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「私は、受験に失敗したんです」


 日も暮れ始めて、杏鶴は、ぽつりぽつりと自分のことを語り始めた。

 誰にも話したことのない過去を、彼になら、話してもいいと思えた。


「本当は別の高校に進みたくて。でも、結果は駄目で。自分では一生懸命頑張ったつもりだったんですけ、実力は全然足りていませんでした」


 まだ記憶に新しい高校受験。

 杏鶴にとっては初めての受験で、準備を怠ることはなかった。

 けれど、期待と自信に満ちていた彼女の進路は、あまりにも容易く幕を落とす。

 努力をしているのは自分だけではないと知り、積み重ねてきた物が必ずしも報われる訳ではないんだと思い知らされた。


 杏鶴の挫折は、この機を境に始まったのだ。 


「私には姉妹がいるんです。とても仲の悪い。嫌味な姉が三人も」

「柚鳥家は大家族だったんだな。随分賑やかそうだ」


 席を立っていた雪翔がマグカップを持ち、座り直す。

 中に入っているのは、蜂蜜の入ったホットミルクで、杏鶴のために用意してくれた物だった。両手で受け取ると、指先からじんわりとした熱が伝わってくる。


「仲が良かったら。そうだったのかもしれません。今では殆ど会話もしないので」

「喧嘩が多い……、って話でもないのか」

「私が一方的に嫌われているみたいです」

「……理由は? 何もなくそうはならないだろ?」

「姉さん達にとって。私は、甘やかされているように見えるのだと思います。昔の父は、今よりもずっと厳しい人だったので」

「どの家庭でも下の子は可愛がられるもんさ。うちの妹もそうだった」


 すこし重たい笑みを浮かべる雪翔。

 その表情は、杏鶴と姉妹達の不和に共感を示してくれていた。


「受験に失敗した時も私だけは何も言われませんでした。きっと、以前は違った筈です。それが何より気に入らなかったのでしょう」

「杏鶴が悪い訳じゃない」


 末っ子の特権のようなモノだ。

 彼女自身が望んだ訳ではない。


 でも、そんなことは関係はなくて、贔屓されていると妬み、八つ当たりをする。

 それまで抑圧されてきた反動の発散先として、受験に失敗した杏鶴は都合の良い存在だっただろう。


 杏鶴の両親は仕事で県外に出向いている。

 姉妹間の軋轢を取り除こうとする人間は誰もいない。


「私は、自分に出来ることを最大限にしてきたつもりです。怠けてなんかない」

「ああ……。そうだろうな。俺でも分かる」

「私には、全く違って見えるのです。姉さん達は“期待されていた”んだなって」


 厳しい教育の下で育てられた姉妹と、自由を許された末子。

 それぞれは違う景色を見て歩き、対照的な想いを抱く。

 杏鶴にとっては、彼女達こそ両親に望まれ、求められた存在であった。


「高校に入って、確執は確かなものになりました。それと同時に……、私の心も弱くなってしまったのかもしれません。馬鹿にされて。無視をされて。今まで何ともなかったことが耐えられなくなっていって……」

「それで家出か」

「……私がここにいるのは、ただあの人達と顔を合わせたくないからなんです」


 顔を見ると、何もかも思い出してしまう。

 

 高校受験の失敗も。両親の無関心も。

 誰にも期待されていなかった事実も。全て。

 

「ごめんなさい。こんなにも子供っぽい理由で」


 その渦中に巻き込んでしまったことを、初めて謝罪した。

 顔を見れば、彼は唇を噛んでいる。


「兄貴はどうしてるんだっけ?」

「兄さんも家を出ていて。父の仕事の手伝いで忙しい日々を送っている筈です。心配はかける訳にはいきませんから。何も言ってません」

「……本当にそれでいいと思ってるのか?」

「弱音を吐くことは兄の理想に反します。兄さんだけは、たった一人。私のことを応援してくれていたから。幻滅されたくありません」


 杏鶴にとっては、ただ一人の味方だから。理想を演じ続ける。

 間違っていると分かっていて。自分の狡さに甘えている。 


「……杏鶴が、兄貴を大好きなことは分かったよ」


 それを全て見透かして、それでも雪翔は、少し呆れたように頷いてくれた。


「兄は学生の時から凄い人だったんです。振り込み詐欺からお婆さんを助けたり、痴漢を捕まえて警視庁から表彰されたことだってあります」

「へぇ。今の杏鶴みたいだな」

「私はまだまだです。いつかあの人の背中に追い付くことが、私の目標なんです」


 大好きな人だから。自分もそうなりたい。

 手助けをしたい。今度こそ認めてもらいたい。


「その夢を叶えるためにも立ち止まっている時間はありません。体調も良くなってきたので、勉強してもいいですか?」

「駄目だバカ。完璧に治り切るまでは絶対に許さん」

「むぅ」


 予想は付いていたけど、雪翔の監視は意外と厳しい。

 情に訴えかけても、勉強の許可は下りそうになかった。


「何かしていないと不安になってしまうのに……」


 こうしている間にも何かできた筈だと。

 休む暇なんてありはしないと。杏鶴は痛感してしまったから。


 立ち止まることは悪。

  

 そんな呪いをかけられた少女に、雪翔は切り出す。


「杏鶴はさ。長い長い道のりを進もうとしてるんだろ?」


 少しでも肩の荷が下りるように。


「あの時勉強してたら。そんな後悔したくないよな。後で悔やんでも、やり直すことはできないから。出来ることを出来る時にやるのは正しいことだって思う」


 少し達観したように。自分の過去を振り返るように。彼は続ける。


「それは誰にでも出来ることじゃないしな。杏鶴はすげぇ奴だよ」

「……」

「その努力に水を差すつもりはない。おまえの夢を俺は応援する」

「だったら。止めないでください。普通の努力では足りないのです」

「ずっと全力で走ってるマラソン選手がいるか? 最初から飛ばし過ぎなんだよ」

「別に。まだ全力じゃないですけど……」

「嘘吐くな……。杏鶴はまだまだ長い道のりを行くんだから。ペース配分考えろ。たまには自分を労わって。励まして。そういう時間だって成長の肥やしになる」


 真剣な表情で、冗談なんて一切含まず、雪翔が杏鶴を強く見据える。

 見慣れない彼の雰囲気に圧倒されると、無意識に背筋を伸ばしてしまった。


「……何だか。雪翔が先生みたいです」

「実は教員免許の資格を持っててな」

「えっ」

「今その話はいいか」


 気になる話を持ち出しておきながら、雪翔が平然と話を戻す。

 杏鶴も追及することはしなかった。

 

「頑張り屋さんの杏鶴にも出来ていないことが一つある」

「何ですか……?」

「一つは休みを取ること。無茶すりゃそりゃ体も壊れる。人間だもの」

「……はい」

「そんでもう一つは、頑張る自分に対してもっと優しくしてやってくれ」

「一つだけだと聞いていたんですが……」

「頑張った後には、ご褒美を用意したりしてさ。嬉しいことが約束されてたら、また頑張ろうって思えたりする。そういうもんだ」


 大切なのはメリハリだと彼は言う。

 けれど、どうすればいいか。杏鶴は知らない。


「……そんなやり方知りません」 


 そう溢せば、彼はわざとらしく咳払いをした。


「仕方ねーなぁ」

 

 気障ったらしい声を作って、仰々しく胸を張る。

 お道化た振舞いは、空気を弛緩させるためのフェイクで。

 

「俺が直々に教えてやるよ。大人の生き様ってヤツをさ」


 それが分かってしまったから。彼から目が離せない。





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