30
五章『大人のやり方』
30
その日雪翔は、定時で仕事を上がり、足早に自宅へ帰宅した。
病み上がりの杏鶴は、大事を取って学校を休ませたけれど、だからと言って無理をしていないとも限らない。監視の目がないのをいいことに、休養して出来なかった分の勉強に張り切り、体調不良をぶり返している可能性は大いに有り得る。
そんな推測で悶々とし、うっかり仕事を残してしまったが、意地でも残業はせずにタイムカードを切って退社を選択。
仕事と杏鶴ならば、気掛かりなのは後者だ。
残った仕事は、明日の自分が頑張ればいい。
決して、杏鶴を口実に仕事をサボった訳ではない。
そう隣で歩く鹿奈に語り聞かせていたら、「よく当たり前のように家を空けられるわね……」と呆れられてしまった。
「いや。俺もギリギリまで休もうかと思ったんだけどさ」
「たぶん。私が言いたいこととあんたの考えは違うと思うわ」
苦渋の決断の末に渋々出社したことを伝えると、彼女は目も合わせてくれない。
そっぽを向く視線に雪翔への関心はなく、見慣れたアパートを捉えていた。
夕焼けのオレンジが山の谷間に消えていき、夜が訪れる。
暗くなってきた住宅街の中、雪翔の部屋には黄色い光が灯っていた。
「何でもいいけど。あんたはしっかりしなきゃ駄目よ」
「俺がしっかりしてたって風邪は防ぎようがないだろ」
「無意識のSOSはあったかもしれないわ。顔色だったり、声の覇気だったり」
「……すげぇ難しい要求だな。一朝一夕で出来ることではないって」
「そうね。だから、出来るようになりなさいって言ってるの」
鹿奈の主張に、雪翔は呆れた表情で白旗を振る。
些細な変化に気付き、隠された想いを汲み取る。
言葉で言うのは簡単だが、注意して出来るようになるモノでもないだろう。
行き過ぎた共感は、認識のズレを際立たせることだってある。
知ったかぶりほど、恥ずかしいものはないのだ。
「口で言ってくれるのが一番楽なんだけどなぁ……」
「うわっ。如何にもモテなさそうな発言ね」
数えきれない数の言葉があって。自分の状態を言い表す方法を誰しもが知っているのだから、そのやり方に頼って欲しい。
それがスムーズな意思疎通に繋がる、間違いを許さないやり方だ。
「女の子には、怖くても怖いって言えない時があるの」
「神谷は、お化け屋敷とかでそういう状態に陥ってそうだな」
「なんで分かって……。おばけなんか怖くないケドッ!?」
杏鶴もこれだけ分かり易ければ、気を揉む必要もないのだが。
本人の気質上難しいのだろう。
憧れの人間がそうだったのであれば、尚のこと。
ただ、模範にしようとする行動原理自体は理解できる。
杏鶴のことも否定できないから、やはり、難しい問題だ。
「ん?」
隣りで癇癪を起こす同期を宥めながら歩き、アパートの階段に足をかける。
そこで、食欲を誘う香ばしい香りが、午後も働き詰めだった雪翔の空きっ腹を刺激した。
「あら。いいにおいね」
後ろの鹿奈も気が付いて、僅かに声を弾ませる。
そんな彼女とは対象的に、雪翔の思考は研ぎ澄まされていく。
「……まさか」
漂う香りの出所を察し、階段を駆け上る。
二○一号室の鍵を開けてドアノブを回すと、予想していた通り、キッチンの前には、お玉を持った杏鶴が立っていた。
味見をしている最中なのか、小皿を唇に当てている。
「杏鶴ぅ……」
声をかけるまでもなく、杏鶴の左目が雪翔を捉える。
それから、小皿を持った手を下げると、少しだけ口角を緩めた表情で、小さな会釈をしてくれた。
「おかえりなさい。今日は何事もなく帰ってこられたのですね」
そんな無邪気な顔を向けられると、注意しようとした言葉も忘れてしまう。
きっと、暇だったろうし、本人の気が紛れるのであれば、良い時間潰しになったのだろう。
「ただいま。……いいにおいするな」
「夕飯を作っていました。今日の献立はクリームシチューです」
「おぉ! 体調はもう平気なのか?」
「問題ありません。寝すぎてもよくないですし」
お玉を小皿に乗せた杏鶴が、一度コンロの火を止める。
それから雪翔に向き直ろうとして、重なりかけた視線が、一人分隣に吸い込まれた。
「え……?」
視線の先に立っているのは、つい先日顔を会わせたばかりの鹿奈だ。
「こんばんは。杏鶴ちゃん」
「あなたがどうしてここに……?」
困惑気味に首を傾げる杏鶴。
今思い至ったが、今日夕飯に彼女を誘ったことは伝えていない。
「え。和泉から聞いてない?」
「聞いてません」
「はぁ?」
「杏鶴が体調崩したって言ったら、お見舞いに行くって言い出してさ」
「……あんたから誘ってきた癖に、なに私を悪者にすげ替えようとしてるのよ?」
「いたたたた」
咄嗟に保身に走ったけれど許させれず、脇腹を思い切りつねられた。
「よく分かりませんけど、取り敢えず中に入ってください。近所迷惑です」
杏鶴にも冷たい対応で窘められ、何だか気まずい。
「わ、分かった」
実際、近隣住民の目に留まるのは好ましくないので、彼女の言葉に従って、靴を脱いだ。
「ごめんね。いきなりになっちゃって」
「私は平気です。それに、結局は雪翔が悪いのでしょう?」
「そうなのよ。全部アイツが悪いの」
後ろで胃の痛くなる会話が交わされている。
突き刺すような視線も感じるため、十中八九どちらかが睨んでいるのは間違いない。雪翔は、絶対に振り向かないことを心に決めて、自室への敷居を跨いだ。
「ホントに体調は大丈夫?」
「はい。ご心配おかけしたなら申し訳ないです」
「いいのよ。全然。あ。そうだ、これあげる。私からの快気祝い」
「え? これって……」
「女の子には必要なモノでしょ?」
「お、お気持ちは非常に有難いですが、流石に受け取れません」
「遠慮しないの。杏鶴ちゃんが受け取らないなら。和泉に渡すだけだし」
雪翔は蚊帳の外で、二人が押し問答をしている。
鹿奈が渡そうとしているのは、帰宅の途中で寄った、ドラッグストアで買った物だ。
その時、雪翔は同行を拒否され、店の前で待たされていたので、何が入っているのかは知らないが、杏鶴にとっての必需品を買い揃えてくれたらしい。
「……何だか知らんが、俺は貰えるものなら何でも貰うぞ」
「だって」
「それは……、ダメです。私が頂きます」
二人の対応に折れて、杏鶴が大きな紙袋を受け取る。
何かと天秤にかけて決心がついたようだが、表情には未だに申し訳なさが滲んでいた。
自分には返せる物が何もないと、そう思っているのだろう。
彼女はそういう人間である。
そして、鹿奈は、見返りを求めないタイプだった。
「どういたしまして」
黙っていると威圧的だと囁かれる表情を、彼女はうんと優しく彩った。
それは、半端な演技力では成し得ない。心からの笑顔だ。
「和泉に相談できないことは私に話して? 遠慮なんてしなくていいから」
「……お心遣いありがとうございます」
深く深く杏鶴が頭を下げる。
そこには、戸惑いと確かな感謝の気持ちが滲んでいた。
同姓の味方は心強い筈。
どうしたって、雪翔と杏鶴には性別の壁がある。
理解してあげられないことがないなんて、口が裂けても言えはしない。
ただ、それはそれとして、
「やっぱり、俺にだけ対応が違うんだよな……」
殊勝な態度の杏鶴を見て思うのはそれで。
場違いだと分かっていても、考えずにはいられない。
同じことをして、杏鶴は素直に受け入れてくれるのだろうか。
「俺にだって、もっと甘えてくれていいんだぞー」
外野からヤジを飛ばしてみる。
杏鶴は、雪翔に一瞥だけくれると、すぐにぷいっと顔を逸らしてしまった。
「……あなたは、自身への甘えを取り除いてください」
「そうきたか。杏鶴よ。そいつは無理な話だ。俺は俺をデロデロに甘やかす!!」
「こういうところムカつくでしょ? 知り合った時からこうなのよ」
「……性格は、二十歳を越えたら直らないと聞きます」
「じゃ。もう手遅れね。哀れみの目で見てあげましょ」
女子二人に徒党を組まれ、雪翔としては立つ瀬がない。
だが、それでもいいと思えるメンタルなので、痛くも痒くもないのであった。




