第一章 お殿さま、初登校 5
それは強烈な力で、彼女を地面に叩きつけ、五転六転とさせるほどに凄まじいものだった。
大型トラックにはねられたようなもので、即死であってもおかしくない。
目を大きく見開いて呆気に取られていた道明の耳に、鞘香と違う少女の声が飛び込んできた。
「間に合った!?」
戸惑いと焦りとが混ざる声のした方へ、道明は顔を向けた。
そこには鞘香と同年代、そして彼女と同じ服を着た少女が立っていた。
髪は肩までの長さで黒く艶がある。
伸ばせば鞘香に劣らぬほどの美しさとなるだろう。
顔立ちも、鞘香ほどではないが充分に整っており、そして鞘香とは似ても似つかぬ正の情感がにじんでいる。
しかし今は不安と心配とでそれらは見にくくなっていた。
そして、少女はただ立ち尽くしていたわけではない。
鉢のように短い棒を両手で握り、突き出しながら立っている。
そして道明は、少女よりもその棒に驚いて強く反応した。
「剛力!? なぜ汝がそれを持っている?!」
それが棒の名であることを少女は知っていて、それゆえに少年が浅賀谷道明であることを確認したようだった。
それでも少女は、まだ信じられないといった表情で道明に小走りに駆け寄ってゆく。
「えっと……その、道明公ですよね? その、水津哲晴くんじゃなくて、本物の浅賀谷道明公…」
半信半疑とおそるおそる、そして隠しきれない敬意と好奇心をにじませながら、少女は尋ねてくる。
それを受けた道明はうなずいた。
「いかにも私は浅賀谷道明だ。どうやらおぬしが助けてくれたようだな。感謝する。それにしてもおぬし、その剛力をどこで…?」
助けてくれたことへ礼をしめし、道明はすぐに最も気にかかることを尋ねた。
少女がへりくだって話しかけてきたことで、つい藩主らしい口調で答えただけでなく、少女に名を聞くことすら忘れるほどである。
「え、ええ、その…… わっ! 春乃ちゃん、耳元で大声で叫ばないで!」
と、どこか照れを見せながら答えようとした少女が突然右手で右耳を抑え、顔をしかめながら叫ぶ。
そして道明も、少女の奇行に驚くより、彼女の発した名前に、喜悦を込めて驚愕した。
「春乃!? 今春乃と申したか?!」
「は、はい、春乃ちゃん…あなたの妹さんですけど…その、今もガンガンガンガン叫んでて…あなたに会えてもう大興奮しちゃってるみたいで、ずっと『兄上さま兄上さま兄上さま兄上さま!!』って… もう! わかったからちょっと落ち着いてよ!」
耳を抑えながら道明と会話していた少女だったが、最後は「春乃」に怒鳴ったらしい。
道明は、ここには自分たち以外に誰もいないことを確認し、いささか信じられないという面もちで少女に尋ねた。
「…春乃はおぬしの頭の中にいるのか?」
彼には今のところ、自分自身も相当信じられない立場にいるという自覚はなかった。
「え、ええまあ、頭の中というか体の中というか、そういう全部を含めてというか、とにかく自分でもよくわからないんですけど…」
道明の問いに少女も答えるが、どうも自分でもよく理解できていないらしい。
そのことに意外さを覚えた道明だが、なにかを感じ、反射的に振り返る。
そこには幽鬼のようにゆっくりと立ち上がる鞘香の姿があった。
うつむいた顔は乱れた髪に隠れ、体はかすかによろめいている。
致命傷ではないようだが、大きなダメージを受けているのは瞭然だった。
「…光竜が受け止めたか」
鞘香の右腕に宿る竜を見て、道明が察する。
その竜も弱々しく明滅を繰り返していて、無傷ではありえない。
「ええ…偶然だったけどね…うまいことこの子に当たってくれたわ… あなた…確か隣のクラスの矢沢三月さんね… あなた…浅賀谷春乃の生まれ変わりだったの…?」
鞘香はゆっくりと顔を上げた。
体中を乱打する激痛に表情は青ざめ、頬には地面でこすったか、擦り傷ができている。
それでも彼女の美しさは損なわれていない。
それどころか悽愴さすら漂わせ、他者の美的感覚をナイフで薄く斬るような、危険な美を醸し出していた。
その鞘香に意外さと驚きのこもった表情で尋ねられた少女――三月は、わずかに恐怖が混じった緊張とともに答える。
「生まれ変わりっていうのじゃないけど…でも春乃ちゃんとはつながってる」
「そう……たしかにあの天才になら私の結界も破れるかもね…納得だわ…」
痛みに顔をしかめながらも、鞘香は苦笑してみせる。
いくら終了式後とはいえ、全員がいなくなるはずはないし、またこれだけ派手に戦闘をおこなっておきながら、人っ子一人やってこないのはおかしな話であったが、それは鞘香が特殊な力でこの一帯を封じていたためであった。
そしてその力を破って彼女の結界内へ侵入してきた三月もただ者ではなく、その理由も鞘香は知った。
そしてそれは、またたく間に憎悪をともなった戦意に転嫁する。
「…だとしたら遠慮する必要はないわよねえ。二人ともまとめて薙払って叩きつぶして肉と骨と血だけの塊にしてあげるわ!」
いくら不意打ちだったとはいえ、直撃を食らい、大打撃を負ったことが鞘香のプライドを痛く傷つけたのだ。
彼女の形相は凄惨な美少女から、凄惨な般若へと変わる。
光竜も怒気に呼応するように、これまでになく強い光を放ち、そして太く長大になった。
「あ、え、え? う、うん!」
その光景に恐怖し、一瞬固まっていた三月が我に返る。
どうやら頭の中の春乃に「ぼさっとしてないで、さっさと攻撃しなさい!」とでも怒鳴りつけられたらしい。
あわてて棒、剛力を鞘香に向けてかざす。
「……えい! あ、あれ? えい! えい!」
が、今度はなにも起こらない。
焦る三月は何度も力をこめるが、剛力は一向に応えようとしなかった。
「わ、わかってるけど、でもこんな状況で落ち着けって言われたって…!」
頭の中の春乃が怒鳴り続けているようだが、それが返って三月の焦慮を煽る。
そうこうしているうちに鞘香の光竜は優に三メートル以上の大きさとなっていた。
右腕を天にかざし、光の柱のように見える光竜は、それだけで圧倒的な威を誇り、加えて鞘香の凄絶な笑みがさらなる迫力を空気にみなぎらせる。
「えい! えい! ちょっともうどうしよお~!」
泣きそうになって力を出そうとする三月だが、どうにもならない。
今さら逃げても間に合わないことは彼女にもわかっていた。
と、その彼女の手から剛力が消える。
道明がやさしくもぎ取ったのだ。
そして三月を安心させるようにほほ笑むと、表情を引き締め、鞘香に向かって剛力を突き出す。
「あなたにそれが使えるの? 城にこもって政治ばかりしていた人に使えるほど、簡単なものじゃないわよ」
嘲笑をもって道明を揶揄する鞘香は、伸ばした腕、光竜を振りかざす。
絶体絶命の刹那、三月は目をつぶる。が、道明は笑みを浮かべていた。
会心と言っていいほどの。
「神仏は我の望みをかなえたり。感謝いたします!」
ぐっと剛力を突き出す道明は、一気に気合いを入れた。
「噴!」
その瞬間、剛力から見えない豪力が跳ぶ。
それを感じた鞘香は目を剥き、反射的に光竜を体の前にかざす。
それが盾となって道明の力を防いだが、すべては防ぎきれなかった。
光竜は一瞬で霧散し、鞘香は再度吹っ飛ばされたのだ。
身構えていたのでさっきのように地面に叩きつけられることはなかったが、それでも数メートルを弾かれ、膝が折れそうになる。
「………」
驚愕に声も出ないまま、鞘香は道明を凝視する。
剛力は誰にでも使えるものではなかった。
天分のある者が厳しい修行を積み、初めてなんとか扱えるという代物だったのだ。
まして光竜を消し去るほどの力となれば、その能力はどれほどのものか。
「……ッ」
鞘香は奥歯をきしらせる。
自分が圧倒的不利な状況に陥ったことを悟ったからだ。
剛力をこれほど扱える者と、満身創痍の状態でまともに戦えるはずがない。
しかも今の光竜で二人をしとめるきるつもりだったため、全精力を使い果たしてしまったのだ。
もう鞘香に戦う力は残っていなかった。
「……」
最後に凄まじい目で道明と三月をにらむと、鞘香は身を翻して逃げた。
傷つけられたプライドはさらに傷ついたが、そのためにもここで死ぬわけにはいかなかった。
鞘香が去るのを、道明も三月も追わなかった。
三月はすでに戦意を喪失していただけに、安堵から地面にヘたり込みそうになったが、それはなんとかこらえた。
「あ、あの、ありがとうございました、道明公」
大きく息をつくと、三月は命の恩人に礼を言った。
少々ひきつった笑みなのは、まだ恐怖が残っているからだ。
真っ当に女子高生をやっている彼女には、こんな戦いは荷が重すぎた。
が、道明も足を踏ん張って剛力を突き出す姿勢のままである。
その唇からかすかに声が漏れる。
「よかった…逃げてくれたか…」
「え?」
か細いその声にいぶかしさを覚えた三月が訊き返す。
それに答える道明の声は、さらに細くなっていた。
「剛力…初めて使ったのでな…加減がわからなんだ… 一撃で…なにもかも…使いきって…しまった… もう一度攻撃されていたら…どう…なって…いた……か……」
そこまで言うと道明は、ガクっと膝を折って地面にヘたりこみ、荒い息をつきはじめる。
「ちょっ! 道明公!?」
驚いて駆け寄ろうとする三月。だが、その彼女の動きが止まり、表情が消える。
そのことに道明の方がいぶかしさを覚え、激しく呼吸をしながら苦しさにしかめられた顔で彼女を見上げる。
と、次の瞬間、三月の表情が戻る。
が、それは三月のそれと違うものになっていた。
「兄上さま!」
叫びながら飛びついてくる三月に、道明は地面に勢いよく押し倒された。
長距離を全力で走った後のような疲労の中、そのような真似をされるのはきついものがあるが、しかし道明の表情にはそれ以上の驚きがあった。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……、そな…た… 春乃…か…?」
訊かれた三月は道明の胸にうずめていた顔をパッとあげる。
それは確かに三月の顔だったが、やはり三月のものではなかった。
「はい! 兄上さま! 春乃です! 兄上さま兄上さま兄上さま、お会いしとうございました! 本当に本当にお会いしとうございました!」
うれしさのあまり、満面の笑みを浮かべながら激しく落涙する三月――浅賀谷春乃は、仰向けに倒れて動けない兄の首に強く抱きつき、彼の名を呼び続け、泣き続け、笑い続けていた。