幕間二 退魔
活路になるかどうかはわからないが、道明の考えはある程度当たっていた。
道明たちが朝から初訓練をおこなっていた日の前夜、鞘香の兄・遠森孝昭は、夜の浅賀谷市を歩いていた。
日が落ちていくぶん過ごしやすくはなっても、そこは日本の夏、熱帯夜。
普通の人間なら、ただの散歩だけでも汗がにじむ。
孝昭は訓練が行き届いているためそのようなことはなかったが、粘つく空気が心地いいわけでもない。
だがそれより彼を不快にする事が、この日はあった。
「なんでよりによってこんな時に…鞘香の仇を討つどころか、看病さえ出来ないじゃないか… こんな時くらい、母が出張ってくれてもいいだろうに…」
すぐにでも妹の仇を討ってやりたいと思っていたのだが、事情がそれを許さなかった。
彼らにとって浅賀谷家の人間を滅ぼすことは悲願だったが、至上命題ではなかった。
彼はその至上命題のために、熱気と湿気に満ちた夜を歩いている。
「…しかしおれが行くことを渋れば、鞘香が行くと言い出しかねないからな。あいつは真面目で責任感が強いから。そういうところがかわいいし立派だし、大事にしてやらないといけないところだが、今は無理をさせるわけにはいかない。うん、やっぱりおれがでてくるしかなかったな。鞘香のために、全力を尽くそう」
と、自分で自分を納得させ、それどころか満足と意欲さえ表情に浮かべながら、孝昭はぐっと拳を握る。
彼にとって「妹のため」という理由にさえたどり着ければ、すべてが正当化されるのだ。
気を取り直した孝昭は、重かった足を軽くして目的地へ向かう。
とはいっても、彼にも明確な場所がわかっているわけではない。
感覚を研ぎ澄まし、近づいてゆくたびに微修正を繰り返して、場所を特定してゆくのだ。
時間は、すでに日付が変わって二時間近く経とうとしている。
この時代、都会と呼ばれる街ならまったくの闇夜ということはない。
浅賀谷市も東京などに比べれば地方都市でしかないが、その地方都市の中では高位に入る都会である。
街灯の明かりの中、孝昭は少しずつ、少しずつ目的地に近づいてゆく。
「ここか……」
そうしてたどり着いた場所は、とある林だった。
街中ではあるがややはずれにあり、薄暗いよりもう一段暗い場所にある。
熱帯夜で風もないだけに、木々の枝が揺れるということはなかったが、孝昭の目には別の何かが空気を揺らしているように感じた。
「…ちっとばかし、本気でいくか」
その空気に嗅いだ匂いが、存在の質を伝えてくる。
楽勝ではない。
だが、ただそれだけだった。
孝昭は妹に対する時とは別の顔を見せながら、林の中に足を踏み入れる。
元々薄かった街灯の明かりは、林の中に入ればまったく届かない。
暗すぎて、返って薄ぼんやりと周囲が見えるようだ。
それは孝昭にとっては錯覚ではない。
彼らは訓練により、夜目が普通の人間とは比べ物にならないほど利く。
彼らの相対するモノは、夜にこそ現れることが多い。
真っ暗な林の中を、孝昭はなにかにぶつかることも、つまずいて転ぶこともなく進む。
そしてある程度進んだところで立ち止まると、右手を軽くかざし、そこに光る竜を出した。
彼もまた、遠森家の一員である。
母や妹と同じ、しかし彼女たちのそれより若さと戦闘への意欲が満ちる竜が周囲を照らしつつ睥睨する。
竜にも個性があり、それは主人の性格に影響されるのだ。
鞘香の竜は若々しく、みずみずしくもあるがややヒステリックに見え、母のそれはどこか静かでありながら、深いなにかを感じさせる。
そして孝昭の竜は前述した通りで、純粋な戦闘力では家族で一番であろう。
彼もただのシスターコンプレックスではなかった。
「……」
これは一見無謀な行為だった。
真っ暗な世界で光る竜を出すなど、これ以上ない目印である。そしてこの闇の中にいるモノが、孝昭の竜を「敵」として認知していたのなら、なおのこと危険であった。
だが孝昭に恐怖は皆無だった。
彼には自信があった。
しかも実績に裏打ちされた自信である。
ゆえにこれは闇の中にいるモノへの誘いでもあったのだ。
「さあて、さっさと出てこないとこっちが先に見つけちまうぞぉ…」
光る竜は松明のように周囲を照らす。
いかに強い光源といっても、人間の腕程度の大きさでは、林全体を照らすなど出来はしない。
だが夜目が利く孝昭――遠森家の者にとっては、これで充分だった。
彼にとってはすでに昼間の林間をゆくのと変わらない感覚である。
そしてそれゆえに、追いつめられているのは闇の中にいるモノの方となってきた。
モノの力がどれほどかはわからないが、孝昭の自信が妥当なものであるのなら、遠森家の長男より劣る。
とすれば、このまま「明るい」林の中に隠れ続けることは困難だ。
といって闇の中から不意を突くことは不可能となり、臨戦態勢を整えている孝昭の虚を突くことも難しい。
しかも孝昭はさらに徐々に闇の中のモノのいる場所を精査しながら歩いてゆく。
そのこと焦れて飛び出せば、それこそ孝昭の思うつぼである。
小さな林の中、戦機は完熟していた。
瞬間、闇と同じ色のなにかが孝昭めがけて地表すれすれに飛んできた。
ジャンプ一番それをかわす孝昭。
上から下へ薙ぐように竜を振るう。ジュッと焼けるような音が空中で聞こえ、半瞬遅れて地面でした。
地面のそれは最初に孝昭を襲ってきた何かが焼かれた音で、空中のそれは地面の攻撃を囮とした時間差攻撃を防いだ音である。
空中の攻撃を先に焼き落としたということは、孝昭には最初の攻撃が囮であるとわかっていたのである。
着地した孝昭は間髪入れず竜を闇へ跳ばす。
何かが飛んできた方向はすでに確認しており、その「元」への攻撃である。
が、手応えはなかった。「元」は攻撃が失敗したと知った瞬間、別の場所へ高速で移動したのだ。
と、しかし、空を切った孝昭の竜がその場で弾けた。
光の竜から光の弾丸と化したそれは、四方八方へ無差別に攻撃を仕掛ける。
と、左方でジュッと焼ける音がした。
「元」に光の弾丸が当たったのだ。
いかに素早く逃げようとしたとて、最初の攻撃から三秒にも満たない時間では、そこまで遠くへ逃げられるはずもない。
被弾は必然であった。
悲鳴は上がらない。だが孝昭の特殊な聴覚にはそれが聞こえた。
ニッと口元を笑う形にゆがめると、孝昭は再度弾丸を竜に戻し、今度は草を刈るように低空を横に、彼から見て右から左へ薙払う。
当然手負いとなった「元」を焼くためだ。
だがその動きはわずかに遅い。その「遅さ」は、「元」が「チャンスだ」と感じるほどには遅く、「罠だ」と感じる余裕がないほどには速く、絶妙なコントロールを保持していた。
「元」が弾ける。竜が当たる直前である。
「元」の意志によって弾けたのだ。
黒い飛沫のように跳ね散ったそれは、明確な意志をもって孝昭に全方向から襲いかかる。
地面の下からすら。
ゆえに、本当にすべての方向からである。
孝昭によける術はなかった。
分散した「元」が孝昭を包み込む。
光の竜も消え、辺りは闇に戻り、音も消えた。
普通の人間が見れば、林は静けさを取り戻した風に見えるだろう。
だが沈黙する闇の中では、「意志のある闇」が自分に敵対する者を咀嚼しようとしているのだ。
闇にふさわしく、静けさにふさわしくない所業だった。
が、闇はすぐに異変に気づく。
咀嚼できないのだ。
人間で言えば、口の中に入れて歯で噛み砕こうとしたのに、当の食べ物がビニールに包まれていて噛もうにも噛めないのに似たような感触。
そして次の瞬間、闇は慄然とし、獲物を吐き出そうとするが間に合わなかった。
「ビニール」が発光し、発熱する。熱というより「火」そのものである。
獲物を包み込んだ闇は、そのまま溶ける間もなく焼かれ、塵となった。
そして残ったのは、全身を覆っていた光竜を右手に戻した孝昭だけであった。
「ビチャビチャ分散して逃げられてもめんどくさいからな」
光の竜を納めながら、無害な闇に戻った林中で、孝昭は独りごちた。
敵の力量を正確に測り、それに応じた罠を仕掛け、一撃で屠ってしまう。
少々の自信過剰と極端なシスコンを除けば、外見も含めて孝昭は高水準の戦士だった。
が、この時はその自信過剰がミスにつながる。
闇=魔を完全に滅したと信じきったゆえに、最後の確認を怠ったのだ。
そのため生き残った一部がいたのに気づかず、そのまま立ち去ってしまった。
生き残った一部は這いずって林中を進み、そして道へ出てしまった。
これだけ小さければ魔としての波動も小さい。
遠森の優秀な索敵能力でもよほどのことがない限り見つけられないだろう。
いわんや生まれ変わったばかりである浅賀谷家では。
だがその闇に気づいた影もいた。
林中の戦いを離れた場所から隠れて見ていた少女である。
孝昭と魔とのそれを恐れ気もなく観戦していた限り、彼女もただ者ではない。
だがその少女が黙って立ち去り、家に帰ってからも魔について誰にも語らなかったのは不可思議なことだった。
誰よりも話すべき夫や「姉」や義妹がいたというのに。
少女の現世の名は水津紗夜といった。




