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「うぅ……。気持ち悪ぃ……」
サウナでカラカラに干上がった雪翔は、休憩室の端で仰向けに寝転がっていた。
身体は動かしていないのに、意識がゆらゆらと揺れている。
手のひらで視界を覆ってみても、その不快感は消えてくれない。
「まったく。一体何をしてるのですか」
すぐ傍には湯上りの杏鶴が座っている。
表情は見えないけれど、心底呆れているのが声音だけで伝わってきた。
「自分の限界くらい分かるでしょう」
「バカだな杏鶴……。男には、その限界に挑まなきゃいけない時があるのさ……」
「馬鹿はあなたです。偉そうな言い分は慎んでください」
「しんらつぅ……」
でも、その通り過ぎて、弁明の言葉も出てこない。
それをする気力もごっそりとなくなっていた。
「モタモタしていると、帰りのバスがなくなってしまいますよ」
「分かってるぅ。あと五分だけ休ませてくれぇ……」
「はぁ……。今、鹿奈さんが飲み物を買いに行ってくれてますから」
「面目ねぇっす」
萎れた声で最低限の返事を返す。
寝そべった体を未だに起こすことができずにいると、雪翔の頬をか弱い風が撫でていった。触れただけで霧散する程のそよ風が、断続的な涼しさを与えてくれる。
それを雪翔は、エアコンから出ている風だと思ったけれど、涼を感じる場所があまりにも狭い。風の発生源を探し、うっすら目を開いて確認すると、指の隙間から杏鶴が両手で扇いでくれている姿が見えた。
「んー……」
意識が徐々に呼び起こされてきた。
畳の広間で正座していた彼女は、雪翔が思っていたよりも近くにいたらしい。
はっきりと目を開いてみると、覗き込むようにして、そこにある赤い瞳と視線がぶつかる。
「情けない人です」
そう悪態を付きつつ口元を尖らせながらも、手のひらをうちわにして扇いでくれている杏鶴。その時にふと、柑橘系の爽やかな香りが、雪翔の嗅覚をくすぐった。
家にあるシャンプーとは違う香り。
雪翔も同じ物を使った筈なのだが、杏鶴から香る匂いの方が好意的に感じられるのは何故だろう。
もしかしたら、美少女というフィルターが掛かっているからなのかもしれない。
お風呂から上がったばかりの杏鶴は、いつもより柔和で、女性らしい印象がある。
しっとりとした肌は雪のように白く、もちっとした肌はきめ細かさを増していた。
「起きられますか?」
サラサラの髪の毛を揺らして、彼女が言う。
そう問われ、雪翔は思い切り反動を付けて飛び起きた。
「きゃっ」
「んがっ」
返事もせずに起き上がったから、身を乗り出していた杏鶴と額同士でごっつんこ。勢いが付いていたのは雪翔の方だったが、はね除けられたのも雪翔だった。
「いっつぅー……」
「……あなたは何がしたいのですか?」
背中も畳に打ち付けて痛みに悶絶していると、おどろおどろしい声が聞こえてくる。肝を冷やしつつも、痛みを堪えて顔を上げれば、戦慄いている少女が一人。
おでこを赤くして、怨めしそうに雪翔のことを睨んでいた。
「わ、わるい。思いの外勢いが付いちゃって……」
「ふんっ!!」
言い訳は聞き入れてもらえず、間髪入れずに手のひらが二つ押し寄せてきて、左頬を押し始める。それは首からポッキリネジ切れてしまいかねない馬鹿力であり、雪翔の顔は畳と手のひらにサンドイッチされていた。
「ぐ、ぐるじぃ……」
「もう焦らなくていいので。少し頭を冷やしてください」
「し、しぬぅ」
「……タコみたい」
必死に抵抗すればする程、自分がおちょぼ口になっていくのを感じる。
それを見た感想は、あまりに直球で、ほんのちょっと笑っていた。
「あんた達……。私がちょっと離れてた間に何面白いことしてるの?」
「が、がみや。だずげでぐれぇ……」
「急に暴れだして危ないので取り押さえていました」
鹿奈の声は聞こえるものの、押し付けられた方向とは逆の通路に立っていて姿が見えない。最早呼吸も苦しくなってきたので、この状況を早くどうにかして欲しかったのだが、雪翔のピンチは思いの外正しく伝わっていなかった。
「ふーん? 逆上せて頭が馬鹿になっちゃったのかしら」
「この人は元からバカです」
「言うわねぇ。杏鶴って。そんな軽口も言えるんだ」
「本心からの言葉ですから」
「フンナァー!?」
締め付けが緩くなった一瞬の隙に、変顔地獄から脱出する。
奇声を上げながら転がるように起き上がると、女性陣は二人とも、うんざりしたような表情を浮かべていた。
「うるさいです」
「出禁になるわよ」
「はぁ……。はぁ……。危なく死にかけたぜ」
「これに懲りたら。サウナで変な維持張らないことね」
「……杏鶴を殺人犯にはできないもんな」
微妙に噛み合わない会話を交わして、雪翔は今度こそ立ち上がる。
脱水症状のせいか、酸素不足のせいか、初動で少しふらつきはしたけど、地に足が付いていないような不快感はなくなったので、帰り道を歩くことはできそうだ。
「ほら。あんたはこれ飲みなさい」
「悪い。助かる」
鹿奈が自動販売機から買ってきてくれた水を受け取り、一気に煽る。
干上がった大地に命が宿る感覚を全身で味わいながら、気持ちも改めて二人に向き直ると、二人は横並びで、コーンタイプのアイスクリームを食べていた。
「……ズルい!?」
羨ましさに全力で叫ぶと、鹿奈は堪えきれないといった様子で吹き出し、杏鶴は力が抜けたみたいにはにかむ。
「遊び疲れて倒れたり。駄々こねたり。あんたっていつも忙しないわね」
「まるで子供じゃないですか。……クラスの男子と変わらないです」
脱力した二人は、雪翔に生暖かい視線を向けてくる。
それから示し会わせたみたいに顔を合わせると、満開の笑顔を咲かせていた。
「……へへっ」
雪翔にとっては、それが全てに勝る称賛の喝采で。
蟠り続けている形容し難い何かが、胸の奥にすっと落ちるのを感じる。
杏鶴に出会って、今日まで。色んな言葉を交わしてきた。
そう長い時間ではないし、知らないことはまだまだ多い。
ただ、それでも、彼女との関わり方に間違いはなかったのだと。
そう胸を張っても、今だけは許されるような気がした。




