳴き声を響かせていた。
体力は早々に限界を迎えそうだが、駆け足で家路を急ぐ。
雑踏から離れる程に街灯は減り、住宅街に入ると喧騒も遠くなる。
時折すれ違う車のヘッドライトを浴びながら交差点を曲がれば、自宅のアパートが見えてくるのだが、
「……あれ?」
そこですぐに違和感を覚えた。
一番手前側にある二〇一号室に灯りが灯っている。
その部屋は、雪翔が暮らしている所だ。
電気の消し忘れたのかと考えたが、昨日の就寝前には確実に消灯した筈で。
それから一度も電気を付けるタイミングはなかった。
雷が落ちた時のような電気系統の異常が起きている訳でもないだろう。
今日は天気も良く、久しぶりに気温の上がった一日であったから。
「いや。まさかな……」
思考を整理すればする程に、警戒心が膨れ上がっていく。
それでも抜き足差し足で階段を上り、スマホを片手にドアノブを掴んだ。
もしもの場合を想定しながら、物音を発てないようにゆっくりと回す。
「ん?」
中の様子を覗ける程度に開こうとしたが、鍵は掛かっているらしい。
扉は重く閉ざされており、ビクともしない。
出鼻が挫かれると、一瞬だけ緊張感が解けてしまい、無意識の内に浅くなっていた呼吸を整えようと試みる。そこで、この現状とはそぐわない美味しい匂いが、廊下の方に漏れ出していることに気が付いた。
空腹感を刺激されて、早まった心拍数が少し落ち着く。
その匂いに空き巣ではない可能性を考えつつ、若干の警戒心と共に扉を開いた。
「あ。おかえりなさい」
「……何で中に入れてる?」
キッチンには案の定、雪翔の私服を着た杏鶴が立っている。
普段と変わらないすまし顔で。
今朝、間違いなく施錠した筈の家の中に。
「玄関閉め忘れてたか?」
「いえ。きちんと閉まっていましたよ」
「それじゃ。なんで普通に飯作ってるんだよ」
「二階だからと言ってベランダの鍵を開けっ放しにするのはよくないと思います」
「え……?」
流し台で手を洗い、後ろ手にエプロンの紐を解く杏鶴。
その視線が部屋の方に向かい、カーテンの閉められた掃き出し窓を捉える。
「いやっ。え……? もしかして飛べたりする?」
「実は翼が生えていたりはしません」
「だったら。まさか……。よじ登ったのか?」
そんなことができるような足場が、アパートの周辺にあったかどうかも覚えていないが、彼女の言葉通りに解釈するのであれば、アクロバティックな方法で、雪翔宅へ侵入したということなのだろう。
「空き巣は、油断している二階以上の部屋を狙うらしいですね」
「経験談か?」
「そんな訳ないでしょう。初犯です」
「超えちゃいけない一線を今日超えちゃったんだな……」
雪翔がベランダの施錠をしないことに、彼女は以前から気付いていたらしい。
かなり計画的な犯行として、罪を重く捉えた方がいいのかもしれない。
「それで? 俺の部屋から盗った物はなんだ?」
「卵とお米と玉ねぎと……、ケチャップとか?」
「なるほど……。今日の夕飯はオムライス!」
「正解です。もう下拵えはできていますから。良ければすぐに作ります」
「腹ペコだから速攻頼む。俺は着替えをするから覗かないでくれよ」
「絶対にしないので安心してください」
軽口は雑にいなされつつ、部屋の方に進む雪翔。
そのまま奥まで進み、カーテンを開けば、ベランダが見える。
暗がりの中で周囲を見渡すことはできないが、やはり容易に上ってこれそうな足場等は見当たらなかった。杏鶴の身体能力に脱帽してしまう。
「杏鶴」
「何ですかー」
「怪我するような真似はしないでくれよ?」
「……」
「夜に待ち惚けさせちゃうことも危ないとは思うんだけどさ」
「……はい。気を付けます」
雪翔がやんわり釘を刺すと、トーンの変わらない返答が返ってくる。
キッチンとの間には凹凸があって、彼女の様子は見えないが、ほんの少しいじけているような気配を感じた。
「まぁ、俺が定時までに仕事を終わらせてたらいい話か」
引っ掛かりを覚えながらも、そう結論付けて、部屋着に着替える。
脱いだ服をハンガーに掛ける中で気付いたが、テーブルの上に見慣れないA4サイズの紙が幾つか並べられている。
「なんだこれ?」
何かと思って注視すると、それは何処か懐かしさを覚える用紙で。
答えに行きつくと同時に、後ろから上着の裾を引っ張られた。
振り返ってみると、目を凝らさないと分からないくらい、ほんの僅かに唇を尖らせた杏鶴が立っている。
「今日。テストの結果が返ってきたんです」
「おお? あぁ! 夏休み明けの奴か。どうだった?」
脈絡のない切り出しだったけれど、すぐに思い出す。
彼女は結果を口では言わず、瞳を動かして、テーブルの方に促していた。
テストの結果を雪翔も見ていいらしい。
いや、きっと、すぐにでも雪翔に見て欲しかったのだ。
「ふむ。どれどれ……。国語が九十点。数学が九十点。社会が九十二点……」
全五教科分の採点は、どれもこれも九十点台を超えていて、杏鶴がどれだけ勉強を頑張っていたのかが窺えた。
「凄いな! 全部高得点だ!」
「校内では、一番だったみたいです」
「マジかっ。テストで一番なんて取ったことねぇよ」
しかも、定期テストよりも出題範囲の広い実力テストで、だ。
簡単に結果を出せるモノではないと、どんな人間だって分かるだろう。
「おめでとさん。努力の結果が出せたんじゃないか?」
「私の目標は、全教科満点だったんですけどね」
「ははは。杏鶴なら本当に達成できちゃいそうだな」
自惚れているとは感じない。
努力のできる彼女であれば、視野に入れていいことだと思える。
「はいっ……! 当然ですっ」
「とにかくお疲れさん。何かお祝いをしなくちゃか」
頑張った後には、ご褒美が必要だ。
それと同時に、努力を労わることも蔑ろにしてはいけない。
雪翔自身、彼女を沢山褒めてあげたかった。
そう思うと自然に手が伸びて、彼女の頭をぽんぽん叩いてしまう。
小さな子供をあやすように。
「何がいい? 出前で豪勢にいくか」
「今日はもう夕飯の準備が出来ています」
「別に今日じゃなくたっていいだろ。明日でも。明後日でも」
「うーん……」
「遠慮はしなくて大丈夫だぞ?」
杏鶴は少し気乗りしない様子だ。
彼女の返答を待つ間、手持無沙汰な右手で、白くサラサラな髪を梳く。
「……ん」
思案顔で目を閉じた彼女は、されるがままになっていた。
「うちは商店街が近いから。大抵の物は届けて貰えるぞ」
「特に食べたい物が浮かびません」
「ありゃ。そうか?」
「今は、作りたい物の方が沢山あるので」
「なるほど……。本当に料理好きになったなぁ」
「……です」
であれば、良い食材を仕入れる方が喜ばれるかもしれない。
そんなことを考えていると、杏鶴がふっと微笑んだ。
「私は……、“これ”だけで充分です」
「これ?」
「料理をさせてもらえれば充分だと言いました」
「なにぃ。随分控えめだなぁ」
「慎ましやかな女性ですからね」
「あはは。あはは」
「ふんっ!」
「ぐはぁ!? 足がぁ!」
左足の指先を的確に踵で潰されて、激痛に耐え切れずに体勢を崩す。
それが前方に倒れ込む形になって、咄嗟に杏鶴の肩を掴み、踏み止まろうとしたのだが、
「いつまで触れているんですか。不埒です」
その一言で無情にも容易く突き飛ばされてしまった。
「慈悲がないっ!?」
キッチンの廊下に転がされる雪翔。
顔を上げてみれば、杏鶴は背中を向けていて。
そそくさと乱れた前髪を直していた。




