あれは、いいですねぇ。
祖母が入院した。
認知症がすすんだ祖母は、膀胱炎をこじらせて入院することになった。
実家に寄り付かなくなって15年。
久しぶりの対面。
15年ぶりに会った祖母は、脳みそのしわがつるっつるに伸びてしまったようだ。
私のことを微塵も覚えていない。
「おばあさん、こんにちは。」
「こんにちは。」
こんなおだやかな会話をしたことなど、一度もない。
「気分はどう?」
「いいですよ。」
私の言葉に肯定の言葉を返してくるなんて。
「ここはどうですか。」
「いいですよ。」
いいですよしかいえないのか?
「何がすきなんですか。」
「何でも好きですよ。」
繰り返すのかな?
「海は好きですか。」
「あれは、いいですねえ。」
「なにがいいんですか。」
「とても、いいですよ。」
ああ、名詞が出てこないんだ。
「空が綺麗ですね。」
「ええ、いいですね。」
空を見上げていっている。
「ごはんはおいしいですか。」
「ええ、よろしいですよ。」
ご飯の器を見ている・・・のか?
人というのは、こうして老いて逝くのかと、しみじみ、思う。
20分ほど、同じような会話をし、病院を去った。
散々私を苦しめた苛辣な人が、あんなにも穏やかになるとは。
あれはいいですねえといった海は。
私が小学生の頃泳いだ海のことだろうか。
私が生まれる前に、嫁ぎ先で見た海のことだろうか。
祖母の思い浮かべた海は、どの海だったのだろうか。
祖母を知る私だけが。
「あれは、いいですねえ」
この言葉に壮大な物語を感じる。
…言葉を失った人との会話だったというのに。
おかしなことに、私の中には、物語があふれた。
祖母を知る私だからこそ埋めることができる、単語の消え去った物語。
いまだなお、壮大な物語は、続いている。
祖母の残した、「あれは、いいですねえ」の、物語。
完結することなく、私の脳みそがつるっつるになるまで、続く、物語。