第三話
エレステルの首脳陣との会見を終えたアルタナディアは、一切をロナたちに任せ、シロモリの屋敷に入った。表向きは親交を深めるための食事会という名目だが、そのまま居座り、エレステルに滞在する間の拠点とする。元来国賓であるアルタナディアは城内の一室を借りうけるのが筋だが(イオンハブス王家が訪れる際にいつも使う専用部屋が城内にある)、今回はアルタナディアの体調を隠さなければならない。バレーナと斬り合ったことは反勢力側も知っているはずだが、アルタナディアが現状どれほど回復しているかが重要である。ここでもし満足に動けないと察知されれば、付け入る隙を与えることになる。
「大した世話はできないし、あたしもあんまり帰ってこないが、気兼ねなく使え。何かあれば親父殿に言えばいい」
紹介された「親父殿」ことアケミの父・ガンジョウ=シロモリは、体躯こそ大きくはないが、山のような、重厚な雰囲気の持ち主だった。そしてこの屋敷の形状と同様、見慣れない独特な衣装「キモノ」を纏っている。聞くところによれば、シロモリ家とはかつてこの地に流れ着いた異国の武人が始まりであるとのことだ。「アケミ」「ミオ」という聞き慣れない響きの名前も伝統だという。
挨拶を終えたアルタナディアは客間に通されると、倒れ込むようにベッドに入った。アルタナディアに従事する医師やメイド、そしてカリアは、アルタナディアの傷の消毒をし、新しい包帯を巻き直し、薬を飲ませる。全身の傷は治るどころか、未だに血が滲み、熱を持っている。それは道中の無理なリハビリが原因だった。通常、怪我や病気で寝たきりの状態になればすぐに筋力は落ち、間接は固まり、立ち上がることも困難になる。これを避けるため、アルタナディアはベッドに伏していながらも自身の身体をカリアに動かさせた。しかしどれだけゆっくり、慎重にしても、筋肉が動けば痛みが奔り、傷が開く。結果、アルタナディアは未だに熱が下がらないままだ。
一通りの処置を終え、ベッドに沈むアルタナディアの頭上からアケミが声を掛ける。
「気合いで乗り切るのも限界だろ。しばらく休め」
「いいえ……まだ合同演習での訓示が残っています……『その時』がいつかはわかりませんが、それまでに鍛え上げなければ、兵が無意味になってしまいます…」
「あっそ…」
アケミは早々に説得を止めた。アドレナリンが出っぱなしのヤツには言葉が届かないものだ。が、カリアは諦めなかった。
「姫様、約束して下さい。私が無理だと判断したら、その時は治療に専念してください」
「……今は国の一大事です。動きだした以上、イオンハブスに対しても、エレステルに対しても、そしてバレーナに対しても責任があります……だから…」
「姫様以外はどうでもいい、などとは申しません。ですが、姫様なしでは何も成り立ちません。国も、私も」
カリアの真っ直ぐな眼差しを受け……折れたのはアルタナディアだった。
「…………わかりました。今日はもう休みます……明日も頼みます、カリア……」
すうっと、糸が切れるように眠るアルタナディア。憑き物が落ちたように眉間の皺が消え、穏やかな表情になった。それを脇で見ていたアケミは感心する。
「…ホント、お前のどこに頼れる要素があるんだろうな」
「何でだ! 私だって……姫様を支えている自負はある」
「単に余裕がないから猫の手も借りたいってだけじゃないのか?」
「お前っ……ケンカ売ってるのか!?」
「現に、女王になったというのに未だに『姫様』呼ばわりするお前に何も言ってないんじゃないのか」
「? ――――あ…っ!!」
思い返してみてカリアは初めて気が付いた。フィノマニア城を発ってから「姫様」としか呼んでいない。
「気をつけろよ。側近のお前がそれじゃ、アルタナディアは大した統率力もないって見透かされるぞ。この先、様々な場で一緒に行動することになるお前の役目は、アルタナディアを『女王』にすることだ。近衛兵はチンピラの用心棒じゃないんだぞ、よく覚えとけ」
しつこく小突くアケミの手を払いつつも、カリアは言い返せなかった。代わりに、素直に疑問をぶつけてみる。
「なあ……どうして助けてくれるんだ?」
「はあ? お前本当に理解してるのか、今回のことを。国家間のわだかまりをどうにか納めるためには互いにバランスのとれた対等の関係になろうってのがアルタナディアの考えだろ、だから王としての実力を証明するのに――…」
「そうじゃなくて! だからっ、その……バレーナ王女やお前の妹を傷つけたんだぞ、私たちは」
バレーナは言葉を失い―――……ややあって、渋い表情になる。
「…先に仕掛けたのはバレーナだろ。ミオも任務の結果手傷を負ったんだし、それはお前もだろ……というか、どうしてそんなことを持ち出す? 関係が悪化するとか考えないのか?」
「それはそうだけど……なんというか、いろいろしてもらってるのに、悪いなって思って……」
「………お前、アルタナディア以上にやりにくいな」
「え?」
何が?とカリアが聞き返してくるが、アケミも上手く答えられない。ただ、前にアルタナディアがカリアを評価していたことの意味は、何となく、わかった気がする…。
「…ともかくだ、あたしはバレーナの味方であって、お前らも味方だから助けているだけだ」
「ああ! トモダチのトモダチはトモダチってことか!」
「やめろよ!? ホントお前ら厄介だわ…」
カリアの真っ直ぐな瞳で見つめられると背中がムズ痒くなってしまう。小生意気なミオがとても懐かしい……。
エレステルにおいて「戦士」は格別であり、職業軍人ともなれば羨望の眼差しを浴びる。総人口五十万人の内、三万人が軍職に就いている(兼任も含む)が、やはり一番人気は実働部隊である五つの大隊である。
エレステルは東をイオンハブス、南を海で囲まれ、北から西をその他の諸外国と隣接している。イオンハブスは友好国であり、南の海はほぼ岸壁で侵入できない地形だが、イオンハブスの二倍以上の国土ながら首都のグロニアは極端に東側に位置するため、どうしても北西方向への影響力は弱くなる。ゆえに隣接する諸外国は常に国境線を変えるべく、虎視淡々と機会を窺っているのだ。
これに対応すべく、エレステルは各方面に砦を建て、常に警戒している。大隊の三つを国境警備に、残りはグロニア西側郊外の宿舎・訓練所・養成所の揃った各隊の基地にて準待機状態となる。ただ、待機といっても申請すれば外出することも実家に帰宅することもできるため、実質的にはほぼ休暇扱いである。
その「待機中」である第一大隊、および第二大隊、そしてイオンハブス軍は、基地からさらに西の広大な演習場に集まっていた。前触れなしの合同演習の知らせを受け、エレステル軍は準備に忙殺されていた。
「片っぱしから木剣集めてきたぞ!」
「まだ足んねぇよ!」
「もう真剣使えばいいじゃねぇかー」
「阿呆! 修繕するのにどんだけの物と手間とカネがかかるかわかっとんのか! 総勢一万人だぞ!? おい、木剣自作できるヤツは自分で作れって伝えろ!!」
職人や武具管理役が奔走する中、イオンハブスの兵士にできることはない。そのイオンハブス陣営のテントの前で、白い軍服を着たアルタナディアが二人の部下と面談していた。
「……わけもわからず連れてこられ、本日いきなり演習となり、さぞ戸惑っていることだと思います。ここまでの道中でもアケミ=シロモリやブラックダガーと密談して自分は疎外されている……そう感じていたのではありませんか」
「いえ、そのような…」
肯定的に答えながらも目は笑っていないこの男、カエノフ騎士団長である。名門貴族出身で、その誇りに恥じぬ大柄な態度と華美すぎる身なりは騎士団内部でもあまり評判がよくないが、それなりの実力者ではある。しかしエレステルの屈強な戦士たちと並ぶと見劣りするし、なによりバレーナ襲撃の際にろくに戦えなかった有様が彼の評価を大きく下げていた。自慢のチョビヒゲもいささか艶を失っているように見える……。
「あなたが私に対し、不審と不安を抱いているであろうことは想像に難くありません。私があなたの評価を迷っているのと同様、あなたも私を王と認めるには至らないと感じている。その点では互いに対等であるとも言えます」
「は…」
アルタナディアが何を言っているのか、カエノフは今一つ理解できていない。ただ、これまで拝謁してきた「アルタナディア姫」とはもはや完全に別物だ。
「まず私が望むことは一つ。イオンハブスが強くなることです。我々は伝統と研鑽を重ねてきましたが、経験が絶対的に足りない。ここに兵を引きつれてきた理由の一つは、その経験値を得るためです。イオンハブスでいくら仮想敵相手に訓練しても、実例のない幻が相手では所詮形だけのものに成り下がってしまいます。まずは目標とするべき戦士の力を知るべきなのです……」
饒舌だったアルタナディアの声のトーンが落ちる。カリアが支えようと一歩踏み出しかけたのを手で制し、自ら椅子に腰かけた。
「…単純な戦闘力は言うに及ばず、戦場における行動力、技術力、応用力は天地の開きがあるでしょう。しかし………多人数での集団戦法ならば引けをとらないと私は見ています。特にエレステル入国の際の行進はよかった。エレステルの民も見惚れていたでしょう? 普段の訓練の成果が十分に発揮されたものだと、私は満足しています」
「はっ…はは! お褒め頂き、光栄にございます!」
カエノフの瞳にようやく光が差してきた。それを確認してアルタナディアは続ける。
「カエノフ騎士団長。バレーナ王女たちが現れた時、予測できない奇襲であったとはいえ、相手は寡兵でした。真っ向勝負であれば勝てたと、今なら思えませんか?」
「…思います!」
「騎士団がもっと戦えていれば、このような状況にはなっていなかったでしょう。違う選択肢があったはず……。現在のイオンハブスは戦争状態にないため、積極的な戦闘行為はありません。しかし戦える力を備えていれば、有事の際に選択肢が増えます。それはイオンハブスの未来への可能性を広げるという事でもあります」
アルタナディアの後ろで聞いていたカリアは雷に打たれたような衝撃を受けていた。
騎士団が国の未来を担う……それほどの重みを理解していただろうか? いや、まるで考えていなかった。生活のために、剣の腕が多少あったから騎士団に入り、近衛兵になってからも、ただアルタナディアだけを見て行動してきた。だがそれだけではダメだったのだ。
バレーナ襲撃の日の夜、フィノマニア城を脱出したときのことを思い出す――
『おまえのような自分勝手は、いつか国を滅ぼすぞ…!』
剣の腕だけではなかった……やはりミオとは戦士として決定的な差があったのだと今は思う。
アルタナディアの話はなおも続く―――。
「――現在の騎士は世襲によって引き継がれることが多く、その特権に甘えるがゆえに実力が伴っていないのではないか……そのような声があることを知っていますね?」
「は…」
「私はそうは思いません。世代を越えて国を守護する任務は王族と等しくあり、その重責は私も理解しているつもりです。だからこそ、騎士団は正しく、強くあってほしい。そして騎士団を率いるあなたには誇り高くあってほしいと願うのです。これは私の独りよがりでしょうか…?」
「いえ、そのようなことはっ……アルタナディア様がかようにお考えだったとは露知らず、我が身の不徳を恥じるばかりであります…! 我々騎士団はアルタナディア女王陛下と共にあり!! 永久に御身をお支えすることを誓いますっ…!!!」
敬礼するカエノフ騎士団長の瞳は潤んでいた。元々単純な人物ではあるが、血みどろの決闘を繰り広げたアルタナディアから「自分と同じ」と言われれば、奮い立たないはずもない。
アルタナディアは静かに、深く息を吐きだし……カエノフの隣に立つ兵士に視線を移した。
「マリィ=ローパ」
「は!」
名を呼ばれた女兵士は敬礼で答える。歳は二十代過ぎ。凛々しくはあるが、普段の性格は穏やかで理知的、人当たりも良い。軍服が似合わない大人びた美人で、所作がとても女性らしく、城内での人気が抜群。ちなみにカリアも彼女が好きだが、よく引き合いに出されてとても複雑な気持ちになる。
「あなたはその聡明さからサングスト大老の推薦を受け、半年前に軍に入りましたね。現在は衛生兵と聞いていますが、軍師になることを希望しているとか」
「はい」
「許可します。エレステル滞在中に軍略を学びなさい。シロモリ氏に取り計らってもらえるよう依頼します。ただし、イオンハブス一の技術を習得することを望みます。できますか?」
「…ご命令のままに。機会を与えて下さったこと、感謝申し上げます」
「よろしい…。では各々、励みなさい。この合同演習で満足の行く成果を上げられるよう期待しています」
アルタナディアの激励を受け、二人はイオンハブス軍が待機している列へ戻った。
「フ、なかなかの名演説だったな」
入れ替わるようにアケミが現れた。
「途中からだが聞かせてもらったぞ。騎士団を上手く手名付けられたのは上出来だ。あとは連中がここの訓練に付いてこられるかだけが問題だな」
意地の悪い顔で含みのある言い方をするアケミ。カリアは気に食わないが、反論できない実体験がある。
「…しかしあの女兵士を軍師にするのか? 狙いはわかるが……」
「狙い?」
「メンタル弱そうな騎士団長のお目付け役にするってことだろ?」
そうなのか!?とカリアはアルタナディアを振り返る。アルタナディアは大きく肩で息をしながら、目線は合わせずに答えた。
「今のイオンハブスに女性兵士は三人しかいません。可能であれば上級職に採用し、軍の門戸を広げていきたいと考えています」
「まあそういうことならそれでいいが……いいのかねぇ」
「…………」
アルタナディアも何か思うところがあるらしい。カリアだけがわからない。
「なんだお前、さっきから」
「別に、他意はない。それはそうとアルタナ陛下の体調は大丈夫か」
「言われるまでもない! アルタナディア様、どうかお戻りください。先程も倒れそうになっていたではありませんか」
「しかし、まだ全体の訓示が……」
「約束です」
跪くカリアとアルタナディアの目線が交錯する。アルタナディアは諦めたように力なく微笑んだ。
「そうでしたね……では私もお願いします。あなたはここに残り、皆とともに訓練を受けなさい」
「え? ですが…」
「あなたはここの唯一の経験者です。率先して訓練に参加することでイオンハブスの兵を先導し、脱落者が出ないように引き上げてください」
「それは名案だな。お前をダシにすれば、あたしもやりやすくて済む」
アケミが茶々を入れるが、舌打ちだけして無視する。
「わかりました……私も貴女の隣に並び立てるよう強くなります、女王陛下」
「…カリア………」
アルタナディアは椅子から腰を上げ――……倒れ込むようにカリアに抱きついた。
「わっ、わ…アルタナディア様!?」
「後はお願いします、カリア……」
そのまま、眠るようにアルタナディアは意識を失った――。
「何だったのかな、さっきのアルタナディア様…」
アルタナディアを乗せてシロモリ邸に走る馬車を見送りながら、カリアは呟く。
「お前に女王と呼ばれて嬉しかったんじゃないか?」
「!? そう…なのかな?」
アケミの見解を信じたくなったが、当の本人はニヤついていて、少し心が動いてしまった自分が馬鹿馬鹿しくなる。
「まあアレだな、実際は『ゴネなくてエラいねぇ~』か、『よしよし、大きくなりなさい』ってとこじゃないか」
「お前って本当にヤなヤツだな!」
「ついでにもう一つ言うと、『隣に並び立つ』っておかしいだろ。部下なんだから後ろに控えろよ」
「うるさい!!」
「ハハハハハ――――!!!」
かくして、合同演習が始まる――――。
「フン……いい気なものだ」
馬車の中から合同演習の喧騒を遠くに眺めながら、男は鼻を鳴らした。エレステルの地方領主であり、最高評議院十三席の一人、サジアート=ドレトナである。昨日アルタナディアとの会合に参席していたエレステルの重臣である。歳の頃はまだ三十四と、評議院の椅子に座るにしては若い。
「よろしいのですか? 会議中にグロニアを離れますが」
隣に座る部下のダカン=ハブセン(サジアートよりさらに八歳若い)が意見するが、サジアートは一瞬眉を揺らしただけだった。
「言い訳はどうにでもなる。それよりも、だ! あの小娘が現れたせいでこちらの計画を修正しなければならなくなった…!!」
当然、アルタナディアのことである―――。
「そもそもミカエルが勝手にイオンハブスに部隊を送り込んだからこうなったのだ、あのクズが!」
ミカエルはサジアートの領地の隣に居を構える貴族で、古くから一族間での付き合いは深い。ただしミカエル自身はまだ若く、頭首の器があるとは言えない。サジアートは勢力に組み込んで上手く使うつもりだったが、今回見事に当てが外れたことになる。
「しかし藪を突いて出た蛇がバレーナ様ではなくあの姫君だとは誰も思いませんでした。おそろしい女です……バレーナ様に剣で勝ったというのは本当なのでしょうか?」
「斬られてやったのかもしれん。城の者でさえほとんど知らんが、あの小娘に対するバレーナの溺愛ぶりは異常だ。幼少のころよりの仲とはいえ、隣国の王族だぞ!? イオンハブスとエレステルの王家が元は同じ血筋という逸話は、家系図が残っていないほど昔の伝説だ。にも関わらず、どうして姉妹と言える? あの思考だけはよくわからん」
「これより先はいかがいたしましょう?」
「うむ………」
サジアートは口元を掌で覆って一考した後、大きく息を吸ってまた窓の外を眺めた。
「ダカンよ……今この時代は、歴史上稀に見るチャンスだぞ」
「心得ております」
「王が死に、天涯孤独となった姫君……どう転ばせても王になれるチャンスではないか! 数百年に一度の好機に野望を持たぬ男はおるまいよ。まして、俺は十分に釣り合う家柄だ。十三議席に身を置くだけの実力もあるし、バレーナとはそれなりに歳が離れてはいるが、不釣り合いというほどではあるまい」
「若々しく、鋭気に満ちておられます」
「だろう!? ヴァルメア王は身体の弱い男だった、だからこそこの時が訪れるかもと、俺は幼少のバレーナに目を掛けていたのだ。しかしバレーナは一向に俺に興味を示さなかった! なぜだ!?」
「まだ子供の時分なれば、サジアート様の魅力を理解できずとも止むを得ないかと」
「俺もそう思っていた! しかし違うのだ……俺は十年近く前にアルタナディアを市街へ連れ出しているバレーナを見かけたことがあったが、あれはまるで案内させられている従者のようだった。バレーナの方がアルタナディアに夢中だったのだ。それは今も、本質的には変わらん。だから揺さぶりを掛けた―――いや、掛けるつもりだったのだ。まさに奇跡的だが、イオンハブスのガルノス王も急逝し、仕掛けるには最大のチャンスとなった」
「そこでポーズだけをとればよかったのですが…」
「そうだ! そうすればアルタナディアの守備に手を取られるバレーナを糾弾し、早急に王を立てる必要性を説き、堂々と候補として名乗りを上げることができたのだ! なのにあのグズ、本当に兵をっ……ああくそっ!! 思い出しただけで腹が立つ!!」
硬いブーツで力任せに壁を蹴る。窓越しにギョッと驚く御者が見えた。
「さて……どうするか」
アルタナディアの登場で事態は加速した。政治工作で玉座を狙うことは難しくなったが、選択肢は一つではない。それこそ十年以上望み続けてきたのだ、下準備も整っていればぬかりもない。
ミカエルは残念ながら逮捕間近といったところだろう。勘違いでアルタナディアを襲い、且つシロモリが助けたという嘘みたいな間抜けな話が真実なら、もはや救いようがない。繋がりのある人物として自分たちの名前を吐く可能性もあるが、「イオンハブスに対する不満を漏らしたことはあったが、実際に計画を立てたわけではない」と釈明すれば乗り切れる。イオンハブスへの鬱憤は長年にわたり大衆レベルで浸透していることであるし、そもそも実際にイオンハブスを襲ったのはバレーナなのである。ミカエルもそれを知る立場なのだから、謝罪さえしてしまえば政治取引で釈放される可能性はある。まだ首根っこを掴まれたわけではない……。それよりも問題は、アルタナディアの要求により、バレーナ単独の戴冠が現実のものとなることだ。
バレーナのイオンハブス襲撃は王になるための評定に致命的な汚点を残した。その点ではミカエルはよくやった。しかしアルタナディアはそれを不問にするどころか、かつてない協力関係を提示するつもりだ。それが評定点に加算されるならば、バレーナ女王の誕生に誰も文句をつけられなくなる。しかも時間を掛けるほどバレーナが回復し、戻ってくることも……
「……ダカンよ、貴様の言う通り、本当にアルタナディアはバレーナに勝ったのだろうか」
「居合わせた者の話では、そうだと」
「本当に血を流して斬り合ったのか? そうは思えん……。バレーナが攻め、アルタナディアが撃退した―――ゆえにイオンハブスに対して負い目ができ、アルタナディアにペースを握られている。しかしこれが計画されたものだとしたらどうだ?」
「なぜそのように考えられるのでしょう?」
「バレーナが襲撃してから約一カ月、イオンハブスには混乱がなかった。バレーナはイオンハブスを解体・吸収することもなく、勝利宣言さえしなかったのだぞ!? しかもその間、アルタナディアは行方不明で……」
「……そこでシロモリと接触していることになりますね」
「そうだ! そうだろう!? 計画性を感じない方がどうかしている!!」
「するとバレーナ様との決闘はブラフ…?」
「かもしれん。だがアルタナディアは傷を負っているようには見えなかっただろう? それでバレーナが重傷というのもおかしな話だ。意図的に隠遁しているとすれば……まだ状況をひっくり返せる」
クックック、と笑みを浮かべながらサジアートが壁を叩く。また御者が驚いたが、今度は見ていない。
「バレーナがどうなっているのか、調べる必要があるな……」