表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/32

幕間  遠森家

 鞘香は傷だらけの姿でようやく目的地にたどり着いた。

大きな洋風の邸である。呼び鈴を鳴らすこともなく、身体全体で押すように大きな門扉を開き、中へ入ってゆく。

足を引きずりながら庭を歩き、そしてこれも大きな玄関のドアを開けると、中へなだれ込んだ。

「はぁっ、はぁっ、はぁ、はぁ…」

 荒い息は疲労よりも傷の痛みのためである。

艶やかで余裕のあった表情は、今は蒼ざめて血の気を失っている。

が、悽愴なその表情すら美しいのが鞘香であった。

 ドアを抜けると広い玄関ホールがある。

そこから自分の部屋へ向かおうとした鞘香だったが、無事に帰ることができて気持ちが抜けたのか、足をもつれさせて転がるように仰向けに倒れ込む。

短いスカートがまくれあがり、あと少しで下着が見えるという扇情的な姿だが、それを直す余裕も今の彼女にはなかった。

「鞘香さん、帰ったの」

 玄関ホールには階段が隣接している。どこの少女漫画の邸かといった、ゆるやかで豪奢な螺旋階段だが、そこから降りてくる女性も少女漫画から抜け出したような初老の女性だった。

 痩身に黒いワンピースを着込み、やや皺の刻まれた顔だが、年輪にほどこされた表情は一種の荘厳さを感じさせる。

一見すると五十歳を過ぎているようで、鞘香の祖母と言っていい年齢かと思えるが、それは鞘香自身の言葉で否定された。

「はぁ、はぁ、は…い…お母さま。ただい…ま…帰り…ました…」

 荒い息をつきながらなんとか挨拶した鞘香だったが、強烈に走る痛みに身じろぎしながら顔をしかめる。

前述したようにダンプカーに跳ねられたようなダメージなのだ。

たとえ光竜が盾になっていたとはいえ、重傷であることに違いはない。

 そんな娘を見ても表情を変えることなく、静かに階段を降りてくる女性。

そしてそんな母親を無情とはまったく考えていない顔で鞘香は彼女を見上げている。

「普段であればそのような不作法、叱ってさしあげるところだけれど… 浅賀谷道明にやられたのですか?」

 仰向けに倒れたまま荒い息をつく娘のところへ静かにたどり着いた女性は、これも静かに膝を突き、娘を見下ろす。表情は動かないが、冷たさは感じさせない。

長い年月をかけてつちかってきた強い意志を持つ人間にしか為せない無表情がこれであった。

それがわかるだけに鞘香は母を尊敬しており、重傷の自分のことではなく、負傷の理由を尋ねてくる彼女に恨みはまったく抱いていない。

「ええ…道明にもですが…彼女が…現れました… 春乃です…浅賀谷春乃…彼女に…やられ…ました…」

 その答えに母親は軽く目を見開く。

道明のことは想定内だったが、春乃の登場は想定外だったからだ。

そしてそれだけではない。浅賀谷春乃は彼女たちにとって特別な意味のある名前だった。



「そう…彼女が現れたのならこの程度ですんでよかったというべきですね…」

 と、女性は表情を少しゆるめると、鞘香の頬に触れた。

そのゆるみはほんのわずかでしかないのに、そこからあふれる慈愛は鞘香の心に染み入ってくる。

薄く乾いた掌もまた、母の子への愛情を伝えてきていた。

それに癒されて痛みが少し消えたのか、鞘香は苦しさの中に穏やかな笑みを浮かべて応じる。

「ええ…彼女はまだ…本調子ではないようで… ですがそれよりも…浅賀谷道明の方が…」

 母に喜んでもらおうと、さらに情報を伝えようとした鞘香だったが、ゆるんだ心は傷への気構えも解いてしまい、今までにない激痛が彼女の身体を貫いた。

「く……っ」

 それでも必死に悲鳴をこらえる鞘香だが、美貌に脂汗を浮かべ、これ以上の会話が不可能に近いことは誰にも明らかだった。

「いいのですよ鞘香さん。二人を相手によく帰ってきてくれました。話はまた後で聞きます。今はゆっくりお休みなさい」

 激痛に身をよじる娘にやさしく語りかけると、女性は自然に右腕に心を流し込む。その流れに応じて、彼女の右腕が光り始めた。

そしてその腕もまた、鞘香と同じように光る竜と化す。だが同じように見えてどこかが違う。

鞘香の竜より猛々しさがなく、それでいて内実は比べ物にならないほどの力量があるように感じられる。

 それが事実であることを証明するように、竜は鞘香の頬にやさしく頬ずりし、そのまま体中を慰撫してゆく。

それに応じて鞘香の表情から苦しさが消えてゆき、大きく安堵の息を漏らした。

「お母…さま…、ありがとう…ございます…」

 鞘香の竜はまだ力任せに叩きつける類のものでしかないが、母親のそれは違う。

このように万物にやさしくすらあれるのだ。

自分もいつかこうなりたい。

鞘香は、先ほどまでと比べ物にならないほど楽になった身体と心の芯から思った。

「大まかに治しただけです。しばらくは静養していなさい」

「いえ、すぐにでも浅賀谷兄妹を…」

「寝ていなさい」

 重傷から「中傷」程度になった身体を起こす鞘香に母親は静かに命じ、それだけで娘はおとなしくなった。

「はい…」

 そんな鞘香に静かな笑みを向けると、母親は表情を戻した。



「孝昭さん」

 そして静かに一人の男性の名を呼び、その途端、二階のドアが勢いよく開く。

と、一人の男が飛び出してきた。

 二十代前半くらいの若者で、体の線はやや細いが芯に力強さを持っているのは動きから見て取れる。

だがその表情は今は心痛に塗りつぶされていた。

「鞘香!」

 若者は階段を使うようなもどかしい真似はしなかった。

手すりを飛び越えると、そのまま玄関ホールへ着地する。

下手をすれば大怪我、うまく着地できても足に強い痛みや痺れを覚える高さだが、若者は意に介さず鞘香に走り寄ると、これも勢いよく両膝をついた。

「鞘香、鞘香、大丈夫か? 平気か? 痛くないか?」

 いくら母親に治療を施してもらったとはいえ痛みが完全に消えたわけではなく、大丈夫なわけも平気なはずもない。

そうとわかっていても訊かずにはいられない若者で、鞘香はそんな若者にやさしく応じた。

「平気よ…お兄さま… すぐに…快復する…わ…」

「そうか、よかった。ああいや駄目だ、しばらくおとなしくしていろ。完治するまで絶対に動いちゃ駄目だぞ。兄さんがずっとそばにいてやるからな。ああいや、それも駄目だ、鞘香の仇を討ちにいかなくちゃ…ああでも鞘香の看病を…ああでもでも…」

 孝昭は普段は冷静すぎるほど冷静で、穏やかすぎるほど穏やかな若者なのだが、鞘香のこととなると途端に我を忘れてしまう。

シスコンと簡単に決めつけると怒るので誰も言わないが、当の鞘香ですら苦笑するレベルである。

そんな孝昭が、なぜ負傷した妹のもとへすぐにでも飛び出してこなかったかと言えば、母親に「自分が呼ぶまで出てこないように」と厳命されていたからである。

彼は自室のドアの内側で、煩悶しながら足踏みし、母が自分を呼ぶのを待っていたのだ。

「お兄さま、本当に平気だから…」

「孝昭さん、いつまで鞘香さんをそんなところに寝かせておくの?」

 オロオロと取り留めのない兄を苦笑しながら見上げる鞘香であったが、それより後ろから母の言うことの方が今の孝昭を止めるのに効果的だった。

孝昭ははっと我に返ると、痛ましさと申し訳なさを表情に刻ませる。

「そうだ! すまない鞘香、すぐにちゃんとしたベッドに寝かせてやるからな。ちょっと、いやすごく痛いかもしれないけど我慢してくれな」

 と、妹に心底から告げると、孝昭はまるで砂でできた人形を扱うように、静かに大事に妹をお姫さま抱っこする。

その動きはたしかに鞘香に痛みを与えるが、我慢できないほどではない。

さっきまでの痛みと比べたら「ちょっと」というレベルである。

が、過保護な兄にとってはその程度の痛みでも「すごく」になってしまうのだ。

それがわかるだけに、鞘香も痛みは表情に出さない。

「平気か? 平気か、鞘香?」

「ええ平気。心配しないでお兄さま」

 運ばれることからくる痛みより、むしろそうやってしつこく確認される方が鬱陶しいと思われるのだが、そこに気づく孝昭ではなく、そのことに文句を言う鞘香でもなかった。

 そんな、少し奇妙ながら仲のいい子供たちをかすかな笑みとともに見送る母親は、表情を無に戻すと虚空を見つめながら独りごちた。

「始祖よ…遺されたものまでは従います。ですがそれ以上のものは、私たちに選択させてください…」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ