第四章 お殿さま再会する 3
その名君は、君主の顔ではなく私人の顔で紗夜――雪菜の方を見た。
二人とも自分の本当の姿ではない。
だが、互いに相手が自分の伴侶であることは、誰に言われずとも感じ取れていた。
道明がすぐに紗夜を雪菜と何の疑いもなく容れられたのは、今の自分の状況のせいもあるだろうが、やはりその想いの交感によるところが大きかった。
「……久しいな、雪菜。元気そうでなによりだ」
「お館さまも、お元気そうで…」
見つめ合う二人の肉体年齢は十七歳と十五歳。
だがその表情は、長年連れ添った夫婦以外には出せない情感にあふれていた。
「しかしまさかお前まで生まれ変わっていたとは思わなかった。いや、私も自分がこの状況に置かれたことがいまだに信じられないが…」
「私の方がお館さまより驚いたと思いますよ。なにしろ死んで、目を覚ましたら赤ん坊として泣いていたのですから」
「そうだろうな。するとお前も死んだ直後に生まれ変わったのか」
「ええ、お館さまがお亡くなりになった六年後に」
「そうだったか… 六年も寂しい想いをさせたな」
「いいえ、お館さまとの思い出だけで、寂しさは忘れられました。あと十年長く生きても平気でしたよ」
穏やかな夫婦の会話。
三月は黙っている。
いま二人の間に入ってはいけないと、理性だけでなく感性も告げていた。
二人とも何年ぶりの再会と言えばいいのだろう。
客観的には三百年だが、雪菜にとっては二十二年ぶり、道明に至っては一日ぶりであろう。
とすると雪菜はともかく道明の「久しぶり」はおかしいかもしれないが、それでもこの異世界と言っていいほどの未来。
たとえ一日でも数十年ほどの密度があるのだろう。
そこでめぐりあえた妻である。
道明が今日一日見せたことのない表情になるのも無理はなかった。
それは三月にとってはほほ笑ましいことだったが、もう一人の彼女にはそうではなかったようだ。
「……わっ! な、なに春乃ちゃん!?」
夫婦の再会を邪魔しないようにしていた三月だが、突然頭の中で怒鳴られて、反射的に声をあげてしまう。
それを聞いた道明と雪菜も軽く驚いてそちらへ顔を向けた。
「ご、ごめんなさい。その、春乃ちゃんが急に…… わーかった! わかったからちょっと落ち着いて!」
夫婦の邪魔をしてしまったことを謝る三月だが、その間にも春乃はなにか怒鳴り続けているらしい。
そのことを察した道明は、三月に向き直ると、彼女の中にいる妹を小さく叱責した。
「春乃、なにを騒いでおるか。静かにせよ。三月どのにこれ以上ご迷惑をおかけするな」
それが聞こえたか、三月の中の春乃はピタリと止まり、彼女の宿主にホッと安堵を与える。
が、怒鳴り声は収まっても不満が消えたわけではない。
「え? あ、うん、わかった… あの、道明公。春乃ちゃんがお話があるそうです。わたし、これから春乃ちゃんに変わりますね」
頭の中で春乃が頼んで来たらしい。変わるといっても人格を春乃と交代するわけではなく、彼女の言うことをおうむ返しに繰り返すだけであるが。
それを聞いた道明が「わかり申した」とうなずくのを見て、三月も小さくうなずき、春乃の言うことを口にし始めた。
「…兄上、この方は兄上の奥方ということでよろしいのでしょうか」
三月の口調がどこか硬く、それに応じて表情も硬さを見せるのは、そこまで春乃を真似ているからだろう。
どこか夫の浮気を糾弾する妻の口調と表情にも見え、道明は小さく笑ってしまいそうになったが、さすがに表情には出さなかった。
「ああその通りだ。お前が死んで何年かのちであったか。隣の藩から嫁いできてくれた。以来、わしが死ぬまで側にあってわしを助けてきてくれた。名は、さっきから何度も言っているが、雪菜という。お前の義姉にあたるな。きちんと挨拶せよ」
穏やかな中にも兄としての重厚さをにじませつつ、道明は妹に指示する。
そこには春乃の知らない君主としての道明も含まれていて彼女は圧されそうになったが、今は女としての憤りが強く、軽々に従うことはできなかった。
「さようでしたか。それははじめまして、雪菜さま。それでですね兄上、私としましてはいくつか言いたいこともありまして…」
「こら春乃。そのような挨拶があるか。今も言うた通り、お前には義姉にあたるのだぞ。そんな態度はわしが許さぬ」
顔をそちらに向けて軽く会釈するのみの、形だけとすら言えぬ春乃のぞんざいな挨拶に、道明は表情を締めて妹を注意する。
怒声半歩手前の口調であるが、これは半ばは意識してのことであった。
道明は春乃が妹以上の感情をもって自分を好いていることを薄々知っていた。
本当ははっきりとわかっていたが「薄々」で抑えていたのかもしれない。
いずれは根本的になんとかしなければと考えてもいたはずだが、それも春乃の夭折で必要なくなった。
だが今、こうして数百年ぶり――主観では数十年ぶり――の再会を果たして、妹がまったく変わっていないことを知り、妻も生まれ変わっていたと知って、あらためて、しかも緊急に「どうにか」する必要があることも知ったのである。
そのゆえもあって、この点に関して春乃に厳しく接したのである。
その兄の叱責を受け、春乃は一瞬口ごもる。兄が真剣に怒っていると感じたからだ。
だがそれゆえに春乃のわだかまりは深まる。
兄が自分より雪菜を大事にしていると誤解したからである。
だから三足飛びでこの台詞が出た。
「……兄上は、私とこの方と、どちらが大切なのですか!」
男女間で何百年経っても変わらず出てくる不毛な問いだが、それだけに深刻でもある。
ここで誤れば事態はこじれる一方だ。道明は真剣に答えようとした。
が、そこでもう一人の主要人物が穏やかに口を開いた。
「春乃さま。まず私からご挨拶させていただけませんか?」
正座したまま、やさしげな口調で告げてくる雪菜に、道明も春乃もそちらへ目を向ける。
それを受けて対決してやろうと思ったのか、春乃は喧嘩腰できちんと座り直す。
と、雪菜は彼女に向かって静かに深々と頭を下げた。
「はじめてお目にかかります。雪菜と申します。あなたさまのことはお館さまからいつもうかがっておりました。とても凛々しく、強く、気高い方であったと。一度お会いしたいと存じておりましただけに、こうしてお目にかかれて幸せにございます」
穏やかな口調の中に初々しさが混ざる、なんとも不思議な声音だった。
雪菜は亡くなった年齢に転生してからの年月を加えれば、六十は過ぎている計算になる。
当時の年齢からすれば充分に老女ではあるが、純粋なそれは感じられない。
「紗夜」の肉体年齢も関係しているのかもしれないが、そう単純なものでもなさそうである。
なんにせよ、とにかく、この義姉の挨拶に、「義妹」である春乃は虚を突かれて戸惑った。
彼女にとって雪菜は「恋敵」でしかないのだが、この義姉にも人格や個性があることをあらためて感じたのである。
それが不快なものでなかったことが、春乃をさらに混乱させた。
春乃は生まれも育ちもお姫さまであり、加えて「浅賀谷の力」の才能と実力と実績まであった。
自分に対する自信は内外併せて強烈なものがある。
が、その隙間を突くように攻め入られたのだ。
いかに強い個性と自信があろうとも、主観では十四歳でしかない春乃が混乱するのも無理はなかった。
その、孫ほども年の離れた義妹に雪菜は続ける。
「春乃さまには私の存在はうとましいものでございましょう。ですが私としましては、春乃さまと出来るだけ仲良く過ごしたいと思っております。いろいろとお気に召さないことも多いかとは存じますが、偽りない私の本心、どうぞお汲みおきいただければ幸いに存じます」
三つ指をつき頭を垂れたまま、雪菜は静かに告げた。
それはまぎれもない雪菜の本心であり、春乃にも確かに伝わった。
それだけに春乃としてはますます自分の心を持て余すことになる。
頭と理性と感性の一部は彼女の言うことを素直に受け入れ、好意すら覚え始めていた。
が、春乃の心はそれを素直に認められるほど成熟していなかった。
「……三月、譲る。え?」
春乃の言うことを繰り返すだけに徹していた三月だったが、しばらく無言だった春乃が「譲る」と言ったきりなにも言わなくなったことに我に返る。
そして春乃はそのまま本当に黙り込んでしまった。
「……なんか何も言わなくなっちゃいました…」
「さようですか。ではお気になさらず、しばらく放っておいてくだされ」
少し不思議そうに三月が言うことに、道明は笑みを浮かべながらそう返す。
春乃が自分の気持ちを整理するために時間を求めたことを察したからである。
今の哲晴の外見からも、春乃の記憶の中の若い道明からも想像は難しいが、現在の彼は初老と言っていい年齢と経験があるのだ。
思春期の春乃の心情をおもんぱかり、思いやる程度の器量は充分に持っていた。
そしてそれは雪菜も同じである。
春乃には最初から勝ち目はなかったのだ。あとは時間の解決を待つだけである。
それでも完全に、というわけにはいかないであろうが。




