第六話
合同訓練二日目からアルタナディアはエレステルの方々を回っていた。
エレステルは首都グロニアが極端に東よりに位置するため、広大な国土の西側ほど中央の目が届きにくい。
また、国境付近の領主たちは国防の要である。ゆえに中央政権に対する影響力は思いの外強く、自領内で国王の如き振る舞いをする輩も少なくない。それでも好き放題できないのは、グロニアから国境の要地に派遣されるエレステル軍が存在するからである。五つある大隊の内三つの大隊が三つの地区に配備されるのだが、これは外敵のみでなく内部へも目を光らせているのだ。しかも大隊は一定期間ごとにローテーションで回されるため領主が軍と癒着することも難しい。だがその軍も領主の支援がなければ戦線を維持できない。また、最も怖れるのは裏切りである。国境付近の領主が外国に寝返ればあっという間に国境線が変わるのだ。それらの要素を天秤に乗せると……やはり地方領主に秤は傾く。
そこで王室を含めた首脳陣が内々で考案したのが最高評議会十三席のうち、最低でも三席以上を地方出身者の優先席とすることだった。この様式が伝統となり、地方領主の悪癖は今も残る。もちろん、皆が全てそうだというわけではない。国境を守護するからこそ誇り高く、その魂を代々引き継いでいる家系も存在する。しかし当代の人物がどうであれ、やはりその時代の王の影響力が大きなキーポイントとなることは間違いないのだ。
そういう意味では、今が最悪の時と言える。バレーナは両親も死に、ただ一人。直系の血筋としては天涯孤独の身であり、他に王家の血筋を引く者はかなりの遠縁でわずか数名で、残念ながら国に対して影響力を持つような人間ではない。だからこそアルタナディアは前面に出て、孤軍奮闘するバレーナと共立して見せようとしている。各地の訪問もそのためであった。
本来であれば、友好国とはいえ外国の王族が地方領主を訪ね歩くなどありえない。ともすれば謙った態度と取られかねず、イオンハブスの王室の権威を失墜させかねないことであったが、アルタナディアは直近の実を取った。顔を合わせることは、バレーナの敵となるものであればプレッシャーになり、味方であればより協調性を高めることができる―――そう考えていたからだ。
しかし、それは甘かった。馬車の中でサンジェル医師長と看護師に挟まれて汗を拭いてもらうアルタナディアはまだ熱が引かない。だが、沈痛な面持ちはそのせいだけではなかった。
「情けない……私には王として足りない物が多すぎる……!」
苦々しく弱音を吐くアルタナディアはおそらく相当稀に見るものなのだろうと、向かいに座るロナは感じていた。瀕死の状態でなおここまで来たアルタナディアである。ずっと意識が朦朧としているはずだが、それでも会席の場では背筋を伸ばし、立ち居振る舞いは静かに、瞳からは力強いオーラを発揮する。この華奢な身体のどこにそんな鋼の闘志があるのだろうか……感服する。地方領主との会談でも聡明さを存分に発揮する受け答えで、女王としての資質を示すには十分だった。
だが、領主が求めるものはもっと現実的なものだった。未来への期待ではなく、今提供できるものを暗に探られる。これに対し、アルタナディアは答えを持っていなかった。正式な手続きを経て女王になったとはいえ、あくまで急拵え。自国の内政に関してはまだ何一つとして引き継ぎされていないこの状況で、アルタナディアの一存で物事を決めることはできない。エレステルに行軍したのは非常時の特例措置として処理できる確信があってのことで、これ以上の勝手は自国で不評を買うだけでは済まない。結果、バレーナ派でも反対派でもない中立勢力との会談では手応えを得ることができなかった。
ロナがつくづく不運だと思うのは、バレーナもアルタナディアも王座を継承するタイミングが早すぎたことだ。特にアルタナディアはある程度の教育は受けているだろうが、実践はこれからだったはずだ。本来ならば父であるガルノス王の手によって社交界デビューを果たし、その美貌と才が噂で広まり―――満を持して女王となっていたはずなのだ。前評判のないアルタナディアは実際無名の女王。盗賊団を撃退したバレーナを超える実績を積み重ねなければならない。しかし、今の状態では……
「…アルタナディア様、差し出がましいようですが予定を切り上げてお休みなさるべきかと。このまま続けられても、おそらく……」
「わかっています…。ですがエレステルにも生前父と懇意にして下さった方々がいらっしゃいます。私の代になってもその関係が続いている……そう感じさせるだけでも反対派に対して効果はあるはずです…」
アルタナディアはまだ折れてはいない……だが弱い。見ている方が辛くなる。
ある意味似た立場のロナにはよくわかる。どれほど優秀でも、若さが相手の信用を阻害するのだ。ただ若いというだけで、たまたま上手くいっているだけだろうとか、誰かの入れ知恵ではないかと高を括られ、才格を疑われる。しかしそれは経験に裏打ちされた実績がないため仕方ないのだ。そんなときに必要なのが背中を押してくれる第三者、すなわち「後ろ盾」だ。ロナにとっては父、そして実家のバーグ商会がそれにあたる。エレステル内で頭一つ抜けたバーグ商会がその看板を賭けてくれるからこそロナに価値が出た。大きな商談も任され、他の商人ともつながりができ、アケミに引き抜かれ、現在に至る。決して一人では成しえなかったことだ。
今のアルタナディアにはその後ろ盾がない。その一番の原因はバレーナの強襲なのだからロナには何も言えないが、その代わりに今回アルタナディアは間接的にバレーナを後ろ盾に利用した。つまり、バレーナ支持を訴えながらも、自身が次代の王であるバレーナに認められる王族であるとも語ったのだ。しかし二人とも王としては張り子の虎……互いに寄り添ったところで、絶対的な権威を得るにはまだ脆弱すぎる……。
時刻は午後六時。予定の訪問を終え、次が最後である。
グロニア郊外にある山の麓。ここがジレン一族当主が代々住まう屋敷の入り口である。
「アルタナディア様、ご要望通り到着いたしましたが……本当にお訪ねになるのですか?」
馬車が止まってすぐ、ロナが訊ねた。この数日間、長距離の移動と会談を繰り返し、アルタナディアは衰弱しきっている。しかしロナの心配はそれだけではない。
「重々申し上げますが、ジレン一族は王の選定者として絶対中立の一族です。あらゆる場所に溶け込み、あらゆる立場から王にふさわしい人物かどうかを評します。その公正さを保つために自身がジレンであることを一生明かすことはなく、親兄弟ですら別人となり、互いの顔も知らないことがあるほどと言われています。唯一顔が知られているのは当代の当主のみ。その当主に認められることこそバレーナ様が王座に着かれる絶対条件ですが、説得に応じられることはないかと存じます…」
「……話を聞くことができれば、何が必要なのか…そのヒントを得られるかもしれません……行くだけの価値は…あります…」
やつれた顔を上げ、立ち上がるアルタナディアだが、もはや真っ直ぐ歩くこともままならない。マユラの手を借りて降りると、後から降りたサンジェル医師長が悲鳴を上げた。
「これはいけません……今のアルタナディア様では到底辿りつけません! 今回は諦めてまた出直されるべきです!」
切り開かれた広い山道には見上げるほどに石段が続き、ここからでは屋敷は見えない。しかも壁かと見紛うほどの急斜面であり、サンジェル自身、登れるかどうかも怪しい。しかしアルタナディアは制止しようとする手を振り払う。
「滞在期限が迫っています……今体制を整えておかねば、その次の段階で手も足も出なくなります…。打てる手は、打っておかねば……」
「何を仰っているのです! 次がどうのと考えるときではございません、今お身体を労らなければ……どうかお聞き入れください、アルタナディア様!!」
サンジェル医師長の必死の懇願を前にして――アルタナディアはクスリと、弱々しくも笑った。
「サンジェル……あなたには幼いころから世話になっていますが、すみません……子供の頃の私は聞きわけがいいフリをしていただけなのです…騙していてごめんなさい」
これを聞いてサンジェルの後ろに控えていた若い看護師の女は思わず含み笑いをしてしまう。が、すぐにサンジェルに睨まれて口元を押さえる。
「…アルタナディア様、私とマユラは同行できません。この見通しのいい山道は来訪者の存在を誰もが確認できるよう、意図的に設計されているそうです。今の状況で私たちが接触を望めばバレーナ様の王位に関わる不正を疑われるのは明白ですが……それでも向かわれますか?」
ロナの忠告はアルタナディアを思い止まらせようとするものだったが、
「当然です……私一人で行きます…」
やはり効果はなかった…。
「三時間……いえ、四時間経ったら迎えに来て下さい…」
「ですが…!」
「お願いします…」
熱に浮かされてなお、アルタナディアは真っ直ぐな瞳で一同を見据えた。
登る。
登る。
一段。……そしてもう一段。
身体に力が入らない……まるで神経が繋がっていないように感覚が鈍い。果てしなく続くこの石段は足を滑らせれば、転落は免れない。膝を着き、手を着き、這うようにして、また登る。
日は沈み、空は赤黒く夜の顔へと変わりつつある。先程まで共に歩んでいた影も暗がりに溶け込み、今はもう一人。
身体が燃えるように熱い……傷が疼き、昨晩抜糸してできた新たな傷痕が痛む。脂汗は止まらず、髪が額や頬に張り付く。身体の中はどろどろに溶けたように気持ち悪く、今日は嘔吐感が特に酷い。
登る。
登る。
掻くようにつま先を動かし、指を伸ばし、登る―――…。
…目を開けたが、何も見えない。いつのまにか意識を失っていたようだ。暗闇の中、瞳には何か映っているのだろうが、何かがわからない。
意識はこれまでにないほどはっきりしているのに、身体は何一つ感じない。
いや―――
「……つめ、たい…」
頬に当たるのは、土か…。
意識を繋ぎとめようとその感覚を反芻するが―――木霊のように空しく消えて、全ては闇に沈んでいった……。
「…………」
「お気づきになられましたかな」
豊かな髭を蓄えた老人が、柔らかなオレンジ色の火を灯すランプに照らされて見下ろす。アルタナディアはベッドの中、重い瞼の隙間から目だけを動かしてその老人を見た。
「失礼ながらお召し物は替えさせていただきました。身体中に斬られた痕と高熱……されど戦士というわけでもない御様子。高貴な御身分のお方であるとお見受けいたしました。お名前をお教えいただけますか。迎えをお呼び致しましょう」
「…………」
「ああ、失礼いたしました。御容態がよろしくないのにこのように話し続けてしまい、申し訳ございません。お構いはできませんが、ゆっくりお休みくださいますよう――」
「いえ……それには及びません。私は、ここに用があって…参ったのですから……」
アルタナディアが身を起こそうとするが、生まれたての小鹿のように弱々しい。しかし懸命に腕を突っ張り、よろめきながらもベッドから出て、老人の前に立った。
「ここが…ジレンの、お屋敷なのですね…」
「左様でございます。しかし今、主人は出払っておりまして…」
「いいえ。あなたが当主です、ミスター・ジレン」
老人は眉ひとつ動かさなかったが……ややあって、目元を細めた。
「何故、そのようにお思いになられるのです?」
「昔グロニアを訪問した際、城中でお見かけしたことがあります。そのころ、お髭はありませんでしたが……私とバレーナを見ていたのを覚えています。城中で、一使用人の格好をしていないのなら、ジレンでも特別な人物……すなわち、ただ一人面が割れているジレンであるご当主である、と……。おそらく、父や私を直に見にいらっしゃっていたのでしょう…」
「……なるほど。さすがの観察眼でいらっしゃる」
老人は口髭を取った。変装用の付け髭だったが、外した瞬間ガラリと雰囲気が変わる。どっしりと根を生やした、大木のような存在感。国の王を選定する重要な任務を負う秘密主義の一族―――その歴史の中で王とともにあり、王を生みだす。ある意味で王以上に己を滅す、非情な運命にある。その長ともなれば、たとえ相手が女王であってもたじろぐことはない。大らかで慇懃な態度を取りながらも、アルタナディアに向けるその眼光は鋭い。
「ご挨拶申し上げますアルタナディア様。私のことはただ『ジレン』とお呼びください」
「……少し、意外です…」
「何がでしょう?」
「白を切られるものかと思いましたから…」
「白を切ったところでどうなるものでもありますまい。お迎えが来ればここがどこで私が誰かなど、すぐにわかることなのですから」
「それはそう、ですが……」
ぐらりと体勢を崩すアルタナディアを支えた老ジレンはすぐさま侍女を呼ぶが、アルタナディアは「大丈夫」と手で応えつつ、その侍女を見た。特に特徴のない給仕服に身を包みながらも顔半分、目鼻から上を大きなマスクで隠している。外見からはアルタナディアと同じか年下の少女のようだが、彼女も紛れもないジレンなのだろう。仮面は、面が割れないためだ。
感情を顕わにしない彼女を眼の端に止めながらアルタナディアはまたまっすぐ立つ。ふらついてはいるが、とにかく自らの両足で立たなければならない…。
アルタナディアはゆっくり、静かに呼吸すると――――老ジレンの前で、床に膝を着いた。老ジレンの眉がピクリと跳ねあがる。
「……一体、何のおつもりですかな…?」
「ジレン様……私はあなたに教えを乞いに参りました。私が王であるために……王の何たるかを、ご教授いただきたいのです…」
「お言葉を返すようですが、意外ですな。バレーナ様を王にするために私を説得しにいらっしゃったのだと予想しておりましたが」
「それも……考えてはいました。しかし、バレーナが王になれない要因は私にも多分にあると聞きました。私は覚悟と自覚を持って女王となったつもりですが、所詮名ばかりの小娘であることに変わりありません。臣民が本当の意味で私の声に耳を傾けてくれるようにならなければ、私はいつまで経ってもバレーナの隣に立てないのです。お願いいたしますジレン様………私に叡智をお与えください」
「…私どもが王様にお教えできることなどございません。その時代によって必要とされる素養が異なります。ゆえに、あらゆる角度から判断するために我々は市井に溶け込むのです。ただ……人の上に立つ者には共通して持ち得るものがございます」
そう言って老ジレンは棚の上から小箱を取り、アルタナディアの目の前で開く。普段表情の変化が薄いと言われるアルタナディアの顔が、驚愕の面持ちで固まった。
「それは、…………どうしてここに……」
真っ赤なルビーが埋め込まれた指輪。それは幼き頃、誓いと決別のために手放したものだった。
「亡くなった先代の当主が少女から頂戴したと申しておりました」
「当主……では、あの方が…!?」
「曰く、その少女は王の器と資質を持っていると。そして―――最も大事な物が欠けているとも」
「! それはっ……それは何なのですか!!?」
老ジレンに食い下がろうとするも、華奢な背中ははがくりと折れて床に伏せる。侍女が手を貸し、アルタナディアはベッドに促されるが、拒否する。もはや肉体は限界を越えている……横になれば、もう起き上がれないだろう。だからこそ歯を食いしばり、己に鞭打つのだ。
しかし―――その有様を、老ジレンは冷めた目で見下ろしていた。
「…私も今、確信いたしました。アルタナディア女王―――あなたには、自己が無い。ゆえに王ではない」
「は…!?」
アルタナディアはしばし言葉が出なかった。全く予想していなかった解答だったからだ。
「……どういうことでしょう…王が、国のため、民のために己を殺して尽くすのは当然のことではないですか」
「小さな集団であればそれもまた正しいでしょう。しかし王は違います。王は国そのもの。民あっての王ではありません。王政の国にあってはまず王ありき、そして称える民があって初めて国となります。ですが貴女が今おられるのは民の下。滅私奉公する様は奴隷のそれです。こうして貴女がここで傷だらけの身を押し、他国の人間に頭を下げているのを誰が知っているのです? あなたが一人で訪れたのは部下に心配をかけないため? 民に不安を抱かせないため? それはただの独りよがりというもの。貴女がどれだけ身を裂いても誰もそのことを理解しようとせず、理解できない。そのような王ならば、誰でもよいのです」
老ジレンの言葉が胸を刺す。王など誰でもよいのか―――それはバレーナの襲撃により王都を離れる道中、自ら得た実感だった。
「貴女にないのは、欲。自ら王でありたいという欲望。それがまったくございませぬ。先代は申しておりました。助言の意味と価値を理解している一方で、母の形見を簡単に手放すのは何か未練を残しながらも、血の宿命と義務感に己の身を任せている。そういう者は王になってはならない。いつか冠を投げ出すからだ…と」
「…………」
アルタナディアは茫然自失の顔で虚空を見ていた。
「それでは……先代様とお会いしたその時から、私は王になれなかったという事ですか…」
「貴女が真の王となるためには、今一度自身を見詰め直さねばなりません。そしてなぜ王になり、王になろうとするのか―――自らの出生とは関係のない王たる理由、王であることを欲すその原因を知るのです」
王たる理由―――
なぜ王になり、王になろうとするのか―――
なぜ――なぜ……
王でありたい欲望―――……
「私……わたしは……」
細い肩が震えだす……そして一筋の涙が、頬を伝って流れるのだった……。