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二章『それは羽休めのような』
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「……きて。……さい」
頭の中に声が響く。
落ち着き、澄み切った鈴の音。
でも、何処か丸みもあって、可愛らしい。
そんな声に何度も呼ばれて、徐々に意識が浮いていく。
それで、自分が夢の中にいるんだと気付いて、
「起きてください。今日は朝から仕事なのでしょう?」
仕事というフレーズに身体が思い切り飛び跳ねた。
ガバッと起き上がると、高窓から暖かい日差しが差し込んできている。
今日も今日とて、新しい朝がやってきていたようだ。
「ナチュラルに二度寝しようとしないでください。アラームの意味がありません」
聞こえてくる声の方向に顔を向ける。
雪翔が寝ているベッドの横には、不満顔の杏鶴が腕組みをして立っていた。
寝起きの薄目で目を合わせると、小さく溜息を吐いて、呆れ顔を浮かべてみせる。彼女の恰好は制服で、朝の準備は早くも終わっているらしい。
「わりわり。今週はずっと夜中の三時とかに寝てたから。中々寝付けなくてさ」
今週一杯取り組んできた試作も、製品の抜き取り工程を残すだけとなり、夜間の人手は要らなくなった。それに伴って、雪翔も日勤の仕事に戻っている。
この変則的な勤務時間の変動に身体の方が追いつかない。
雪翔はまだ経験にないが、夜中から朝までの勤務も存在するので、日常的に交代勤務を回している現場作業者は本当に大変だろう。
夜勤手当が支払われていると言えど、確実に寿命は削っていると思う。
「私がいてよかったですね。声を掛けなかったら、確実に遅刻していましたよ」
自分の功績を鼻高々に主張する杏鶴。
朝一番から恩着せがましくはあるが、助かったのも事実なので、ここは快く返礼品を送ることにする。
「はいはい。お返しに健康パンをあげるから」
「こんなに嬉しくないお返しは初めてです……」
「まぁ、そう言わずに持ってけ。腹持ちは良いから」
きっと、彼女はお弁当なんて持っていないだろう。
その癖、放課後は忙しく奔走しているようだから、多少強引にでも食料を押し付けておく。彼女は例え、自分が空腹であっても、迷子の仔猫が林の中に入って行けば、迷わずに追いかけていく性分だ。
そのまま人目の付かない所で力尽きる。
そういう無茶をやりかねない。
「今日のフレーバーはチョコだぞ。プレーン味よりもずっと食べ易い」
「美味しいとは言わない所が味噌ですかね」
「痛いところを突いてくるんじゃない。まぁ、騙されたと思って騙されてみろ」
「語るに落ちないでくださいよ。でも……、一応。頂いておきます」
「絶対捨てるなよ?」
「捨てません。レビューと違ったら苦情を入れるつもりですので」
そう言いつつ、健康パンを鞄の奥に仕舞う杏鶴。
それから部屋にあるデジタル時計に目を向けた。
雪翔も釣られて視線を追うと、時刻は七時を過ぎた頃だ。
「もう出るのか? 随分早いんだな」
かつて通っていた英蓮高校の場所は雪翔も当然把握している。
ここからだと徒歩三十分は固いだろうけど、八時三十分の始業時間を鑑みれば、彼女の準備は相当早い。
「空手部の朝練?」
「あなたに空手部に入っているなんて言ったことないでしょう」
「飛び蹴りしてたからそうなんかなって」
「空手の経験はないですね。テコンドーは中三まで七年間学びましたが」
「今まで生意気言ってごめんな。でも、全部杏鶴のためを想ってのことで……」
「突然命乞いを始めないでください。露骨過ぎて余計にムカつきます」
圧倒的強者である少女に媚びへつらったら、逆に反感を抱かせてしまった。
テコンドーとは、足のボクシングと言われる程足技が豊富な武道であり、ここにきて顎を砕くという言葉に信憑性が増してきて震えている。
彼女の勝気な性格も、そういう経験が地盤にあって、形成された物なのだろう。
「今日は図書委員の仕事があるんです」
「図書委員! なるほど……。だから、図書室の妖精なのか」
「そ、そのことは蒸し返さなくていいですからっ!」
威圧感すら出していた杏鶴が、一瞬で頬を赤らめて、分かり易く語気を荒げる。その反応がおかしくてますます笑みを深めてみせると、彼女は逃げるように部屋を出て行ってしまった。
「私はもう行きますから!」
「おーう。気を付けてな」
雪翔も立ち上がって見送りに向かう。
思えば、杏鶴の制服姿を見たのはこれで二回目。
家から出て行く姿を見たのは初めてだ。
「制服ってそんなんだったっけ?」
改めて彼女の制服を見ると、細かな意匠が変わっていて、時の流れを感じる。
杏鶴が身に付けているスカートは覆い布が被さっており、一見スカートにしか見えないけれど、後ろから見た時のシルエットはハーフパンツと類似していた。
所謂、キュロットスカートと呼ばれる衣類で、その構造であれば、大きく飛び跳ねてもスカートが捲れることはないだろう。
悪党を飛び蹴りで吹き飛ばすヒーローには、ピッタリの制服だと言える。
「あ」
玄関でローファーを穿いた杏鶴は何かを思い出したようにして、首だけで雪翔に振り返る。目が合ったから小首を傾げたら、彼女は念を押すようにこう言った。
「買い出し。お願いしますね」
「ん? あ、あぁ……。任せとけ。適当に買い込んどくよ」
「適当に買わないで、私の買い物メモを見て検討してください」
「へいへい。了解です」
昨日から。そこはかとなく張り切っている杏鶴。
今日の夕飯は、彼女が作ることになっていた。
「今日の帰りはいつ頃になりそうですか?」
「特に問題が起きなければ、定時……、五時には上がれるかな」
「はい」
「そこから風呂入って、買い出しだから……。家に着くのは十九時くらい?」
「分かりました。では」
言いたいことも聞きたいことも聞き終えて、杏鶴がドアノブに手を掛ける。
扉を開くと、燦燦とした光が差し込んできて、その中に踏み出していく。
「……」
扉が閉まり切る寸前、視線だけが雪翔を捉えた。
その直後にバタンと音が鳴り、物理的な壁がそびえる。
一瞬の間があって、階段を下りていくローファーの靴音。
それはすぐに環境音の中に溶けていった。
「いってらっしゃい」
そう声を掛けるのが、少し遅かったみたいだ。




