第四章 お殿さま再会する 2
次の日。夏休み初日。
朝から日差しは強く、「初日だから」という理由で惰眠をむさぼっているはずの級友も多数いるだろう中、三月はいつもとほとんど変わらない時間に起き、いつもと変わらないかそれ以上のスピードで身支度と朝食を終えると、急いで水津家へ向かった。
正しくは昨日のことがあって、気がかりでほとんど寝てもいられなかったのである。
『ほら急いで急いで。早く兄上さまに会いたいし』
頭の中には相変わらず三百年前の幽霊が居座っていて、プライベートもなにもあったものじゃなくなったが、そのあたりは三月はあまり気にならない。
一人っ子なだけに神経質になりそうなものだが、自分でも不思議なほど彼女を邪険にする気にならないのだ。
うるさいし、時に面倒くさくはなるが。
「春乃ちゃんもお兄さんに会うためなら早起きもどうってことないんだね。学校に行くために起きると『まだ眠い~』って文句ばっかり言うのに」
ライトグリーンのノースリーブのワンピースは健康的であり、視覚的にも涼やかで、三月によく似合っていた。
それでも半ば走る速度で足を動かす彼女の肌にはうっすら汗がにじみ、だがそれもまた健康美を表していて、十代の少女の瑞々しさを引き立てている。
『そんなの当たり前じゃない! 一体何百年兄上さまに会うのを我慢してたと思うの!? だいたい同じ部屋で同じ布団で一緒に寝て一日中くっついていたいくらいなのに、あんたは同じ家に泊まることすら拒むとか、訳わかんない! これでもしあの女が兄上さまに何かしてたら…!』
「そんなことできるわけないでしょ! 一緒の布団とかそんな… それに春乃ちゃん、死んじゃってそのすぐ後にあたしの中に入ってきたんでしょ? 主観的には何百年どころか何日ってところじゃない。あとあの二人は兄妹よ。何かあるなんてそれこそあるわけ…」
『だって夫婦とか言ってたじゃない! あたし知らないよあんな女! 兄上さま信じられない!』
三月のもっともな反論を、春乃は半ば逆上して叩き止める。
たしかに春乃にとって彼女の存在は青天の霹靂だろうが、ちょっと考えれば春乃が死んだあと道明が崩御するまで三十年以上経っているのだ。
奥さんどころか子供がいてもおかしくはない。
おかしくはないどころか普通な話である。
そのことがわからない春乃ではないだろうが、しかし感情がそれらの理屈を簡単に吹き飛ばすほど、彼女は兄を好いているのだ。
そのこともわかるだけに、三月も頭の中でぎゃあぎゃあ言い続けている春乃にうんざりしつつも何も言わないのだが、彼女自身、わだかまるところがないわけではない。
まさか妹同然の紗夜が、道明の妻である雪菜の生まれ変わりだったとは。
それも自分たちとはまた違う、本物の生まれ変わりだったとは。
心が波打たない方が不自然であった。
突然の紗夜の三つ指に、道明も三月も唖然とした。
特に三月は一瞬頭の中が真っ白になるほどだった。
「道明の妻です」という彼女の言葉にではなく、彼女の雰囲気にである。
三月の知っている紗夜のそれではない。まったくの別人。
圧倒的なほどの穏やかな静けさ。
年輪を重ね、正しく生き、人生を真っ当に過ごしてこなければ得られないそれが、紗夜の全身から漂ってくる。
十五や十六の小娘に出せる人格ではなかった。
「さ、紗夜ちゃんも乗り移られちゃってたの?」
半ばひっくり返りそうな声で三月は尋ねる。
紗夜の静謐なあたたかさに驚きつつも、そこは自分も経験者である。
彼女に起こった身の上は誰よりも理解できる。
今は紗夜の人格と、道明の妻という雪菜の人格が入れ替わっているのだろう。
が、紗夜――雪菜は穏やかな笑みで三月を見ながら、ゆっくり首を横に振った。
「いいえ、違います。私は誰に乗り移られたわけではありません。私は私のままで紗夜であり雪菜なのです」
「…? どういうこと?」
雪菜の言うことにつかみどころがなく、三月は首を傾げる。
その三月を穏やかに見ながら、雪菜は申し訳なさそうな表情もにじませながら答えた。
「私は生まれたときから雪菜の人格がありました。というより、雪菜としての記憶も人格もすべて持ったまま、赤ん坊として生まれてきたのです」
雪菜の言うことはすぐには理解できなかった。
が、しばらく思考をめぐらすと、三月は思わず跳ねるように背筋を伸ばし、目を剥いた。
「えっ!? それじゃ赤ちゃんの時から大人のままの意識があって、それでそのまま今の年まで成長してきたってこと!? それじゃ紗夜ちゃんはどこにいったの!? ううん、どこにいるの!?」
驚愕に目を剥いたまま立て続けに三月は尋ねる。
生まれた時から「紗夜」が「雪菜」だとしたら、今までずっと一緒に育っていた「紗夜」はどこにいるのか。
どこにいったのか。
そんな三月に、雪菜はさらに表情を沈ませる。
「…『紗夜』は最初からいませんでした。この体には私一人の人格しかありません。『紗夜』は私が普通の少女としてこの時代で育ってゆくために――誤解を与えてしまいそうですが――演じてきた人格なのです」
それを聞いた三月は、ハンマーで頭を殴られたようなショックを受けた。
もしかしたらここ二週間の珍奇な出来事の中で一番の衝撃かもしれない。
「そんな……それじゃ今までずっと、あたしたちをだましてたの!?」
ショックのあまり声も出なかったが、その間に衝撃が徐々に怒りに変わってゆき、それが臨界点を越えると、三月は雪菜に激した。
「紗夜」は初めから存在しなかった。
彼女が演じてきたニセモノだったのだ。
自分もだが、彼女の両親や友人、それに兄である哲晴もだまされてきたのだ。
これはどう考えても許せることではなかった。
その三月の憤激に、雪菜は静かに目を伏せ、これから彼女の口から発せられるであろう罵詈雑言を受け入れる姿勢に入る。
「この……!」
「お待ちを、三月どの」
が、ここで道明が三月を制した。
声だけでなく軽く彼女の肩に手も添えて。
それはいつも聞く哲晴の声でありながら、彼には出し得ない柔らかな重厚さを持ち、三月の言葉を止めさせる。
そして添えられた手は、それが哲晴の手であることに、彼女の心臓は跳ねる。
昔はよくつないでいた手だが、こんな風に触れられたのは何年ぶりだろう。
その手は彼女が知っている手ではなく、すでに大人の男に入りかかっている、女には出せない力強さを持った手であった。
その二重の攻撃に、三月の怒気はそがれ、伸び上がりかけた体がペタンと絨毯の上に落ちる。それを見た道明は、彼女を静かに諭した。
「三月どの、お怒りはもっともなれど、ほんの少しだけ雪菜の立場や気持ちを察してやっていただけないでござろうか。雪菜はそれは戸惑ったことでしょう。生まれたときから一人の人間としての人格を持ち、それでありながら赤ん坊として生き始めなければならなかった。いきなり赤ん坊が大人としての考えや発言をしたら、どのようなことになったか。さらに成長するにつれ、年齢にあわせて演技の質を変えなければならなかった。すでに大人の人格がありながら、一日中子供をやらなければならなかったとしたら、それはとてつもなく心に負荷がかかることでしょう。それを雪菜は、誰にも相談もできず、本当の自分を隠しつづけ、十数年を生きてこなければならなかったのです。その孤独、私であればとても耐えられない。三月どのはいかがか」
道明は三月と向かい合って正座し、眼を見ながらしっかりと話してくる。
一見すると説教のようにすら見えるが、三月にはそのような感覚はなかった。
道明の説諭は、とてもわかりやすく、三月の腑に落ちるものだったからである。
三月は、自覚なくではあるが、道明が名君であるゆえんの一つを感じ取っていた。
ゆえに怒りは徐々に収まる。
確かに道明の言うとおりだった。
生まれたときから誰とも話もできず、またしゃべれるようになっても子供のふりをし続けなければならない。
それは十五歳になった今でも変わらないだろう。
雪菜の本当の年齢が幾つかは知らないが、今の自分たちよりずっと大人なことは確かなはずである。
高校生を演じるだけでも相当な負担だったはずだ。
沈思し、道明の言ったことを自分の中で咀嚼しているらしい三月に、道明は安堵の表情をかすかに浮かべながら続ける。
「今一度申しますが、三月どののお怒りはもっともなれど、そこは雪菜も心苦しさを覚えているのは必定でござる。だからこそ、今なにも言わず三月どのの非難を受けようとしたのでござろうから」
そう言われて三月はハッとして雪菜を見る。
いつも見慣れた「紗夜」の顔に、辛さがかすかに浮かんでいた。
かすかというのは雪菜自身がその辛さを押し隠しているためだ。
心の中には十数年分の罪の意識がうずまいているに違いない。
そしてそのような想いを持つこと自体、許せないと感じているに違いない。
彼女の立場からすれば、それ以外に取りようのない行動であったのに、その罪を受け入れようとしているのだ。
三月は、自分の視界が狭く、雪菜のことを思いやれていなかったことをはっきりと知った。
「……そうですね… 紗夜ちゃん……雪菜さんの方が、ずっと辛かったんですよね… ごめんなさい、あたし、考え足らずで…」
座り込んだまま肩をストンと落とすと、三月はうなだれて謝った。
自分が未熟だということは自覚しているが、こうしてはっきり思い知らされるといささかショックは大きい。
そんな三月に雪菜はほほ笑みかける。
「あなたが謝る必要はどこにもありませんよ、三月さん。私があなたたちをだましてきたんです。非難されるのは当然のこと。それをせずに私を思いやってくださるあなたは、本当にお優しいとわかります。その優しさに甘える私を許してくださいね」
「そんな……」
自分より一歳下の、年上の女性にやさしく謝罪と褒詞をもらい、三月は少し顔を上げて恐縮する。
彼女は確かに紗夜だが、確かに紗夜ではなかった。
そしてあらためてハッと気づく。
道明は雪菜もまた苦しんでいたと、すぐに察していた。
彼自身が、今とんでもない状況に巻き込まれており、自分のことだけで精一杯のはずなのに、それでも他者の気持ちを思いやることができたのだ。
それは年輪のせいだと言えば言えるかもしれないが、自分が彼と同い年になったとき、同じことができる自信は三月にはなかった。
「やっぱり道明公は名君だったんだ」
三月は心の中でそう独りごちた。




