~「百年目」~「百二十年目」~
◇◇◇
……四十年後。幼児は成長し、少女となった。人間でいうと十歳くらいだが、体のラインが丸みを帯びてきており、「女」への過渡期であることがはっきりと見て取れる。
「ご主人様。川の漂流物、集めてきました」
「ああ、そこに置いておいてくれ」
ある程度成長したためか、男も少女により多くの仕事を与えるようになった。川に架けた棒に引っ掛かった物を回収させる仕事などは、ドジな彼女に任せるのが不安で仕方なかったのだが、今はそれもやらせている。ドジが直ったわけではないが、それくらいは構わないかと思えるくらいには信用しているのだ。
「転ぶなよ」
「わ、分かってますよ……」
それでも、釘を刺すのは怠らない。これくらい言い聞かせているからこそ、彼女を信頼できるというものだ。
「何か目ぼしいものでもあったか?」
「チラシや木の板ばかりです」
少女が持ってきた桶には、濡れて破れ掛けた紙や小さなベニヤ板などが入っていた。この手の廃棄物は、この森にもかなりの頻度で流れてくる。紙などはほぼ毎日だ。
「まあ、何かの役には立つだろう。いつも通り、紙は適当に伸ばして乾かしておけ」
「分かりました」
指示を受けて、少女は紙くずを持って窓辺に移動した。慣れた手つきで丁寧に皺を伸ばし、紙を平らにして、日に当てて乾燥させる。森の中ではあまり日が差さないが、それでも多少はその恩恵を受けられるのだ。
「木屑や板は肥料箱に突っ込んでおけ」
「はーい」
少女は残りの漂流物を外に持っていくと、小屋の裏に向かった。ここの地面には小さな穴が掘られていて、中には石で舗装された空間がある。植物を発酵させて分解し、別のことに利用するための装置、通称肥料箱だ。
「うんしょ、っと」
穴は腕が二、三本入る程度なので、誤って落ちることはない。ドジ属性の少女でも安心だ。
「ふぅ……」
とまあ、こんな感じで、彼女は当初の目的通り―――男の奴隷として、それなりに役立っているようだった。
◇
……その日の夜。
「ご主人様。今日もお願いします」
「ああ、分かった」
日が沈み、魔術による小さな灯りが照らす室内で、少女は男に懇願する。といっても、夜伽のような、色気のある話ではない。
「じゃあ、今日は儀式魔術の基礎からだ。大事なところだから、しっかり覚えるように」
「はいっ!」
男はここ数十年の間、夜になると少女に勉強を教えていた。少女が男の研究を手伝えるようにするため、読み書きだけではなく、魔術や科学の知識も与えているのだ。以前は昼間だったが、研究が忙しいので夜に変えたのだった。
「儀式魔術とは、その名の通り、所定の儀式を経ることで発動する魔術だ。儀式は、発動する魔術によって形式が違う。多いのは魔法陣を書いたり、詠唱したり、物を適切な場所に配置したり、というものだな。魔法陣の形や詠唱の内容、物の配置を術式という。これが魔術の内容を決定するんだ」
男の話を、少女はじっと聞いている。一字一句たりとも聞き漏らさぬよう、神経を研ぎ澄まして、講義の内容を拾っている。紙を無駄に出来ないのでノートは取れないが、エルフ特有の記憶力で、頭の中に確実に記録していった。
「術式には流派がある。これは、どういう目的で、どういうアプローチで魔術を発展させたかが、人によって違うからだ。例えば、敵を殺すことに重きを置くか、味方を守ることに重きを置くかで、魔術の構成も変わってくるだろ?」
「……は、はいっ!」
しかし、あまりに集中しすぎていて、男からの質問に答えるのが一瞬遅れる。まあ、それも仕方ないのだろう。聞き逃すよりはマシだ。そう思ったのか、男は何も突っ込まずに講義を続ける。
「逆に言えば、俺たちは流派などをそこまで気にしなくてもいい。自分の目的に沿う魔術でありさえすればいいのだからな」
こうして、少女は男の話を聞きながら、夜を過ごすのだった。
◇◇◇
……二十年後。少女は男の知識を吸収し、魔術についてより一層詳しくなった。だが、今はまだ座学だけで、実際に魔術を使うことはない。また、男の研究が薬についてなので、研究も雑用しか出来ていない。とはいえ、少女はかなりのペースで知識を得ているので、男の役に立てる日も近いだろう。
「……今日はここまでだ。明日に備えてもう寝ろ」
「はい、ご主人様」
少女は男に一礼し、床の布団(粗末な布で作ったシーツだが)に入った。男もすぐに寝室へ篭り、そのまま眠る。……この小屋は狭く、少女の寝室を確保できないので、彼女は研究スペースに寝床を与えられている。もっと小さい頃は男のベッドで寝ていたのだが、百歳になる前には今のようにしていた。これも、少女に自分の立場を分からせるための、男なりの教育なのだとか。
「……ご主人様」
とはいえ、少女はあくまで少女。もう百二十歳だが、人間で言えばまだ十二歳。人肌が恋しくなってもおかしくない年頃だ。森は比較的温暖で、夜でも薄い布団でも寒くはないが、心の寒さは一人きりで改善されることはない。
「……私は奴隷。ご主人様の奴隷。名前すら持たず、ただご主人様にご奉仕するだけの存在、なんだから……」
こういうとき、少女は自分に言い聞かせる。自分はただの奴隷だと。寂しさを覚えることなど許されないと。
「……もう寝ないと」
それでも駄目なら、後はもう、寝るしかない。眠って、余計なことは忘れるのだ。
◇
……翌朝。
「おはようございます、ご主人様」
「……ああ」
日が昇り、少女は主を起こしていた。それ自体は別に珍しいことではなかったが、少女にとっては貴重な仕事であり、日々の楽しみの一つであった。主の無防備な寝顔を、間近で見ることが出来るのだから。
「今日はどうするんですか?」
「……そりゃ、昨日の続きだが」
「そうですか。では、私はいつも通り、川を見てきますね」
「ああ」
だが、起きてしまえばそうもいかない。主のために、せっせと働く。それが奴隷の務めなのだから。
「はぅっ……!」
……しかし、小屋を出ようとしたところで、少女はすっ転んでしまった。未だにドジが直っていないのだった。
「……ったく。お前は一体、何度転べば気が済むんだ?」
「うぅ……ごめんなさい」
少女は涙目になりながらも、今度は慎重に、川へと向かった。
「……ふぅ」
男の溜息は、少女の身を案じてか。それとも、ただ呆れているだけなのか。前者であれば彼女は喜んだかもしれないが、恐らく後者だろう。男は、奴隷のことを心配するほどお人好しではないのだから。