第五章 お殿さま昔のことを語る 1
「おはようございまーす!」
呼び鈴を鳴らすと同時にドアを開け、中に向かって大声で挨拶をする。
勝手知ったる幼なじみの家だからではあるが、最近は三月も成長しただけに、ここまでなれなれしくはない。
だが今日は事情が違った。近世人でありながら現代人でもある紗夜――雪菜がいるから問題はないかもしれないが、この時代については右も左もわからない道明の方は、いろいろ困っているかもしれない。
それにもしかしたら道明から哲晴に戻っているかもしれず――もしそうならこうして顔を合わせるのは三月の方が少し困るかもしれないが――、いろいろな意味で遠慮が少しなくなっている三月であった。
「はーい」
そしてその三月の声に応じて出てきたのは紗夜――いや雪菜だろうか。
しかしどちらにしろ、Tシャツとキュロットにエプロンという姿は三月の目から見ても初々しくかわいらしいものだった。
「おはよう、三月ちゃん」
「おはよう…… あの、雪菜さんじゃなくて紗夜ちゃん?」
出てきた雪菜(?)の自分の呼び方に、三月は確認するように尋ねる。
それを受けて雪菜――紗夜は笑顔でうなずいた。
「うん、今のあたしは紗夜の方。というより昨日お館さまとも話したんだけど、あたしは基本、これまで通りこの時代の人間である紗夜として過ごしていこうって決めたの。その方が自然だし、そうじゃないとこれまであたしによくしてくれた家族や友達やその他のみんなに失礼だしね。雪菜が出てくるのは、よっぽどの時だけだよ」
笑いながら言う紗夜は、真実十五歳の少女の雰囲気と仕草であり、三月の知っている彼女そのものであった。
それを聞いて三月は無意識にホッとしたのだが、同時に少し気にもなった。
「そうなんだ。でもそれ、道明公が寂しがらない? その、せっかく奥さんに再会できたのに…」
「そんなの気にしなくて平気だよ。これはお館さまから言い出したことだし、それに二人きりでいるときは、あたしも雪菜になるし。ゆうべ雪菜としてたっぷりお話もしたから、全然大丈夫」
そんな三月の懸念を雪菜は笑って払う。
「そっか、それならこっちもありがたいかな。でもあたしも雪菜さんと話したいし、たまには出てきてお話してね」
「うん、わかった。あ、朝ごはん食べた? もしまだなら一緒に食べよ。今お館さまも食べてるところだし」
「そうなんだ。うん、それじゃおよばれしようかな。ちょっとそこも心配だったから早くにやってきたんだけどね」
少し照れくさそうに笑いながら、三月は靴を脱いで上がり込む。
雪菜が紗夜だとわかってはいても、なんだか雪菜は今の時代の調理器具など使えないのではないかと漠然と心配だったのである。
だがやはり、それは杞憂だったようだ。
「お館さま、三月ちゃんが来ましたよ」
紗夜についてダイニングへやってきた三月が見たのは、小難しい顔をして手にしたトーストを見ている道明だった。
テーブルには他に、目玉焼きにソーセージ、簡単なサラダに牛乳と、典型的な洋風朝食が並んでいた。
道明の体は当然哲晴であり、今着ているのはTシャツにジーンズといういつも通りの格好である。
それだけに三月には今の仕草とのギャップが鮮明に感じられた。
そして同時に内心で小さくため息をつかざるを得ない。
やはりまだ「道明」は「哲晴」に戻ってはいなかった。
そんな三月に視線を移した道明は、笑顔で挨拶する。
「ああ、おはようござる、三月どの」
「おはようございます……って紗夜ちゃん道明公に洋食出したの? ご飯と味噌汁にすればよかったのに…」
挨拶を返した三月は、少し驚いたように紗夜を見た。
道明には和食を出しておく方が無難であるだろうし、なによりこれ以上彼に困惑を与えずにすむはずだった。
が、それに対する答えは道明の方から出た。
「ああいや三月どの、紗夜の方には私から頼んだのです。この時代の朝食を食べたいと」
「道明公が?」
「ええ、この時代にいつまでいることになるかわかりませぬからな。できるだけ早く慣れておくに越したことはなく、そのためにもなるべく多くの経験をしておく必要がありますから」
道明は表情に少々の意欲を浮かべてうなずいてみせた。
道明にとってこの状況は面食らうことばかりだろうが、すでにそれを克服する方向へ気持ちを切り替えたらしい。
その心の強さと陽性の心根は、君主時代に培ったものなのだろう。
後ろ向きの思考しかできない人間に大改革などできるはずがないのだから。
「そうですね、うん」
が、道明のその言葉に、三月はほんの一瞬ながら表情を曇らせる。
それを見逃さなかったのが道明で、その理由にもすぐに思い当たると、トーストを皿に戻し、姿勢を正して三月に軽く頭を下げた。
「申し訳ござらん、三月どの。私としても一日でも早く哲晴どのにこの体をお返ししたいのですが、自分ではどうにもならず…」
「い、いえいえ! そんなの気にしないでください。本当に道明公の責任じゃないですし、それに必ず戻ると思ってますし…」
道明の謝罪に三月はあわてて両手を振る。
が、そこまで言って、今度は三月の方がハッとして口をつぐんだ。
「そ、その、わたしこそすいません…」
哲晴が戻るということは、道明が消えることになるかもしれない。
あるいは自分と春乃のように「二心同体」という状態になるかもしれないが、実際にどうなるかはわかったものではないのだ。
そんな三月に道明はやさしくほほ笑んだ。
「そのようなこと、それこそお気になさらないでくだされ。私は本来、三百年も前に亡くなっていた男です。このように復活したこと自体が異様でありえない話なのですから」
「でも……」
「本当にお気になさらずに。ただ……このような事態になったことに天がなにかしらの意図をこめているのだとすれば、それを為さねばならぬと感じてはおります」
ほほ笑みをわずかに消し、真摯な表情で哲晴は言う。
それを受けた三月も、似たような表情になった。
「遠森さん…のことでしょうか」
「ええ。ですがあるいはそれ以外のこともあるかもしれません」
「遠森さんたち以外のこと…? なんですか、それは?」
道明のやや歯切れの悪い言葉に、三月は不安を覚えながら尋ねるが、彼もまた首を横に振る。
「わかりません。ただ漠然とそんな気もするというだけなのです」
道明の要領を得ない話に、三月の不安は強まる。
それを見た道明は表情をあらためた。
「いや、気がするというだけで、ただの気のせいであるかもしれません。私もまだ、いろいろと落ち着いていませんからな。臆病に拍車がかかっているのでしょう。それに仮になにかあったにしても、哲晴どののお体には、傷一つ付けませぬ。それは誓ってそういたしますゆえ、ご安心を」
と、笑顔のまま道明は胸を軽く叩く。
ファミレスでの宣言同様、まだなにが起こるかわからない未来に対しての誓約は無責任かもしれない。
だが道明の宣誓には、他の者にはない信の強さが感じられる。
それは三月の不安をゆるめるには充分な力があった。
「……そうですね、今あんまり気にしても仕方ないですもんね」
「そうそう。それに『腹が減ってはいくさはできぬ』は江戸時代だろうが平成時代だろうが変わらない真理だよー」
と、キッチンから出てきた紗夜が言う。
その手には皿があり、三月の前に道明と同じメニューの朝食を並べていった。
「あ、ごめん紗夜ちゃん。手伝えばよかったね」
道明との会話に気を取られていたとはいえ、気の利かない自分に赤面しつつ三月は謝るが、紗夜は笑顔のまま気にもとめない。
「平気平気、気にしない気にしない。それじゃ一緒に食べよっか」
皿を並べ終えると紗夜は三月の隣に座り、二人に目配せする。
それを受けた二人も察し、両手をあわせ、これだけもまた江戸も平成も変わらない、「いただきます」をした。
食べるにあたっては箸を使う方が遙かに難しいだけに、手が使える食べ物は道明にとって困難ではなかった。
だから問題は味覚と満腹度であったが、「なかなか美味だ」とおおむね満足だったようである。
実年齢が初老である道明にとって、目玉焼きやソーセージの味付けは濃かったかもしれないが、体は十七歳だけに、そこも問題にはならなかった。
むしろ気に入ったと言っていい勢いでたいらげ、三月と紗夜を安堵させた。
もっとも三月は後で「そういえば昨日ファミレスでカレーやらなにやらバクバク食べてったっけ」と思い出し、自分の杞憂を笑ったものだった。
食後も食事の内容にあわせて紅茶を出した。
道明は昨日、同じくファミレスでアイスティーも飲んでおり、このあたりの抵抗は少なかったが、これが自分たちが飲んでいる日本茶と基本的には同じものであると聞かされたのには驚いた。
三人とも今はダイニングからリビングへ移り、カーペットの上に直に座っている。
道明がその方が落ち着くだろうという配慮でもあった。
「そうなのですか、まったく違うもののように見えますが」
慣れたあぐらをかけて安心しつつ、目を見開いて驚く道明。
そんな彼に三月が簡単に説明する。
「うん、そうなんだけどね。中国からヨーロッパの方に伝わって、そこで発展してきたのが紅茶だから」
ヨーロッパが南蛮のことであり、どこにあってどのような文明や文化を築いてきたか。
それについては道明もまだはっきりと理解しきれてはいないが、水津家にあった地球儀や世界地図を見せられて、なんとなくの地理感覚は持っていた。
まだ正確な日本地図すらめずらしい時代に生きて、日本国内の藩レベルでしか「外交」を経験してきていない人間であるだけに限界はあるが、それでも道明は当時の人としては充分以上に柔軟であった。
「なるほど…」
答えつつ、砂糖やミルクにも驚きつつすする。
もしかしたらこのような身近で細かなことでのカルチャーギャップやショックの方が大きいかもしれない。
「…それはそれとして、今後どうするかを決めようか」
過去と現在の食文化の違いに対する話が一段落したところで紗夜が提案してき、他の二人も軽く表情と姿勢をあらためる。
「そうだな、そうしよう」
「でも今後どうするかって、具体的になにを目指せばいいのかな。なんというか、道明公や春乃ちゃんのことや遠森さんのことや、それに水つ…哲晴くんのこととか、どれをどう手に着けていけばいいかよくわかんなくて…」
三月にとっては心底手に余る事態である。
どこを、なにを目的に進めばいいのかすら想い至らなかった。
そんな中、哲晴のことをファーストネームで呼ぶことだけは意識しておこない、彼女がなにを一番気にしているかを如実に表していた。
それは道明や紗夜にも感じられ、彼らに責任はないが、それでもやはり申し訳なさが立つ。
「三月どのにはすまないと思っております。ですが今は哲晴どののことは置いておかせてくだされ。なによりも生き死にに関わることを最優先にせねば、この体を哲晴どのに無事にお返しすることもできませぬから」
と、自分の胸に手を当てながら道明は三月を諭し、彼女もようやくなにを最初に対処しなければならないか悟った。
「…遠森さんのことですね」
「さようです。私たちがなにもせずとも、彼らの方からこちらへ攻撃を仕掛けてくるでしょう。それに対する備えをしておかなければ、我々は無惨に殺されてしまうだけかもしれませぬから」
道明の真剣な表情に、三月も思わず蒼ざめてしまう。
今さらながら春乃と同体である以上、自分も狙われる立場にあると思い出したのだ。
「どうして自分が…」という気持ちがないとは言わない。
だが春乃にしても道明にしても、好んで自分たちの体に転生したわけではないのだ。
責められるものではなかった。
「…遠森さんたち、やっぱり襲ってくるでしょうか」
「十中八九、間違いなく」
三月のつぶやきに、道明は即答する。
それに三月の中の春乃も賛意を示したのを三月は感じた。
彼らは彼らのことを、誰よりもよく理解していた。
そのことをあらためて感じつつ、三月は昨夜のことをもう一度思い出していた。




