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「じゃあね。杏鶴ちゃん。和泉が何かやらかしたら。いつでも連絡して」

「えっと……。分かりました」

「まぁ。こいつにそんな度胸はないと思うけどね。無防備な私が横で寝てても、何もしてこなかったような奴だし」

「おう。その話してやろうか? 神谷が酒に潰れて、そこのトイレでモドした話」

「そ、そこまでは言わなくていいのよ!」

「人の家で飲んで吐いて。イビキかいて寝てる阿呆にどう興奮すりゃいいんだ」


 別れ際。玄関でヒールを履いていた鹿奈が懐かしい話を掘り返してきた。

 あれは、入社して一年目の頃だったから、今ではもう四年も前の話になる。


「……神谷さんは、よくここに来てんですね」

「よくって程じゃないわ。荒らすからって嫌がるのよ。そんなことないのに」

「今のエピソードの後に荒らさないは信憑性ないだろ」

「どう思う? 一度きりのことをずっと言ってくるの。器が小さいわよね?」

「自覚ないのかもしれないが、神谷って常日から頃絡み酒だぞ」

「あんたにはでしょ?」

「ああ」

「それは分かってるけど」

「いや。分かってるなら直してくれ……」


 鹿奈は、酒を飲むと気が大きくなるタイプで、普段から我を押し通す性格なのに、それが一層頑なになる。サシで飲んでいる時なんかは、雪翔に流行りの一発ギャグをカツアゲし、つまらないと一蹴する程横暴なのだ。


 それを酔っ払い相手だから仕方ないと、流してきた雪翔だったが、まさか本人に自覚があるとは思っていなかった。確信犯であるなら、尚のこと罪は重い。


「杏鶴からも何か言ってくれ。酒癖の悪い駄目な大人が目の前にいるぞ」

「……随分仲が良いのですね」

「くっ。初対面だからかキレが悪いな」


 もっと心を抉る一言が欲しかったのだが、流石の杏鶴でも初めましてで毒づくのは難しいらしい。そこまで考えてみて、ふと、自分の初対面時を思い出す。


「あれ? 俺だけ……?」


 もしかしなくても、きつく当たられているのは自分だけではなかろうか。

 そんな思考に膝が崩れそうになったが、きっと勘違いだと言い聞かせて、邪念を払う。恐ろしい仮説はかなぐり捨てて、どうにか正気に戻ると、二人の会話が聞こえてきた。


「杏鶴ちゃんがいるなら家は空けられないわね。やっぱり、次は宅飲みかしら」

「雪翔もお酒を飲むのですか?」

「ええ。飲むわよ。私ほど強くはないけどね」


 普段より少しカタイ印象の杏鶴だけど、それでも萎縮するようなことはない。

 初対面では鹿奈の毅然とした圧に怯む男も多いのだが、気圧されている様子はなかった。気の強い者同士。波長が合うのかもしれない。

 

「お酒を飲んだら……」


 そう呟きながら、雪翔を見上げてくる杏鶴。

 彼女はヤケに、その状態の雪翔を気にしていた。


「なんだよ?」

「いえ……。別に」

 

 何の意図かと訪ねても、答えははぐらかされてしまう。

 その空いた沈黙に、鹿奈が割って入ってきた。


「和泉は飲んでも変わらないのよね。すぐ頭痛いとか。眠いって言うし」

「流石に我を忘れるレベルまでは飲まないな。女子と一緒にいる時に」  


 酒を飲み始めたばかりの大学生でもないんだから飲み方は心得ている。

 それこそ、劇団にいた時は飲み会も多かったし、自分のキャパは把握済みだ。


「……」

「……」

「なんだよ?」


 当たり前の主張をしたら、ジトッとした視線を向けられた。何故か二人に。


「あざとい」

「そういうやり口ですか」


 鹿奈が呟いた言葉に杏鶴も妙に納得している。

 二人にしか分かり合えない部分があるらしい。


「まぁいいわ。とにかく私は帰るから。いきなり押し掛けて悪かったわね」

「結局何しにきたんだよ」

「……。同僚の不審な行動を調査しにきただけ」

「疑いは晴れたか?」

「あんたのことがより分かならくなった」

「常人には理解できない俺。カッコいい」

「はぁ。いつかあんたの頭の中を覗いて見たいものね」


 呆れた様子で鹿奈がため息を漏らす。

 それが皮肉だとは分かっても、雪翔は笑い返した。


「杏鶴ちゃんもまた会いましょう」

「……お気をつけて」


 短い挨拶を交わして、鹿奈がドアノブに手を掛ける。

 正確な時間は分からないけど、今が深夜だということは間違いない。

 

「杏鶴は風呂済ませててくれ。途中まで送ってくるよ」

「え? あ、はい……。分かりました」

「気にしなくていいわよ。これは建前じゃないからね?」

「途中までって言っただろ? 人通りの多いとこまで行ったら帰る」

「はいはい。あんたの好きにして」


 おざなりに言って、雪翔を待たずにさっさと外へ出ていく鹿奈。

 数時間前はエスコートがどうだと宣っていたのに、随分気分屋なお姫様である。


「ちょっくら行ってくる」 


 杏鶴の方に声をかけながら、雪翔も玄関で靴を履く。

 返事がないことを不思議に思い、床を蹴りながら顔を上げると、杏鶴は普段と変わらない表情で、雪翔に視線を向けていた。


「……どうした?」

「いえ。あなたを送り出すのは始めてだなと」

「あぁ……。そういえばそうかもな。何か。変な感じだ」


 誰かに送り出される感覚は、形容し難い懐かしさを思い出させる。

 今朝の杏鶴も、雪翔と同じことを考えていたのかもしれない。


「行ってきます」

「行ってらっしゃい」


 そんな畏まった挨拶をしたら、こっばずかしくなってしまう。

 杏鶴は、すぐに背中を向けて、脱衣所に逃げ込んでしまった。


 あの様子なら、そのまま風呂に入りそうだ。

 今度こそ玄関を出て、鹿奈のことを追いかける。


「ほんとに待つ気ないな……」


 階段を降りても彼女の姿は見当たらない。

 そのまま駆け足で角を曲がって、ようやく後ろ姿を確認できた。


 この辺りは街灯が少なく、薄暗い。

 ぽつりぽつりと家々に灯りは灯っているけど、人目があるとは言えなかった。

 

「おい。待たんか」


 息を切らして追いつくと、鹿奈は一瞥だけくれて、そのまま歩いていく。

 カツカツと奏でられるヒールの音だけが、夜の世界に響いていた。


「……無視かい」


 つい今しがた、杏鶴と楽しげに話していたのに機嫌は良くなかったらしい。

 勿論、それは雪翔に対しての感情だろう。

 鹿奈は初対面であろうと、言いたいことに加減はしない性格である。


 突き当たりを左手に曲がり、彼女の後ろをついていく。

 しばらく歩けば、青色のコンビニが見えてきた。

 暗がりの中を歩いていた雪翔にとって、目が眩むほどの光が放たれている。


「私は、納得してないから」

「……そっか」

「知らないことは怖いことよ」


 彼女が振り返った。

 その表情は茶化せない。


「あんた自身が傷付くかもしれない」

「何があろうと泣き言は言わないさ。約束する」

「……二言はないのね?」

「ああ。嘘は良くないみたいだからな」


 そんな受け売りを口にして、ようやく口の端だけで笑ってみせる。

 鹿奈はそれをまじまじと見据えた後、くるりと踵を返した。


「ここまででいいわ」

「いいのか? 駅まではまだ歩くけど」

「ここからならすぐよ。エスコートご苦労様」

「おまえが言うなら分かった。それじゃ、またな。今度こそ次は会社で」

「何よ。そんなに迷惑だった訳?」

「いや……。まぁ。また遊びに来てくれ。たぶん。杏鶴も喜ぶと思う」

「たぶん、ね。はいはい。頼まれちゃったら仕方ないわ」


 リズミカルに歩いて、半身で振り返る鹿奈。

 蠱惑的に片目を閉じた表情は、少し幼げに見えた。

 そして、もう振り向かずに人波の中へ消えていく。

 それを最後まで見届けてから、雪翔も家に帰ることにした。


 杏鶴の待つ。我が家に。





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