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~「四百五十年目」~「四百七十年目」~「四百九十年目」~「五百年目」


  ◇◇◇



 ……五十年後。


「……ゴホッ、ゴホッ」

 ある日の昼頃。書類整理をしていた女性が、急に咳き込み始めた。

「大丈夫か?」

「は、はい……ゴホッ、ゴホッ」

 咳に苦しみながらも、女性は書類整理を続けた。……ここ数十年の間、女性の咳は少しずつ、しかし確実に酷くなっていた。それはつまり、彼女の体も少しずつ弱っているということだった。

「あまり無理はしなくていい。辛ければ休め」

「い、いえ、大丈夫ですから……ゴホッ、ゴホッ」

 心配する男の言葉を受けても、女性は頑なに作業を続行する。

「……」

 そんな彼女の、必死にも見える様子に、男はただ黙ることしかできなかった。



  ◇



「……ったく。そんなに労働が楽しいのかよ」

 その日の夜。男は小屋を抜け出し、真っ暗な森の中を歩いていた。……ここ数十年の間、男は女性に自室を譲り、夜は森を散歩していた。部屋を譲られたことに、女性は最初、困惑していた。だが、自分の調子がおかしいのは分かっていたし、主の命令でもあったので、渋々受け入れたのだ。

「……自分の寿命、分かっているんだろうか?」

 実は、エルフの女性は余命があまりない。……アルトの話によると、彼女の母親は人間なのだ。つまり、人間とエルフの間に生まれたハーフエルフ。千年の時を生きるエルフだが、ハーフエルフはその半分程度しか生きられない。要するに、現在四百五十歳の女性は、残り五十年ほどしか生きられないのだ。

「……全く。どうして俺が、奴隷に気を遣わなければならないんだ?」

 最近、男が女性にやたらと優しいのは、彼女の死期が近いからだ。アルトが彼女を一目見ただけで帰ったのも、彼が薄情だからではなく、その事実に耐えかねてのこと。

「……」

 いかに罪人といえども、また父親といえども、死期が近い者には慎重になってしまうのだった。



  ◇◇◇



 ……二十年後。


「……ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ」

 咳を必死に堪えながら、女性は本を読んでいた。……ここ十年ほどで、女性の体はみるみる弱っていった。もう長時間は立ち上がれず、奴隷としての役目を全うすることは出来なくなったのだ。

「……ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ」

 今はただ、養生のため床に就き、本を読むことしか出来ない。しかしそれですら、満足に行えないというのが、現状だ。

「……相変わらずだな」

「あ、ご主人様……ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ」

「無理せんでいい」

 そんな彼女の元へ、男が顔を見せに来た。彼の手には薬包紙―――調合した薬が入っている―――があるので、どうやら女性に薬を服用させるつもりのようだ。

「ほら、今日の分だ」

「は、はい……ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ」

 咳を必死に堪えながら、女性は薬を飲み込む。こうも咳が酷いと、薬を飲むだけでも大変そうだな。

「どうだ?」

「は、はい……どうにか、落ち着いてきました」

 薬を飲んだ直後は、女性の体調も一時的に快復する。尤も、数時間でまた元の木阿弥なのだが。

「その……本当に申し訳ないです」

「仕方ないさ。これも運命って奴だからな」

 女性の寿命があまり残されていないことは、既に女性に伝えてある。しかし彼女は、それを悲しむこともなく、ショックを受けるでもなく、ただ主の仕事を手伝えないことだけを悔やんでいた。それだけ、自分の役目に誇りを持っているのだろうか?

「……ご主人様」

「ん?」

 すると、女性が突然、改まったように呼びかけてきた。

「……このまま私が死んでも、どうか、悲しまないでください」

「……」

 女性が発した言葉に、男は呆気に取られたようだった。しかし女性は、彼に構わず続けた。

「私はただの奴隷です。ご主人様の奴隷です。……ですから、どうか、悲しまないでください。私如きの死で、ご主人様が苦しまれるのは、耐えられません」

「……安心しろ。お前のことなんて、ただの家畜程度にしか思っていない」

 女性の心を知らされ、聞かされた男は、そう答えた。……それが、女性の求める返答だと分かっていたからだ。

「……はい。そうしてください、ご主人様」

 彼の答えを聞いて、女性はホッとしたように微笑んだ。……これで、彼女の心残りは、なくなったのだろうか?



  ◇◇◇



 ……二十年後。


「……ご主人様?」

「喋るな」

 夕刻。ベッドに横たわる女性と、彼女の様子を見に来た男。女性が声を発したことに、男はただ小さくそう言った。

「……」

 主に命令されてしまえば、彼女に逆らう術はない。そもそも、女性はまともに喋れる状態ではないのだ。……既に、女性の喉は限界が来ている。肺の機能も低下し、痰を吐き出す気力も残されていない。会話など、本来ならば望むことすら叶わないのだ。

「お前は大人しく寝ていろ。……寿命とはいえ、まだまだ健康なんだ。無理さえしなければ、たまにはまともに喋れるようになる。それまで、無用なお喋りは控えろ」

「……」

 男にそう諭され、女性はこくりと頷く。……彼女は最早、喋ることも、起き上がることも、簡単には出来なくなっていたのだ。

「今日の分の薬だ。水がなくても飲めようにした。飲め」

「……」

 男の言葉に、女性は小さく口を開けた。男がそこに錠剤を放り込むと、女性はそれを口の中で溶かしていった。……もう、物を飲み込むほどの余力もないのだ。

「そうだ。それでいい」

 ……正直な話、こんな薬を使わなくても、女性を治す方法はいくらでもあった。だが、それらは禁忌に触れる可能性があるので、男は実践することが出来なかった。病気ではなく、寿命が原因なので、女性を助けるには寿命を延ばすしかない。だがそれは、禁術である「死者蘇生」と同じベクトルの魔術だ。それが罪になることも考慮すると、試すのは不可能だ。

「ちゃんと寝ているんだぞ?」

「……」

 女性が頷くのを確認して、男は部屋を出て行った。彼も暇ではないので、ずっと彼女に付き添っているわけにはいかないのだ。

「……」

 それを寂しいと感じながらも、受け入れることしか出来ない女性であった。



  ◇◇◇



 ……十年後。


「……ご主人様」

「喋るなと言っているだろ」

 あれから、女性は相変わらず―――否、緩やかに酷くなっていた。今だって、一言話す度に、残りの命を擦り減らしているのだ。

「……いえ、喋らせてください。……もしかしたら、もう、これで―――」

「……そうか」

 しかし、彼女は言葉を紡いだ。それが、男との最後になるかもしれないと悟ったからだ。

「……ご主人様。私は、ご主人様の奴隷になれて……幸せでした」

 女性の声はか細くて、今にも消えてしまいそうだった。それでも、彼女は確かに、主へ想いを伝えている。

「……私は、ご主人様に拾って頂かなければ、一人で無残に野垂れ死んでいました。……ですが、ご主人様は私を拾ってくださった。奴隷にしてくださった。それだけでも、私は感謝しても仕切れません」

 残された時間は僅かだ。故に彼女は、言葉を紡ぎ続ける。

「私の生きる意味であり、一番大切な人……それが、ご主人様です。―――今まで、ありがとうございました」

 主に対する想い。それは感謝であり、尊敬であり、敬愛であり、忠誠であり、そして愛であった。それを、彼女は伝える。

「……ああ」

 彼女の言葉に、男はそう、頷いたのだった。

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