~「百四十年目」~
◇◇◇
……二十年後。少女は百四十歳になった。胸や腰が丸みを帯び、体つきが段々と女性らしくなってきて、いよいよエルフっぽい感じになった。尤も、この森でそれが生かされることはないのだが。
「ご主人様。樹液と根っこの採取、終わりました」
「そこに置いてくれ」
「はい」
今日も少女は、男の研究を手伝う。綺麗な銀髪は腰に届くほど伸び、麻布のワンピースからは引き締まった手足が見え隠れする。ロリコンの気がない者でも厭らしい視線を向けてしまうかもしれないが、男は生憎と、年端も行かぬ(といっても百四十歳)少女に欲情したりしないし、ましてエルフを異性と見ることもない。そもそも、男は性的欲求から切り離された存在なのだ。彼にとって、こういうナレーションの内容自体が無意味なのである。
「……にしても」
それはそれとして。男はペンを置いて、訝しげに顔を上げた。
「はい?」
「今日は、森が妙に騒がしい」
男が感じていたのは、微かな違和感。普段とは違う、森の気配。それが何を意味するのか、彼自身もよく分かっていない。
「これは、お前を拾った日に似ているな」
「私、ですか?」
しかし、正体が分からなくても、心当たりはあった。それは丁度、少女が赤子の頃、川から流れてきた日と同じだったからだ。
「森に、誰かが入ってきたんだろうな、きっと」
「誰かって……誰です?」
男の言葉に、少女は緊張の面持ちで尋ねた。今までずっと、男と二人っきりで育ってきた少女。彼女にとって、他の人間は未知の存在だ。この森にも他の住人がいることは知っていたが、彼らにすら会ったことはない。それならば、森の外からやって来た者に怯えてしまうのも、無理からぬことだろう。
「新たな囚人か、それとも森に迷い込んだ余所者か。どちらにしろ、森に他の者が入ってくるのはお前以来だな」
そんな少女の気持ちを知ってか知らずか、男はそんな推測を口にする。……囚人とは、この森の住人。幾重にも重ねた罪によって、この森に送られてきた者たちのことだ。そのような人間が現れたのか。
「ど、どうすれば良いのですか……?」
「放っておけ。念のため、今日はもう外に出ないほうがいいかもしれないが」
「は、はい……」
少女は男の言葉に従って、今日はこれ以上外出しないことにした。
◇
……数時間後。
「……ん?」
もう日が沈むかという頃。男の小屋に、誰かが近づいてきたようだった。小屋の扉が叩かれ、返答も待たずに開かれる。
「邪魔をする」
「……誰だ?」
無遠慮に押し掛けてきたのは、年配の男性。身に纏っているコートや、その下のスーツを見るに、どうやらこの森の住人ではないようだ。
「おっと、これはすまない。些か失礼であったな」
「誰なのかを聞いている」
男性の謝罪にも、男は素っ気無く問いを繰り返すだけだった。
「……中央大陸のアルゼスという国で書物を商っている、フローレンタ・クアイバという者だ」
「……ふむ」
男性の名乗りに、男が最初に抱いた感想は、「日本語が公用語なのに、固有名詞は案外洋風なんだな」だった。
「それで? その中央大陸とやらから、遥々ここまで、何の用だ? そこがどこにあるのかは知らんが、さぞかし遠かったんだろう?」
男が名前を求めたのは、相手の素性が知りたかったからではない。名前を隠す風習があるかどうかを確かめるためだ。名前とは、人間の心。それを明かせば、魂を奪われる。魔術の発達した文明では、そういう風習が残っていることも珍しくない。しかし、このフローレンタという男性にはそういう素振りはなかった。日常的に偽名や渾名を使っているのでなければ、彼は魔術とは縁遠い人間なのだろう。男はそう結論付けた。
「……あなたが、偉大なる大魔術師か?」
「そんな大仰な名前は持ち合わせていないが」
フローレンタの問い掛けの意味が分からず―――本当は分かっていたが、そういう振りをした―――、男はそう答えた。言外に、用件をさっさと言えという意味を込めて。
「……娘の病を治して欲しい」
「医者に言え」
促しておいて、男はフローレンタの頼みを一蹴した。―――ちょっと、あんまりじゃないだろうか?
「世界中の凄腕と呼ばれた医者を当たって、様々な秘薬を試して、それでも駄目だったんだ……後はもう、「この世の端っこ」、「魔女の住む森」と呼ばれたここしかない。ここにいるという大魔術師に頼るしか、ないんだ……」
要するに、フローレンタの娘は、不治の病に掛かっているのか。それで、藁にも縋る思いで、ここまでやって来たのか。
「そうか……」
それを聞いて、男は暫し迷った。……実のところ、フローレンタの頼みを聞くのは簡単だった。男は森から出られないが、フローレンタから娘の様子を聞いて、薬を調合すればいい。好都合なことに、彼は今、薬の研究をしている。それ自体は簡単だ。―――だが、男は囚人だ。下手なことをすれば、それが罪に問われれば、男は消えてしまう。薬が、その娘に悪影響を与えれば、男が消されかねない。
「何でもいいんだ。娘が助かるなら、どんな代償だって払う。どうか、知恵を貸してほしい」
「……一応、今開発している薬があるが」
「それを分けてくれないだろうか?」
試しに口にしてみれば、やはり食いついてきた。……どうするつもりか。
「……構わないが、いくつか条件がある」
「飲もう」
条件を出されても、それが明示される前に了承してしまうフローレンタ。よっぽど逼迫しているらしい。
「まず一つ。まだ開発中で、臨床実験もしていない。効果があるか分からないし、どんな副作用が出るかも分からない。場合によっては副作用で死ぬ」
「……構わない。どの道、娘はもう長くないんだ」
思った通り、フローレンタの娘は余命幾許もないらしい。それなら、多少のリスクはやむなしか。
「故に、薬を服用するのは自己責任だ。俺の責任はなし。いいな?」
「分かった」
この約束で、男は罪を逃れることが出来る。この世界には薬事法などないから、同意さえあれば問題ないのだ。
「それから二つ目。お前は書物を商っていると言った。娘の病が治ったら、その証として、書物をいくつか融通して欲しい」
「報酬か?」
「それもあるが、こちらとしても、薬の効果を確かめたい。効果があったなら、それを知らせて欲しいんだ。そのついでに、書物をくれと言っている」
「分かった。手配しよう」
二つ目の要求は、建前はともかく、本当の理由は違った。ずっと森の中で育ってきた少女のために、せめて外の書物を読ませてやりたいと思ったのだ。……尤も、勉強を教える手間を省きたかったという側面もあったりするが。
「では、詳しい症状を教えてもらおうか」
「ああ」
それから男は、娘の病状を聞き出し、適切な薬を渡した。フローレンタは薬を受け取ると、礼を言って森を去っていく。
「……出てきていいぞ」
「は、はい……」
来訪者が消えて、小屋の奥から少女が姿を現した。どうやら、今まで隠れていたらしい。
「さて、少し早いが、今日の授業を始めるか」
「分かりました」
数百年に一度の来客があっても、男の生活は何一つ変わらない。いつものように過ごすだけだった。
◇
……数週間後。
「ご、ご主人様、これは……?」
「どうやら、あの薬が効いたらしいな」
男の小屋に届けられたのは、荷車一台分もある大量の書物。フローレンタが、約束の品を送ってきたらしい。……つまり、彼の娘は無事元気になったということだ。
「読みたければ、自由にすればいい」
「……はいっ!」
男の言葉に、少女は嬉しそうにそう返事した。