帰国- Return Home-
「小の虫を殺して、大の虫を助ける」―という諺がある。つまりは全てを生かすことは不可能だから、大きなもの(全体)のために小さなもの(一部)を犠牲にすべきという諺だ。一見、一部のものが損をする理不尽とも取れるこの言葉ではあるが、この世界を語る上では、これほど説得力のあるものはないのだ。
例えば人類は、長い争いの歴史の中でも、若い男(一部)を戦争に送り出すという選択をすることにより、女を生かしその種(全体)を守ることに成功した。
社会という概念が生まれ、会社という組織が誕生した際もそうだ。会社という全体を守るために、リストラという選択を強いられる人たちがいる。
つまり、誰かが貧乏くじを引かなければ、この世界は回っていかないというわけだ。
大学を休学し、2年の歳月をかけて世界中を旅して回り、この目で見た世界の光景は、どれも同じに見えた。
人間は決して平等ではなく、争いの絶えない生き物である……と。
「2年ぶりの日本かぁ……母さん達、元気にしてるかな?」
およそ12時間のフライトを経て、イギリスのロンドンから日本へと帰国した俺、桜庭凜瞳が目にしたのは、変わることなく佇む建物や人ごみ、そして世界中どこにいても変わることのないであろう真っ青な空だった。
ただ……2年間一度も日本へは帰国していないからか、見渡す限り日本人が蔓延るこの景色は、俺にとってはまるで知らない異国の地に来たかのような余所余所しさと、故郷だから感じられる懐かしい匂いとが入り混じり、どこか独特な雰囲気を感じさせる。
税関の手続きを済ませ、着替えなど諸々入った荷物を受け取った俺は、事前に連絡を取り、迎えを用意してもらっている駐車場の待合スペースへと足を運んだ。
俺の探していた人間は、すぐに見つかった。
「―――久しぶりだな! 凜。 元気そうでなによりだ」
「兄貴! 兄貴も元気そうでなによりだよ!」
待合スペースの隣に併設されてある喫煙スペースから、実に2年ぶりの懐かしい肉親の声が聞こえてきた。
黒髪で洗練された長身に似合うすらっとしたスーツを身に纏い、悠長にタバコをふかしているのは、俺の3つ上の兄―――桜庭葵だった。
「そっか、兄貴ももう社会人だもんな、スーツ、似合ってるじゃないか」
「よせよ恥ずかしい。流石に俺も社会人三年目に突入したんだぜ? スーツくらいビシッと着こなせないとな」
兄貴は少し照れ臭そうに顔を歪めながら、吸いかけのタバコを灰皿へと押し付けた。
「タバコなんていつから吸い始めたんだよ? 俺が日本いる時は吸ってなかっただろ?」
2年の間に、兄貴には少し変化あったようだ。兄貴は寧ろ嫌煙家で、外食をするときも完全禁煙のお店を選択していたくらいだったのに。
「ん?……まぁ、仕事のストレスって奴だよ。先輩にゆわれて去年から吸い始めたんだ。今じゃタバコがねぇと仕事なんてやってられないよ」
「ふーん、タバコなんて、兄貴とは無縁のもんだと思ってたけどな」
「お前も社会人になればわかるさ。いろいろ大変なんだよ、社会に出るってのは」
「まぁ、それはまだまだ先の話だよ」
俺は2年間大学を休学しているため、学年で言えばまだ1年生だ。就職は4年後になるから随分遠い話に聞こえる。
「そうだな。とりあえず、ここじゃあれだし、積もる話も山ほどあるからな。うちへ帰ろう、母さんが待ってる」
「ああ、だね! 俺もうお腹空いて死にそうだよ」
そういえば、機内食を食べてからもう随分何も食べていない。日本食も現地ではほとんど口にする機会がなかったから、今では日本の料理を想像しただけで、口から涎が出てきてしまった。パブロフの犬かよ俺は。条件反射もいいところだ。
そこまで多くはない荷物を、兄貴が中古で購入したというセダンのトランクに詰め込み、俺と兄貴は母さんの待つ我が家へと走り出した。
「ところで、凜。一体この2年何をしたらそんな体つきになるんだ? 2年前はヒョロイ体してたってのに」
俺の体を横目に、またタバコをふかしながら運転している兄貴が質問してきた。
「色々あったからなぁ……カザフスタンの紛争に巻き込まれたり。国境1つ越えるのに国境警備隊に撃たれて殺されそうになったりさぁ……」
「我が弟ながらとんでもないことに巻き込まれてんな。お前、心配してる俺ら家族のこともちゃんと考えてたのかよ?」
「勿論だよ、だからこうして体を鍛えたんだろ?」
「撃たれたら終わりじゃねぇか、バカかお前は」
「気持ちの問題だよ気持ちの。 ひょろひょろよりは全然いいだろ?」
「ったく……お前ってやつは……」
「いいじゃないの、無事帰ってこれたんだしさ」
かぁ、っと頭を抱えながら兄貴が呟く。確かに、日本に住んでいる限りはありえそうにないような経験をしたといえばそうなるな。兄貴がこういうのも分からなくはない。
でも、裏を返せば、俺が経験してきたこと全てが、現地では起こりうることであり、非日常ではないということだ。
俺がこの2年間、何を見て、どんな経験をして成長したのかは、またの機会に話すとしよう。それはきっと、異国の地より始まった、別の物語として綴られていく冒険譚のはずだから―――。
まだ少し肌寒さの残る、春の風が開花を待つ桜の蕾の香りとともに駆け抜ける、そんな夜だった。