~「五十年目」~「六十年目」~
◇◇◇
……そんな感じで、二十年が経過した。エルフの幼児は五十歳になり、言葉がしっかりとしてきた。体も成長し、多少なりとも男の仕事を手伝えるようになっている。
「ごしゅじんさまー!」
エルフの幼児が、森の奥から駆けてくる。両手には小さな籠を二つ抱え、それぞれに白い花がいっぱい詰まっている。
「はわっ……!」
しかし、途中で見事にずっこけてしまう。籠の中身を盛大にぶちまけて、地面に飛び込む幼児。
「はぅ……」
顔を泥と草木で汚した幼児は、涙目になりながら顔を上げる。しかし、声を上げて泣き出さないのを見るに、精神も前よりは成長しているようだ。
「……またか」
すると、小屋から男が出てきて、幼児の元へ歩いてくる。彼の発言によると、幼児が蹴躓くのは今回が初めてではないようだ。
「全く。どうして花を摘み終えてから、戻ってくるときに走るんだ?」
「うぅ……ごめんなさい」
男は幼児を立たせてやりながらも、彼女に対する愚痴を漏らしている。どうやら、幼児のドジは相当な回数になるらしい。
「とりあえず、川で体と服を洗って来い」
「はい……」
男に命じられて、幼児は意気消沈しながらトボトボと歩いていく。残った男は散らばった花を拾い集め、籠に入れて、小屋へと運んだ。
「……ふぅ。これでようやく取り掛かれる」
男が幼児に花集めをさせていたのは、自分の研究で使うため。男は魔術の専門家で、この森に来てからは専ら魔術の研究をしている。今までは理論展開と思考実験が主だったが、幼児がある程度仕事をこなせるようになってきたので、森にある植物を使った調薬にも挑戦することにしたのだった。
「さて、始めるか」
男は花を一つ取り出して、石で作った臼に入れる。そして同じく石製の棒で磨り潰し、出てきた汁を木の容器に移す。とりあえず、今はこの作業を繰り返すようだ。
「……はぁ」
その頃、エルフの幼児は、川に身を沈めていた。どうせ洗うのだからと、服を着たまま水に入っている。
「ごしゅじんさま、ぜったいおこってた……」
主の前で粗相をして、幼児は落ち込んでいる模様。彼女にとって、彼は唯一の家族であり、自分の存在意義。彼に失望されたら、幼児は生きていけない。彼女は幼いながら、そのことを理解していた。
「……ドジ、なおさないと」
決意はするものの、彼女のドジは生来のものだ。前にも男の手伝いを買って出て、川に転げ落ちた実績もある。最早直しようがないと思うが。
「……はぁ」
それも分かっているだけに、幼児はひたすら溜息を吐くしかないのだった。
◇
「……ふぅ。今日はこれくらいにするか」
男は花から汁を絞り終え、汁を集めた容器に蓋をしていた。後は数日寝かせて、それから次の工程に移るのだ。
「……ごしゅじんさま」
「戻ったか」
すると、洗濯と入浴を終えた幼児が戻ってきた。汚れの落ちた服を抱えて、裸でここまで歩いてきた様子。
「服はその辺に干して、早く着替えろ。いくらお前でも風邪を引く」
「……はい」
男に言われた通り、幼児は濡れた服を窓辺に干して、部屋の隅にある箪笥から新しい服を取り出した。幼児の服は麻布のワンピースのみで、今まで着ていたのとデザインが同じだ。これで、先程までと全く格好になったわけだ。
「今日の研究は終わりだ。後はいつもの勉強だ」
男はそう言うと、机の上に紙とペンを用意する。……男は毎日、幼児に読み書きを教えている。森で暮らしている限り必要ないものだが、男の研究では読み書きが必要になる。いずれその方面も手伝ってもらう予定なので、今から教えているというわけだ。
「……」
幼児は沈んだ表情のままであったが、男を待たせることなく椅子に座って、黙々と漢字の書き取りを始めた。……幼児との会話は日本語なので、教える字も当然日本語。もう既に仮名文字は習得しているので、今は漢字を教えているのだ。
「……ご主人様、っと」
今書いているのは、「主」、「人」、「様」の字。これを習得すれば、彼女は主のことを漢字で書けるようになるのだ。だから、暗い気持ちも吹っ飛ばして、気合を入れて書き取りに励んでいる。
「……おい、木偏が米偏みたいになってるぞ」
「あぅ……」
しかし、「様」の字の木偏が、払いの部分が突き出てしまって、「米」っぽくなっていた。変換しても出てこないので、どんな字か説明するのが難しい……。
「「人」の字も「入」になってるし。何度同じ間違いをするんだ?」
「うぅ……」
ドジっ娘脱却を決意した直後にこんな有様だ。幼児は涙を堪えて、漢字の書き取りを続けたのだった。
◇◇◇
……更に十年後。男は調薬の研究を続け、一定の成果を得た。森の植物たちは有毒だが、乾燥させたり魔術を併用することで、有益な薬へと姿を変えた。尤も、男に薬は必要ない。幼児も、男から供給される魔力によって傷がすぐ治る。ドジが多い割に、薬品は使わないのである。
「ご主人様。お花、持って来ました」
「ああ、そこに置いてくれ」
とはいえ、一定の成果ではまだ終われない。どうせやるのなら徹底的に、というのが男の信条だった。必要がなくとも、一度手を出したテーマは最後までやり遂げる。幸い、期限が存在しないのだから、満足するまで続けられた。
「暫く休憩してていいぞ」
「は~い」
努力の甲斐あってか、幼児は前より落ち着いてきた。読み書きも順調に覚え、多少舌足らずな点を除けば会話も問題ない。まだ人間基準で六歳程度ではあったが、もう立派な奴隷、男の良き助手となっていた。
「はぅっ……!」
―――ように見えて、実際はそうでもない。日に一回は、何もないところで転んでいるのだから。寧ろ、ドジのレベルが上がっている。
「……」
男もさすがに慣れたので、特にリアクションはしなかった。もう、注意して直る範疇でないと悟ったのだ。
「……ああ、っていうか今日はもういいぞ。花を天日干しして仕舞いにするからな」
「……はーい」
そういうわけで、幼児は然程役に立ってなかった。そもそも、作業の大半は男でないと出来ないのだ。そうなれば、幼児が手伝えることなど高が知れてる。
「……はぁ」
それを理解していても、幼児は、自分の力不足を嘆くしかなかった。
◇
「ご主人様」
「何だ?」
その日の夜。幼児は男に、あるお願いをすることにした。
「私にも、ご主人様の研究を手伝わせてください」
「今だって手伝わせているだろ?」
「そ、そうですけど……そうじゃなくて、雑用だけじゃなくて、もっと根幹を手伝いたいんです」
幼児の申し出は、男の研究をより深くサポートしたい―――雑用係ではなく、研究そのものを手伝いたいというもの。
「まだ早い」
しかし、男はそれを突っぱねた。そもそも、男は最初から、幼児に研究を手伝わせるつもりだった。しかし、それには沢山の下準備がいる。基本となる知識を一から叩き込まなければならない。そのために読み書きを教えたのだが、今はまだ、研究に関する知識は教えていない。だから、幼児は男の研究を手伝えないのだ。
「で、でも―――」
「その前に、まずはドジを直せ。じゃないと危なっかしくて任せられん」
「はぅっ……」
幼児を納得させるために、男は伝家の宝刀を抜いた。幼児の持つドジっ娘スキルを理由に、強引にでも引き下がらせるつもりなのだ。
「それから勉強もだ。読み書きだけでなく、計算や、魔術、科学の知識を必要とする。それが終わるのは、良くて二百年先だろう。それまでは雑用係だ」
二百年。長寿のエルフであっても、それはかなり長い時間だ。それを聞いて、幼児は黙るしかなかった。
「分かったか? 分かったら、さっさと引っ込め」
「……はい」
半ば男に追い払われるようにして、幼児は彼の前から去るのだった。