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序章  崩御

江戸時代中期。冬の日。

浅賀谷藩七代目当主・浅賀谷道明は死の床に着いていた。

老齢とはいえずとも、時代の常識から言って早逝ともいえぬ。

だがその人生は濃密で意義のあるものだと誰もが認めていた。

それは今、目をつぶる彼の周りに集まった数人の男女にも異論はなかった。

彼の人生は浅賀谷藩の再生にすべてを捧げたものだった。

外様大名として、大藩とはいえぬまでも、中程度の藩として徳川の世を生きはじめた浅賀谷藩であったが、

貨幣経済へ移る時代の変化に対応しきれなかった大半の藩同様、

徐々に、そして急速に財政その他を悪化させていった。

そんな浅賀谷藩六代目当主・浅賀谷道則の三男として生まれたのが道明だった。

長兄が正室の子、次兄は側室の子であったが夭折。

そして次兄を産んだ女とは別の側室の子として生まれたのが道明だった。

正室には長兄の他に女児が二人生まれたが、姉の方はこれも夭折した。

他の側室にも子はできたが、死産や夭折が続き、

結局は正室の男児にして嗣子である道隆、側室の子・道明、

もう一人の側室の子・春乃だけが無事に育つことができた。



「……」

「お館さま…」

閉じていた目が開かれ、枕頭に座る彼の正室が夫の名を呼ぶ。

精気は薄いが力強さをたたえた微笑を浮かべる夫の顔が彼女の方に向けられ、正室も同じ表情を返した。

その正室に道明は頼む。

「障子を…開けてくれぬか」

「雪が降っております。お体にさわりますよ」

十六の歳に彼の元へ嫁いできた彼女は、隣りの小藩の家臣の娘であった。

まだその頃は嫡男である兄・道隆が存命で、

道明に家督が回ってくると誰からも思われておらず、

その程度の身分の娘としか縁談がなかったのだ。

そのことを道明はしっかりと自覚しており、

部屋住みの自分のもとへ嫁いできてくれた娘を心から慈しみ、

異国での生活に不安を持っていた彼女も夫を心から愛した。

それは彼が家督を継ぐことになっても変わることはなかった。

「であればこそじゃ…生涯最後の雪、見せてはくれぬか…」

穏やかだが精気のない表情と、力はないがやさしい口調で道明は再度頼む。

自らの死期を悟りながら、それを恐れ気もなく受け容れることができる道明は、

自分の人生に自信を持っており、それを知る妻や家臣たちもいまさら無用の慰めは言わない。

家臣の一人が腰を浮かすのを制し、正室は静かに立ち上がると、障子を、同じく静かに開けた。

「お見えになりますか…? お館さま…」

開けられた窓から冷風が吹き込み、曇天の空と、音もなく空を染める白い雪が彼の視界に入ってきた。

「ああ…よう見える…」

首を窓の方に向け、彼と同じように老い、同じようにほほ笑む妻に返事をすると、

冷風を顔に浴びながら、道明は白い雪をやわらかな表情で見やる。



「今年の雪はどうかの…定盛…」

その雪を見ながら道明は、中年の筆頭家老に尋ねた。

「は…例年並みかと思われます。民百姓への被害も微々たるもので終わらせられるかと存じます」

「であるなら、微たる被害も起こさぬように務めよ…」

「は、必ずや…」

信頼する臣下の報告に、道明は彼らしい命を下す。

死に至る寸前までも藩民を第一に考える主君に、筆頭家老をはじめ、

家臣たちは誇りと、その主君とを失う悲しみとを持って低頭した。

窓の外を見ていた道明は、それだけで疲労したのか、目を閉じた。

その表情にはまだ意思が感じられ、そのまま眠りにつく様子がないのは見て取れる。

しかし先ほどまでより精気が薄くなったようにも見え、家臣たちの表情はまた暗くなった。

二十代から五十代に至るまでの彼らは、道明と共に藩を再生、発展させてきた者ばかりで、

若者にとっては師ですらある。

また道明と同年代の者たちにとっては、彼が自分たちにすべてを任せ、

すべての責任を取ると言ってくれたからこそ自分の能力を最大に発揮できたことを知っている。

農地改革に全てを懸けた者。市場経済を発展させた者。

官僚組織を整えた者。教育制度を確立した者。

その他すべての者たちが己の人生を懸け、為し遂げてきた仕事。

彼らの仕事、すなわち人生は充実したものであり、藩史にすら明確に残るであろう。

それがどれほどの名誉と幸福か。

そしてその名誉と幸福は、主君の度量あってこそ得られたものなのだ。

その恩人が死に逝こうとしている。彼らにとって耐えがたいものであった。



「障子は開けたままで頼む…皆は寒いかもしれぬが、許してくれ…」

目を閉じたまま、道明は正室に頼み、

穏やかにうなずいた彼女は窓を開けたまま、静かに枕頭へ座りなおす。

「最期くらい、もう少し自由にわがままをおっしゃって構いませんよ、お館さま…」

表情は変わらず穏やかなまま、正室は夫にほほ笑む。

彼女の夫は己のためのわがままを、一切言わぬ男だった。目をつぶったまま道明は苦笑する。

「そうか…? わしは常にわがままを言い通して生きてきた気がするがな…」

それは彼の本心だった。

藩政において何か事を為すとき、それが抜本的な改革であるほど、強い反発が起こる。

だがそれにひるんでいては何もできない。時には蛮勇を奮って猛進せねばならない時もあった。

道明はそのことを思い出している。

それが他者にとってわがままに見えぬのは、道明が私心から事をおこなわぬことを皆知っているからで、

道明自身がそれをわがままと感じるのは、彼にとって公と私が常にほとんど同一のものであったからである。

道明は目をつぶったままだが眠ってはいない。次に眠る時は、そのまま二度と目を覚まさないだろう。

それは道明本人にも、周りの者たちにもわかっている。

部屋に冷気が満ちる中、薄い精気がさざ波のように道明の顔をかすめてゆく。

その精気が消え去る寸前、道明は小さく唇を開いた。

「生まれ…変わったら…次は…もう一つの…浅賀谷の道を……」

それが浅賀谷藩中興の祖、浅賀谷道明の最期の言葉だった。この数秒後、彼は息を引き取った。

五十七年の人生であった。

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