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 九月も中旬になれば、夜は涼しく、吹き抜ける風が心地良い。

 日中の茹るような蒸し暑さもなくなって、夏の終わりをすぐそこに感じられた。


 三十度超えの猛暑が続く日々はあまり好きではなかったが、一つの季節が移ろうことに、口惜しむような寂しさがあり、この瞬間が永遠ではないんだと痛感する。


 二十六年の人生で。二十七回目の夏の終わり。

 何かやり残したことがあったような。

 そんな想いが巡る。季節の変わり目。


 失くした物を探そうとしたところで、今年の夏を取り返すことはもう叶わない。

 そして、同じ夏は二度とやってこないのだ。

 来年の九月十一日は、きっと、今日とは違う風が吹いている。


「さむっ」


 アイスクリームを食べたせいか、雪翔の身体は寧ろ冷え過ぎてしまっていて、夜風に晒されると、湯冷めした身体が熱を求めて身震いした。


「風邪引かないでくださいね?」

「大丈夫だよ。俺が何年風邪引いてないと思ってる」

「バカは風邪を引かないって言うものね……」

「えっ。ひどい……」


 銭湯からの帰り道。杏鶴と鹿奈は、雪翔の少し前を歩いていた。

 バス停までの道のりはそう複雑でもないため、二人は迷わずに進んでいく。


「でも。今なら安心ね」

「何が?」

「体調を崩しても杏鶴が看病してくれるじゃない」

「おぉー! 確かにな。その時はよろしく頼むぞ。甲斐甲斐しく看病してくれ」

「今日は温かくして眠るようにしてください」

「あれー……?」


 その手があったかとばかりに頷いた雪翔だったが、芳しい返事が返ってこない。

 素っ気ない杏鶴は、振り返ることもしてくれなかった。


「仕方ないわねぇ。杏鶴が嫌がるなら私が看てあげるわよ。同期のよしみだし」

「うーん。神谷かぁ……」

「ぶっ飛ばしてあげましょうか?」

「酒を持ち込まないでくれるなら。まぁ」

「病人の前で飲んだくれる訳ないでしょうが。私を何だと思ってるの」


 軽い調子で酒癖の悪さを揶揄すると、鹿奈は本気で顔を強張らせる。

 もう一歩間違っていたら、拳骨が飛んできそうな怒りレベルだ。


「冗談だって。どうしようもなくなったら助けて貰うから」

「ったく。変なことばっか言うんじゃないわよ」


 睨みを効かせてくる鹿奈に、雪翔はへへへとおちゃらけて笑う。

 もう何年も体調を崩していないから、もしもの話に現実味を感じないけど、その能天気さが看破されたのか、訝しむような視線が中々解放してくれない。


「鹿奈さんの手を煩わせるのは申し訳ないですし。その時は私が看ます」


 熱く見つめ合っていると、杏鶴の事務的な台詞が割り込んでくる。

 正面を向いたまま直進を続ける後ろ姿からは、関心の欠片も感じなかったけど、鹿奈だけは満足そうに微笑み、彼女の表情を覗き込んでいた。


「そう。杏鶴はお粥作れる?」

「作ったことはありませんけど、調べて作るなら、それ程難しくはないでしょう」

「ふーん。でも、雪翔はどんな味付けが好みなのかしらね」

「んなっ……!?」

「味付け?」

「知ってた方が作り易いだろうし、今の内に聞いておいた方がいいんじゃない?」

「びょ、病人は出された物を食べてくださいっ! 我儘は許しません!!」


 上機嫌な鹿奈の言葉に、杏鶴が珍しく取り乱している。

 雪翔には、その理由がさっぱり分からなかったが、二人の間では何かが通じ合っているらしい。不思議に思って首を傾げ、耳を赤くした杏鶴を眺めていると、その視線を嫌がるように彼女が勢い良く振り返った。


「……っ」

 

 視線が合うと、たちまちにして表情が顰められていく。

 ただ、口はパクパクしているだけで、声は掛けられない状態だ。

 

「俺は、シンプルな卵粥が好きだぞ!」


 そのまま謎の間が空くので、話の流れに則って、好きな味付けを答えてみると、杏鶴は震えていた唇を一文字に結び、ぷいっと正面に直ってしまった。


「……聞いてません」

「梅干しは入れないでくれ。苦手なんだ」

「入れます」

「なんでだよ!?」


 不意打ちの絶叫が、静かな住宅街に響き渡る。

 その情けない反応を見たからか、鹿奈は愉快そうに笑っていた。


「鹿奈さん……っ」

「なぁに?」

「……何でもありません」

「ふふ。そうよねぇ」


 少し歩調を早めた杏鶴が、こそこそと鹿奈を睨む。

 けれど、軽くいなされてしまって、僅かに左頬を膨らませていた。


 そんな顔が、鹿奈に対してもできるようになったらしい。

 後ろから見ていて、二人の雰囲気は和やかであった。


「……姉妹みたいだな」


 頭に浮かんだ言葉を、ぽつりと溢す。

 顔立ちも髪色も違うけど、雰囲気は少しだけ似ている二人。

 鹿奈の方が拳一つ分背が高いから、余計に姉妹味が増していた。


「……」


 杏鶴には、実の姉がいると言う。

 とても仲の悪い。会話もしなくなった、三人の姉が。

 

 その中の誰か一人とでも、この光景は見られないのだろう。

 そう思うと、やるせない想いに胸が詰まった。


 鹿奈との関係性を見ていたら、より一層際立つ。


 柚鳥杏鶴という少女は、素っ気ない態度に反して、人から愛される人間だと。

 

 鹿奈は特に杏鶴のことを気に入っているように見える。

 常識人同士。波長の合う部分が多いのかもしれない。


「やっぱり、裸の付き合いは偉大か」


 いつの間にか呼び方まで変わっているし、一糸纏わぬ姿を晒し合って、二人の距離はちゃんと縮まったみたいだ。

 

「俺も一緒に入れたんだけどなぁ」

「何馬鹿なこと言っているんですか」

「うおっ。ビックリした」


 先に行ってしまったと思っていた杏鶴が、曲がり角からひょっこりと顔を出す。

 そこに居たのは彼女一人で、先にバス停に向かう鹿奈の後姿が見えていた。


「今のは闇討ちの距離感だったぞ」

「良かったですね。私があなたの暗殺依頼を請け負っていなくて」

「倍の報酬を支払うから。俺のエージェントとして働いてくれ」

「私は優秀ですので。年間一千万円からの契約になります」

「一千万かー……。悩みどころだな」

「まずはあなたの内に潜む、怠け者から退治していくことになりそうです」

「この話はなかったことにしてもらっていい?」


 すぐに茶番を始める雪翔に、杏鶴も少しだけ乗ってくれる。

 一つオチが付けば、ふわりと踵を返して、バス停までの道を歩き始めた。

 その歩調が、隣りに並べと言っているように見えたから、早足で彼女を追いかける。

 

「そういや。電気風呂には入れたんだっけ?」

「はい。ただ……、私は少し苦手かもしれません」

「ありゃ。そいつは残念だな。何が駄目だったんだ?」

「ピリピリした感覚が感電の予兆のようで……」

「ははは。なんだよそれ。怖くて無理だったってこと?」

「違います。リスクヘッジです」


 決して怖いとは言わない杏鶴。

 絶対に弱みは見せないよう腕組みをして、あくまでも強気を崩さない。


「ジェットバスは良いモノでしたね。血行が良くなって、美肌効果もあるとか」

「へぇー。杏鶴には関係のなさそうな話だけど」

「改善の余地がないと言いたいのであれば、侮辱罪で死刑を言い渡します」

「そんなことは言ってねぇ。元々綺麗だし、若いんだし、気にする必要ないだろ」

「……先のことを見据えればこそ。早くから養っていくモノ……、だそうです」


 恐らくは鹿奈に教えられた受け売りを、そのまま口にして、まだ営業中のスーパーの方に顔を向ける杏鶴。一時は汗拭きシートで済ませていた少女の発言とは思えないが、あの時とは事情が変わったのだろう。


 きっと、それは良い変化だ。


「ほーん。杏鶴も綺麗でいたいとか思うんだな」

「私のことを野犬か何かだと思ってますね」

「溝に落ち込んでも平然としてたじゃん」

「あ、あれは……、うるさいです。過去のことを掘り起こす人はモテませんよ」


 いつかのことを揶揄えば、本気のジト目で睨まれてしまった。

 モテなくていいので、もっとちょっかいをかけたかったが、雪翔の横を青色のバスが通り過ぎていく。バス停はもう目の前にあるけれど、ぐずぐずしていたら、置いてけぼりを食らいそうだ。


 定位置に止まったバスの扉が口を開ける。

 二十二時を回った時間でも利用客はいるもので、よれよれのスーツを着たサラリーマンが、疲労を感じさせる足取りでスーパーの敷地に入っていった。

 

 きっと、今日は出来合いの夕飯になる。

 以前の雪翔であれば、そうだった。


 バス停で待つ鹿奈は、到着の遅い二人を急かすように手招きしている。

 

 他の乗客をダラダラと待たせる訳にもいかないので、目と鼻の先にあるバス停まで走ろうと、大きく一歩踏み出してーー、


「ん……?」


 腰の辺りにか弱い力が加わった。

 振り返ってみれば、杏鶴が上着の裾を掴んでいる。

 控えめに伸ばされた右腕と、固く握った小さな手のひら。


「あの……」


 俯き加減の彼女は、迷いながら唇を動かして。

 それから、背伸びをしたのではないかと錯覚する程、跳ねるように顔を上げた。


「“また”皆で来ましょうね」


 儚い夢を願う。そんな笑顔で。





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