~「十年目」~「三十年目」~
◇◇◇
……それから数年ほど、男はエルフの赤子を育て続けた。食事を与えなくていいとはいえ、数年ほど経過すると独りでに動き回るようになり、結界で閉じ込めて置けなくなった。しかし、目を離せばすぐにどこかへ行ってしまうので、油断ならない。結果、男は自分作業を中断してまで、赤子の面倒を見なくてはならなくなったのだ。
「……はぁ。全く、何で奴隷の面倒を見てやらねばならんのだ」
男は溜息混じりに赤子を抱き上げ、あやしている。この赤子は動き回るだけでなく、機嫌を損ねると容赦なく泣き喚くのだ。それはさすがに迷惑なので、男はこうしてご機嫌を取らなければならない。確かに、どちらが奴隷なんだと言いたくもなるだろう。
「やっぱり、あのとき拾ったのが間違いだったか?」
こうなったのは、この赤子を拾ってしまったからだ。しかし、今更捨て直すことは出来ない。赤子を捨てるのは罪だからだ。男はこれ以上罪を重ねると、この世から消滅してしまう。だから、責任を持ってこの赤子を育てなければならないのだ。
「……これも罰か」
この仕打ちは罰。自分が今まで生きてきたことの報い。男はそう思うことにした。というか、そう思わないとやっていられない。
「……さて、言葉はどうするか」
そうなれば、真面目に赤子を育てるしかない。男は、赤子に教える言語について考えることにした。前述の通り、男は様々な土地で生きてきた。つまり、多種多様な言語を習得している。それ故に、赤子にどの言葉を教えるのかで悩んでいるのだ。無論、言葉を教えないという選択肢はない。意思疎通が出来ないと、命令することもままならないのだから。
「……この世界の公用語が分かればいいのだがな」
そう思い、男は部屋の奥からガラクタを掘り起こした。それは、川に流れていた紙くず。そこには掠れた文字が書かれている。これが恐らくこの世界の、少なくとも上流にある人里の公用語なのだろう。
「……平仮名か?」
そしてそれは、男にも見覚えがあった。とある世界にある極東の島国、そこで使用されている特殊な文字によく似ていた。
「……なら、日本語にするか」
幸い、その言葉は、男の第一言語だったこともある。読み書きも含めて、教えるに支障はない。
「どうせ、俺と会話できれば問題ないしな」
そういうわけで、男は赤子に、日本語で話しかけることにした。
◇◇◇
……それから男は、赤子に日本語で話しかけるようにした。大概は「大人しくしろ」だとか、「少し静かにしてくれ」だとか、苦情の類だったが。それでも、赤子は話しかけられて、嬉しそうにしていた。大人の心に触れて成長するという意味では、エルフも人間も変わらないのかもしれない。
「……だぁ?」
そして十歳になる頃には、赤子はある程度意味のある言葉を話せるようになっていた。この場合、「何してるの?」だろうか?
「……ん?」
その声を聞いて、男は作業を中断した。ペンを下ろして、赤子の元に歩み寄る。
「構って欲しいのか?」
「だあ!」
男の問いかけに、赤子は元気良く返事をする。それを見て、男は溜息混じりに、赤子を抱き上げる。
「ったく、仕方ないな」
男は赤子を連れて、小屋から出た。これから、森の中を散歩するのだ。
「今日は、西のほうまで行くか」
「だあ?」
赤子を育てるようになってから、森を散歩するのが男の日課になった。赤子のため、というわけではなく、外出すると彼女が大人しくなるからだ。
「西のほうには他の囚人もいるが、まあ、大丈夫だろう」
男は、森の住人を「囚人」と呼ぶ。それは自分についても同じだ。何故なら、森は罪深き者たちを閉じ込める牢獄なのだから。
「赤子を傷つければ、あいつらは消滅する。それが分かっているから、何もされはしないさ」
この森の住人は、罪を犯せない。罪を犯せば、この森から消え失せる。そして、もう二度と生まれてくることはない。
「とはいえ、あまり一人で出歩くなよ。……っと、お前はまだ無理か」
勿論、これらの心配も自身のため。赤子に何かあれば、自分も罪に問われる可能性があるから。……とはいえ、男も結構楽しそうではあったが。
◇◇◇
……更に二十年後。赤子は更に成長し、もう幼児と呼べるくらいになった。エルフの寿命は人間のおよそ十倍だから、成長速度も十分の一程度。彼女は三十歳なので、人間で言うと三歳児くらいか。
「ごしゅいんたまー。ないしてうの?」
エルフの幼児は、作業中の男に寄って来て、舌足らずな口調でそう話しかけてきた。今の台詞は「ご主人様ー。何してるの?」だろうか。
「研究だ」
「けんうー?」
幼児の言葉に、男はペンを握った手を止めず、ただそう返すだけだ。幼児の興味深そうな視線も無視して、ひたすら執筆に没頭している。
「おてうだい、すう?」
「今はいい」
幼児の申し出も断り、男は作業に集中する。というか、幼児では出来ることが限られているので、手を貸してもらおうにも出来ないのだ。
「わあった」
自分でもそれが分かっているのか、幼児は男の前から去っていく。そして彼女は、近くの川へと―――彼女が捨てられていたあの川へと、一人で遊びに行くのだった。
「きゃっ! きゃっ!」
川の縁に腰掛け、短い足で水を蹴っている幼児。それと同時に、彼女の髪も揺ら揺らと振られ、木々の合間から差し込んでくる日光で照らされている。
いかにエルフの成長が遅いといえど、さすがに三十年も生きていれば、髪も生え揃う。幼児は、煌びやかな銀髪を、腰に届くほどの長さまで伸ばしていた。その姿は正しく、森の妖精と謳われるエルフに相応しい、幻想的で美しいものだった。
「……」
しかし、水遊びに飽きたのか、幼児は足を止めた。そして立ち上がり、小屋に戻って行く。
「ごしゅいんたまー」
「何だ?」
幼児が小屋に戻ると、男は未だに、何かを紙に書き留めていた。
「ないか、おてうだいすうー」
「いらん」
それが何を意味するのか、幼児は知らない。だが、忙しそうだということは理解できた。だから手伝いを申し出たのだが、男にはにべもなく断られてしまった。
「おてうだいすうー!」
「……分かった」
しかし、幼児も譲らなかった。このままでは膠着状態に陥ると判断したのか、男は幼児に仕事を与えることにした。
「このバケツで川の水を汲んで来い」
男が取り出したのは、木製のバケツ。幼児の体より一回り小さいそれを彼女に渡して、水汲みを命じた。……って、それは無茶じゃないか? 幼児は人間だと三歳くらいだ。それなのに、このサイズのバケツで水を汲ませるなど、まともに出来るはずがない。
「わあったー」
けれども、幼児にはそんなこと関係ない。念願の仕事を手に入れ、嬉々として水汲みに出掛けた。……さて、どうなったのだろうか。
◇
「ひっく……ひっく……」
三十分後。全身ずぶ濡れになった幼児が戻ってきた。バケツを持っていないことも併せると、どうやら川に落ちたようだ。幸い、川は浅くて溺れなかったようだが、任務は果たせずバケツも失くしてしまった。そのせいか、嗚咽交じりで俯いている。
「……大丈夫か?」
そんな幼児に、男は気遣うように声を掛ける。どうせ出来ないだろうと思ってこの仕事を与えたのだが、まさかここまでになるとは思っていなかったようだ。
「ふ、ふぇぇーん……!」
しかし、幼児は耐え切れず、声を上げて泣き出してしまった。精神年齢も見た目通りなのだから、寧ろ今までよく我慢していたほうだろう。
「……泣くな。別に責めてはいない」
男は麻布のタオルを取り出すと、宥めるように幼児の体を拭いていく。特に、美しい銀髪は丁寧に拭いて、水気を取り除いていった。
「お前はまだ子供だ。無理をしなくていい。……俺も、少々無茶な注文をしてしまったしな」
奴隷相手でも、自分の非は認める。それはここへ来る前の、いや、彼女と出会う前の男にはなかったものだ。
「……ほんお? おぉってない?」
「ああ、怒ってない」
男の手つきは乱暴だったが、その分、本人も自覚していない何かが、幼児に伝わった。……ような気がした。
「……えへへっ」
何故なら、幼児は泣き止んで、目を細めながら笑っていたのだから。