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迷ったら月に聞け

迷ったら月に聞け・隣の世2~略奪の世

作者:

維心と維月にとって、娯楽と言えば皆の立ち合いを見ること、共に庭を散策すること、そしてたまに遠出して外の景色を眺めること…それぐらいしか、なかった。

それが、維心に献上される品の中で、隣の世と呼ばれる、人の世でいうパラレルワールドを見ることが出来る瑠璃色の玉を見つけてからは、それも、まるで映画でも見るような感覚でたまに見に行くのが娯楽になっていた。

中にはあまり嬉しくない展開の隣の世もあって、そんな時は維心がすぐに切り上げて帰って来てしまうので、維月は先が気になって仕方がなかった。なので、今日も瑠璃色の玉を前に、維月は言った。

「維心様、私、今回はひと段落するまで見とうございまする。」寝台の上で、維月は維心を見上げた。「どんな展開になって、どう落ち着くのか知らねば、中途半端で気になって仕方がありませぬの。前回は私が炎嘉様に嫁ぐと決まっただけでまだ嫁いでおりませんでしたのに、維心様は帰って来てしまわれたでしょう?もしかしたら、嫁がなかったかもしれないのに。」

維心は眉を寄せた。

「我は寸分たりともそんな未来は見とうない。嫁がなかったかもしれぬが、嫁いだかもしれぬだろうが。」

維月はぷいと横を向いた。

「まあ!見る勇気がおありにならなかったのですわね?では、ご自分が別のかたを娶るような世であったなら、どうなさるのですか?」

維心は眉を寄せた。

「有り得ぬと思うが、あったなら主と共になど見とうないし、戻る。」

維月はじっと維心を見た。

「…では、今回は私がイニシアティヴを取りまする。」

維心は眉をさらに寄せた。

「…主が先導するということか?」

維心は分からないながら言った。英語は分かるので、その意味から多分そうだろうということを考えたらしい。維月は頷いた。

「はい。たまにはよろしいでしょう?」

維心は考え込んだ。

「しかし…主は飲まれはせぬか。それが現実だと思うてしまったら、戻って来れぬぞ。」

維月は少し自信が揺らいだが、頷いた。

「きっと大丈夫ですわ。」

維心は訝しげに維月を見たが、頷いた。

「仕方がないの。では、この玉を見て、念を込めるが良い。我の手を取れ。」

維月は頷いて、維心の手を握った。そして、自分のもう一つの手の平の上にそれを浮かべると、隣の世を見せて、と玉に願った。それが光ったのを見て、維月の意識は他のものへと飲まれて行った。



そこは、どうも美月の里の屋敷のようだった。

維月は屋敷の一室に座り、人の世の本を読んでいた。侍女が入って来て、維月に言った。

「維月様、お茶が入りましてございます。」

維月は振り返った。

「まあありがとう、奈都(なつ)。こんなに遅くまでいいのに…あなたももう、休みなさい。」

奈都と呼ばれたその侍女は微笑んだ。

「はい。維月様…今日も、神の宮から、維月様に縁談が来ておりましたわ。」

維月はため息を付いて、本を閉じた。

「本当に…私自身をというよりも、月をと思っているのよ、皆。月の加護が欲しいから、勢力を拡大したいから、神の世で優位に立ちたいから…。そんな理由で私を妃にって言う訳なの。私、そういうの嫌だし。だいたい、元々人だった私が、神の王妃なんてなれる訳ないじゃないの。ここで子達と静かに暮らしたいの。蒼だって、やっとこの回りの小さな宮の王達と仲良くなったばっかりなのに。大きな宮とお付き合いなんて、そんな気の揉めることさせたくないわ。」

奈都は苦笑した。

「はい…。」

奈都はそうは言ったが、心配だった。奈都は、近くの宮から志願してここへ移って来た侍女だった。他にも何人か侍女は居たが、皆ここを気に入っていた。神の王族のように口うるさくもなく、維月も神の女のように気位も高くなく、とても優しく気遣ってくれる。ここに居ると、まるで家族になったように思えて、奈都は楽しかった。なので、神の世に明るい、生まれた時から神の奈都は、維月に言った。

「維月様…神の世には、略奪があることを知っておられますか?」

維月はきょとんとした。

「なあに?何か取りに来るの?何もないけど、この宮には。」

奈都は首を振った。

「略奪婚が、まだ主流でありまする。神の女は、本当に己の身を守る為に、先に誰かに縁付かなければと、一生懸命でありまする。顔も知らないような、どこの誰とも知らないような神にさらわれて結婚などはイヤでありまするから、皆そうやって、探しますの。そうすると、その夫が自分を守ってくれまするゆえ。」

維月は口を押えた。

「まあ…。確かに法律なんて関係のなさそうな世ですものね。完全な力社会で…。」

奈都は頷いた。

「はい。ですので、あまりにすげなくなされておられたら、どこかの宮の王が維月様をさらいに参るかもしれませぬ。ですので、そこそこで手を打たれたほうが良いのではないかなあと、我は最近思いまする。」

維月は考え込むような顔をして、奈都を見た。

「知らなかったわ…まさか、そんなことが有りえるなんて。そうよね。人の世とは違うものね。気を付けよう…。でも、そこそこってどの辺り?顔も見た事ないのに、手を打つなんて出来ないわよね。政略結婚なんて嫌だなあ。」

奈都は、身を乗り出した。

「我なら、きっと申し出られた中で一番大きな宮の、一番力の強い神を選びまするわ。安心して生活できまするし、それに、きっと他にも妃がたくさん居られるだろうから、自分をしょっちゅう構うこともないだろうし、自由にできまする。好きでもない殿方と、そんなにしょっちゅう褥を共になんて、嫌でありますでしょう?」

維月は身震いした。

「まあ、嫌だわ!でも、私ってそんな神の女のように美人でもないし、大丈夫よね。政略結婚だったら、寄って来ることもないだろうし。そうねえ。権力かあ…。でも、結婚には夢を持ちたいわ…私、愛するかたに嫁ぎたいなあ。この歳になって可笑しいかもだけど。」

奈都は首を振った。

「維月様はまだ成人なさっていないお歳でありまする。人の世では成人されておったのでしょうけれど。」

維月は苦笑した。

「そうね…。」と、月を見上げた。「さ、もう休むわ。おやすみ、奈都。」

奈都は頭を下げた。

「おやすみなさいませ、維月様。」

奈都は下がって行った。

維月は一人、ため息を付いて空を見上げたのだった。


龍の宮では、会合の間で臣下達と軍神達が居並ぶ中、王の維心は眉を寄せていた。重臣筆頭の洪が言った。

「…ゆゆしき事態でありまする。」洪は緊迫した声で言った。「鳥の宮を調べて参った者の報告で、炎嘉様が月の宮からの縁談の断りを受けて、それではと虎の宮の皇女を妃に迎え入れることを決められたとのこと。これであちらの勢力はまた上がり、そして我らの領地の南側から西側に掛けてを囲む形になり申した。その上、尚も月の宮へは使者を送って食い下がっておるとのこと。この上月の宮からも承諾を取り付けでもしたら、あちらが神世で随一の力を持つ宮となりまする。月にあちら側に回られたら、我ら鳥の前になす術もありませぬ。」

同じ重臣の兆加が続けて言った。

「月の宮へは我らも王の妃にと縁談を持って参っておりまするが、あちらは全く取り合う様子もなく…おそらく、炎嘉様も然りでありましょうが、油断はなりませぬ。炎嘉様はとても行動力のあられる神であるので、しばらくは、虎の宮の皇女の手前、おとなしくなさっておられるでしょうが、力を手にできるとあっては、軍を起こされるやもしれませぬ。月の宮は、軍などはない小さな宮。月の力が強大なだけで、入り込むのは容易でありまする。急襲して月の維月様をさらって参るのは、簡単なことでありましょう。おそらく最終的には、炎嘉様はそのように動かれると思われまする。」

維心は、黙っている。義心が、膝を付いたまま言った。

「…王。月の宮の地形は把握致しておりまする。本日は月の王は近隣の宮へ出掛けておって留守とのこと。我ら、恐らく数人で気取られないように近くまで行き、さらって参る事も可能であるかと。万が一を考えて、王にご同行願うかと思いまするが…。」

維心は険しい顔で言った。

「…略奪して参れと申すか。」

洪を始め、臣下達は頭を下げた。

「どうか王、ご決断くださいませ。このままでは世の安定が崩れまする。我ら、王に頼ってここまで参っておりまするが、王お一人に戦って頂く訳にも行きませず…できれば、平和裏に事を収めたいのでありまする。」

頭を下げる皆を前に、維心はスッと立ち上がった。

「…参る。」

皆がホッとしたかのように頭を下げ直した。

「ははー!」

侍女達が慌てて甲冑を持って入って来る。維心は依然険しい顔のまま、甲冑を身に付けると、義心達数人の軍神のみを連れて、月の宮へと飛び立った。


月の宮は、人の屋敷を大きくしたようなこじんまりとした形の宮だった。今日は曇り空で月は見えない。しかし、ここは確かに月の気がする宮だった。

「…奥の、左側。」義心が、小声で言って指した。「あの対に維月様のお部屋があると思われます。王はそこから一つ空けて右側の対に居る様子。王は月の力を操るのだそうですが、月の命を継いでいる維月様はまた違った種類の月の力だそうで、王よりは遥かに弱い力であると聞いておりまする。」

維心は頷いた。

「他は興味はない。左側の対へ参る。」

義心は頭を下げると、他の軍神達に合図し、維心について維月の居る対へと降りて行った。


奈都が、休もうと思って夜具に身を包んで回廊を歩いていると、空を何かが横切った。なんだろうと目を凝らしていると、五人ほどの軍神らしき出で立ちの男が中庭に降り立ち、回りを見回している。奈都は咄嗟に思った…維月様を、狙って来たのだわ!

奈都は急いで走った。早く、逃がさなければ!

「維月様!」奈都は部屋に飛び込んだ。「早く、早くお逃げください!」

維月はびっくりして、慌てて起き上がって袿を羽織った。

「何?!奈都、どうしたの?!」

奈都は維月を引っ張って部屋から連れ出した。

「龍でありまする!あの気は龍でありました!維月様を狙って、そこまで来ておりまする!誰もあのように戦慣れした軍神達には太刀打ちできませぬ!お早く!その気を隠してくださいませ!」

維月は訳が分からないながらも、奈都に言われるまま、必死に走った。自分の対の向こう側から、叫び声が聞こえる…まさか、殺されたのでは?!

「奈都!まさか殺されて…、」

奈都は首を振った。

「あの気は、気を失っただけでありまする!」と、奈都は後ろを見た。「お早く!私はここで何とか抑えまするゆえに!維月様が逃げなければならないのでありまする!決して気を解放なされてはいけませぬ!」

維月は頷いて、走った。宮の後ろの森へと駆け込むと、低く飛んで木々の間を隠れるように縫って抜けながら、必死に離れようとした。しばらく行って、疲れて一度降りると、後ろから大きな気が追って来ているような気がした。

休んでいる暇はないわ。

維月は先へとまた低空を必死に飛んだ。不意に、ガサガサと回りの木々が揺れたかと思うと、何かが維月を後ろからがっつりと抱えた。維月は持ち上げられて、宙へ舞い上がった。

「きゃあ!」

維月は悲鳴を上げた。掴んでいる相手は、低い声で言った。

「…戻る。」

瞬時に回りを囲んだ四人ほどの軍神達が頭を下げ、一気に空高く飛び上がった。

連れ去られる!

維月は咄嗟に暴れた。

「嫌っ!離して!私はどこにも行かないわ!」

相手の不機嫌な声が言った。

「おとなしくせぬか!」

「うるさいわね!誰が黙って連れて行かれると思ってるのよ!」

維月は必死にじたばたと暴れて、虚を突かれたのか相手の手が緩んで、維月は落ちた。

「きゃ…!」

維月は飛べるのだからなんとかしようと必死に体勢を立て直して、地上すれすれで横へと逸れて飛んだ。とにかくここを離れて飛ばなければ…!

「王!」

義心が叫ぶ。維心は舌打ちをした。何と扱いづらい女よ。あんな女は見たことがない。

維心はスッと急降下をして追い付くと、維月の前に舞い降りた。

維月は驚いて踵を返そうとし、維心は維月に向かって小さく気を放った。

「う…。」

維月はその気を受けて気を失うと、ふらふらと落ちた。維心はそれを受け止めてまた小脇に抱えると、義心に言った。

「…こんな気の強い女は見たことがないわ。ほんに手間のかかる事よ。」

義心は何と言っていいのか分からず、ただ頭を下げた。王に向かってうるさいと言っていた…。これが我が王の妃になるとは…。

維心は龍の宮へ向けて飛んで行く。

義心達はそれに付いて飛んで行った。


「連れて参った。」

維心は、維月を傍の寝椅子に放って寝かせた。侍女達が慌てて駆け寄って来て、気で椅子ごと持ち上げると気を失っている維月を連れて奥へと入って行く。洪が頭を下げた。

「王、これで妃にお迎え頂きましたら、月の宮との婚姻が成立致しまする。」

維心は不機嫌に頷いた。

「わかった。」

維心は、とてもそんな気にはなれなかった。あの女は、我に向かってうるさいと叫んだ。しかも暴れて我から逃れようと、女の身で抗うとは…今まで、我がどれほどに煙たがろうが、寄って来て面倒だった女が。あの女は、うるさいと。

とにかく、一夜でも通えばそれでいいのであるから、さっさと済ませてしまうとしよう。

維心は、そう思ってため息を付いた。略奪してまで、手に入れようとは思わなんだのに…月でなければこんな面倒もなかった。

維心はただただ、気が重かった。


維月はハッとして起き上がった。見たことも無い部屋…ここは、どこ?

掛け布団を避けて寝台から降り立つと、暗い窓に映る自分の姿に驚いた。きれいに化粧され、髪を結い上げられて、しかも何やら良い着物を着せられている。そして、思い出した…もしかして、私は龍に連れ去られて、ここに?奈都が言っていた、略奪婚の相手に?

回りには誰も居ない。維月は思った。冗談じゃないわ!見たこともない神にいきなり妻にされるなんて…しかも政略で…有りえない!私は神の女みたいにきれいじゃないし、愛されるなんて考えたこともないし、とにかく、神様は無理!ほんとやめて、人だったって言ってるのに~!

維月はそっと、そこの窓から庭の方へと抜け出した。

逃げられるかしら…でも、龍って怖そうだから、逃げたりして蒼に何かあったりしたらどうしよう。

維月はそう思いながらも、とにかく外へと庭を地上から数センチ浮いた状態で飛んで進んで行った。

維心が、洪と向き合って話していて、眉を寄せたかと思うと額に手を置いた。

「…ほんに…あれを妃に迎えねばならぬか。」

洪は不思議そうに維心を見た。

「なんとおっしゃいましたでしょうか?」

維心は立ち上がった。

「庭へと抜け出しておるわ。ほんに、何度捕えても逃げ出そうとしよる。義心!」

義心が飛んで来て膝を付いた。

「御前に、王。」

「維月を連れ戻せ。南の庭ぞ。」

義心は頷いた。

「は!」

義心が出て行く。維心は踵を返して居間へと向かいながら言った。

「…我はそのつもりでも、あやつはおとなしく我の妃にはならぬであろうぞ、洪。普通の神の女ではない。」

去って行く維心の背を、洪は不安でいっぱいになりながら見つめていた。


維月の目の前に、軍神が舞い降りた。

「きゃあ!」

維月は驚いて逃げようとした。義心は言った。

「維月様。」義心は、慎重に膝を付いて言った。「我は義心と申しまする。いきなりにこのようなことになって、驚かれて混乱なされているのは分かり申すが、お戻りにならねばなりませぬ。王が、お待ちでございますので。」

維月は、恐る恐る振り返った。

「義心…?」

「はい。」義心は頷いた。「この宮の筆頭軍神でありまする。」

維月は義心に向き直った。

「義心、私は元は人であるの。だから、こんな神の世のオーダナリティな略奪婚とか絶対に無理なの。人の世には無いんだもの。誘拐よ?人の世では罰せられる行為なのよ。」

義心は頷いた。そう言えば聞いたことがある。だが、ここは神の世であるし。

「維月様、しかしここは神の世。もう、人ではあられないのですから、観念なさってくださいませ。」

維月は義心に背を向けた。

「無理だわ。私、あなた達の王のお顔も知らないのよ?あちらだって私を妃になんて嫌だと思うわ。なのに、きっと政略だなんだって、あなた達が勧めたのでしょう?違う?絶対に私が好きで妃になんて思っていらっしゃらないと思うのよね。」

義心はう、と詰まった。いちいち的を得ている。なんてはっきりとものを言うのだろう。月はこうなのだろうか。

「…しかし、王族の結婚は臣下が決めるものでありましょう。」

維月は首を振った。

「まあ!なんてことを言うのかしら。あのね、王様だって生きてるし、感情があるのよ。好きでもない女

を連れて来てこれも妃にあれも妃になんて言われたら、絶対嫌だと思う。嫌なら結婚しなくてもいいじゃないの。好きなら別に誰と結婚してもいいじゃないの。何が悪いのかしら。王様を物みたいに思っているんじゃない?私だって人形みたいに、月の力が欲しいから自分達の王と婚姻をなんて言われても、心は動かないわ。あなたが好きだから結婚してくださいなら、考えるかもだけど。これっぽっちも想ってくださっていない方と婚姻なんて、絶対に、嫌!」

義心は困った。どうしたらおとなしく、王のお部屋へ行ってくれるのだろう。なんだか、段々と離れて行くような気がする…。

「…主の言う通りよ。」後ろから声が飛んで、義心はびっくりして振り返った。維心が立っていた。「王であっても感情はある。我はここに至るまで一人の妃も娶らず来たものを、此度の状況は目に余るゆえに、仕方なくこうして主を娶ることにしたのであるからな。なので主の言うように、我に愛情などない。あくまで仕方がないからであるのだ。」

維月はほら、という顔をした。なぜか嬉しそうだ。

「言った通りでしょう?だから、こんな婚姻はイヤ。私、ここから出してもらえないなら、その辺で寝るわ。別に木の根元でもいいし…木が話してくれるから、寂しくもないし。ですから、私はこれで。」

維月は維心に頭を下げると、傍の大きな杉に向かって歩き出した。木と話すのか…義心が感心していると、維心が言った。

「…では、我もそこでという事になるの。何が何でも主が妃になったと言わねばならぬ。我ら、それほどに切迫しておるのでな。とにかく今夜は共に過ごす義務があるのだ。一緒であれば、別に何も無くても良いであろう。とにかく、共に過ごさねばならぬ。」

維月は、眉を寄せた。

「でも、それで婚姻が成立してしまうのではありませぬか?」

維心は頷いた。

「その通りよ。それが目的であるからの。」

「嫌です!」維月は力いっぱい言った。「愛情が無いって言ってる相手と、どうして結婚しなきゃならないの?あちらへいらしてくださいませ!ええっと…、」

維月は、この王の名を知らなかったと思った。相手は言った。

「維心。」

「…維心様。」維月は続けた。「維心様も、確かに愛情を掛けた相手とご結婚なさってくださいませ。」

維月は、歩いて杉の方へ向かった。義心は呆気にとられて維心を見上げた。維心はため息を付いた。

「前途多難であるの。しかし、婚姻だけは成立させねばならぬ。」

維心は、維月を追って歩いて行った。

義心はそれを気遣わしげに見送った。


杉がざわざわと揺れる。

維月は、頷いた。

「…そうなの。でも私、そんなつもりはないから…。ここに居させて?」

また、杉がざわざわと揺れた。維月は下を向いた。

「違うの。あのかたは私を愛してなんていないのよ。臣下達が言うから仕方なしって感じ。思えばさっき会ったばっかりだし、それに、私名前も知らなかったのよ?好きとか嫌いとか以前の問題よ。だって知らないんだもの。神の世って酷いわね。私、やっぱりあの時死んでればよかった。」

維月はしゃがみこんだ。杉の声が言う。

《それでも主は生きておるのだから。もっと知り合ってはどうか?我はあれが子供の頃から知っておる…主があれの話相手になるなら良いと思うの…。》

維月は下を向いたままだった。

「…好きになったら、きっと辛いだけよ。神様なんて、好きにならないの。私は人だった。だから、神様は私のことなんか珍しいだけだもの。愛してなんてくれない。そんな神を好きになったら、愛されなくて辛いでしょう?」と、月を見上げた。「どうして月は、私の命を戻したのかしらね…月にしてまで…。」

《また主も複雑よの。しかし、辛いのは己だけではないのだと知ることぞ。孤独とはの、誰の心にも住んでおるのだぞ。》

「…杉…。」

維月が言うと、後ろから、維心の声がした。

「本当に杉と話しておるか?」

維月は振り返った。

「維心様…。」維月は言って、頷いた。「はい。この杉が一番物知りっぽかったから。でも知り過ぎていて、なんでもずばりと当てられちゃうから、反ってつらかったかも。」

維心はフッと笑った。

「ほう?主のような女にも、悩みはあると申すか。」

維月はまあ!という顔をした。

「もちろんよ!私は穏やかに暮らしたいだけなのに、誰もかれも私を妃にと言って放って置いてくれないし。」と、ため息を付いた。「挙句の果てには、こうやってさらわれてしまったし…。相手は愛情ないとかはっきり言ってる神だし。最悪じゃないかしら?こういうのって。」

維心は顔をしかめた。

「維月よ、別に嫌いと申しておるのではないであろうが。むしろ、我は女は嫌いであったが、主はあまりにも清々しいので好ましいと思うておるぞ。別に無理をしておるのではなく、本心であるがの。」

維月は怪訝な顔をして維心を見た。

「…神は嘘をつかないって聞いているから、分かるけれども。私は、維心様のお姿は好きですわ。まだ中身まで知らないから、中身は言いようがありませぬけど。それに、龍って偉いんですの?私はまだ、神の世の力関係まで知らないのです。」

維心はびっくりした。そんなことを聞かれたことが無かったからだ。

「…偉いと申せばそうなのかもしれぬが、我らは数が多く、そして気の強い者が多い種族。鳥と二分している勢力で、世では二大勢力と言われておるの。」

維月はふーんという顔をした。

「じゃあ、炎嘉様があれほどに私に強く妃に妃にって言って来るのにも、訳があったのですわね。鳥は、世を手中に収めようとしておるのでありますか?」

維心はびっくりした。案外に、頭の回転が速い。

「そうだ。我らが急いだのも、そのせいであるのよ。炎嘉が、虎の宮の皇女を妃に迎えることになったのは知っておるか?」

維月は首を振った。

「いいえ。では、炎嘉様は龍の宮の回りを押さえてしまおうとなさっているのですね。」

維月はすんなりと言った。維心は、女でこれほどに頭の回転が速いのを初めて見た。神の女は、そんなことは知らないからだ。

「そうだ。そのうえに主を略奪するだろうと、こちらでは見ていた。ゆえに、主を先に連れて参ったわけだ。力の均衡を崩す訳には行かぬ…戦になろう。」

維月は黙って下を向いた。維心は、王としてしなければならないことをした。誰も好きで人さらいになどならないであろう。維月は、じっと維心を見上げた。

「…では、維心様は、王として、しなければならないことをなさったのですわね。」

維心は頷いた。

「その通りだ。我には臣下達を守る義務がある。主まで炎嘉に渡す訳には行かぬのだ。」と、維心は、座っている維月の前に膝を付いた。「のう維月、お互いに知り合って行こうではないか。我ら、まだ出逢ったばかりではあるが、しかし我は少なくともこうして話しているだけで、主のことを好ましく思った。主は他の神の女とは明らかに違う。こうして知り合って参れば、もしかしてお互いに愛情を感じる時が来るやもしれぬ。今は世を助けると思うて、我と夫婦になろうぞ。」

維月はじっと維心を見つめていたが、頷いた。戦になるなど、避けなければならない。だから、私は龍の妃にならなければならない…。

維心は満足げに手を差し出した。

「さあ、では参ろう。」

維月はためらった。

「でも、今夜いきなり褥を共になんて無理でございまする。だって、会ったばかりでありまするし。とりあえずこのままここで朝を迎えて、婚姻を成立させるのでよろしいでしょうか…。」

維心はびっくりしたような顔をした。今まで、どんなに追い出そうと寝室に忍んで来る女が後を絶たなくて、ついには斬るとまで宣言してやっと来なくなったというのに…維月は嫌だと申すのか。

「…我は、それほどまでに嫌われたのであるか。」

維月は驚いたような顔をした。

「え?嫌う以前の問題として、本日会ったばかりでありまするのよ?しかも、最悪の出会い方でありまする。さらわれたのでありまするから。」

維心は下を向いた。

「…確かにそうであるが…。」

維月はため息を付いた。

「維心様、時間はありまする。本日はこのまま、お話して過ごしましょう。」

維心は、維月を見た。

「主、しかしそうやって気を抑えて隠したままではないか。そんな他人行儀のままで、分かりあえると申すか。」

維月は困った。

「…私の気は少し変わっておりまして…初めて会った殿方からは隠しておりまする。皆がそうしろと申すので。でも、長く抑えていると、その反動が強くなるので、小出しにして…、」

維月が説明していると、維心は更に言った。

「我は主の夫になるのだ。本日共に奥の間へ参らぬと申すなら、せめてそれぐらいは良いであろうが。」

維月はグッと詰まったが、渋々頷いた。

「…分かりましたわ。でも、大丈夫かしら…。」

維心はチラッと維月を見た。

「何のことだ?」

維月は頷いた。

「そうね、夫になられるというのなら、普段から慣れて頂かなければ。私も、この気を抑えるのにとても苦労しますから。普通に生活したいですものね。」と、気を解放した。「さあ、これが私の気でありまするわ。」

維月から、感じたことのない気が湧きあがって維心を包み込んだ。その気は甘く、癒すような乞うような、それでいて押しつけがましくなく、薄れて行くと追って行きたくなるような気だった。

維心はふら付いた。既に座っていたので、手を付いて支えたが、その気にあてられて酔うようだった。

「…維心様?」維月は、気遣わしげに維心を見た。「大丈夫でありまするか?侍女に、絶対にこの気は神の殿方の前では解放してはならぬと言われておって…私は、殿方に会うことはなかったのですけれど、その言いつけを守っておったのですわ。ですから、どうなるのか分からなくて…。」

維心は、思わず維月を抱き寄せた。見つめていると、胸の奥が熱くなってこの胸に抱き寄せたくなる…。そのような、気…。

「…維月…。」

維月は、驚いてジタバタとした。

「え、ちょっとお待ちくださいませ!まだ、私達は…」

「我らは今日、夫婦になるのだ。」維心は言った。「事実はそうでないとは言っても、世間的には認められるのであるぞ。これぐらいは、良いであろう…。」

それって、ただのスケベ心じゃないの?

「駄目です!私は愛するかたでなければ、身に触れるのを許しませぬゆえに!維心様だって、私のことを愛してないとか言いながら、どうしてこのようなことだけはするのでございまするか?信じられない!」

維月はスッと維心から身を離すと、さらに庭の奥の方へ向かって飛んで行った。維心は慌てて追い掛けた。

「そうではない!維月、我は…!」

維心は維月を追って飛びながら、言いよどんだ。我は。いったい、何を言いたいのだ。愛している…?まさか、そんなはずはない…。

「ついていらっしゃらないで!」

維月はあの気の残照を残しながら飛んで行く。維心は思った…維月は、もしかして我のために現れたのではないのか…。もしかして、我は維月を想い始めているのではないのか…。

そんな心も知らず、維月は先へ先へと飛んで行ったのだった。


結局、奥の滝の近くで朝まで話し、明けて来て維月がうつらうつらし始めたので、それを抱き上げて、維心は奥の間に維月を連れて入った。

袿を脱がせて寝台に寝かせ、自分もその横に身を横たえると、維月の気が、眠っていても維心を包んで離さなかった。

我を忘れそうになる…。

維心は眠る維月に、そっと唇を寄せた。途端にその気がもろに自分に向かって纏わりつき、維心は我を忘れて、夢中になって維月のに口付けた。維月はびっくりして目を覚ました。

「維、維心様…!」

「維月…。」

維心は維月に覆いかぶさって首筋に顔をうずめた。維心はジタバタと暴れて維心を押した。

「…おやめくださいませ!昨夜約束したではありませぬか…愛されても居ないかたに、このようなことされたくありませぬ!」

維心は顔を上げた。

「…では、愛していると言ったら?」維月が驚いて絶句した。「我は主を昨夜初めて話して知った。なので、恐らくこれが愛情であるのかと…」

維月はぶんぶんと首を振った。

「きっと勘違いでありまする!こんなに人である私を、神の王の維心様が…!」

維心は、真剣な顔をした。

「では、我の心を見よ。」維心は、もう一度唇を寄せた。「心を繋ぐのだ。さすれば見える。偽りなど見えぬ…心であるのだから。」

唇が触れると、維心から、どっと記憶の放流が押し寄せて来た。維心の生い立ち…維心の歩いて来た道…。全てがまるで走馬灯のように、維月の心に一瞬にして浸透して来た。そして、維心のほうにも自分の心が見えているのが分かった。維月は恥ずかしくて死にそうだった…人だったって言ってるのに!私、褒められた生き方して来なかったのに…。

維心の心が、維月に見えた。維心は、真っ暗でまるで闇のような中を、ただ一族を守ることだけを考えて生きて来た。心は氷付いたように冷たかった…誰も入り込むことの出来ないその暗く冷たい心に、自分が一筋、まるでレザービームのように差し込んで来た…なんて明るい光。目映くて、眩しすぎて、どうしたらいいのか分からない…。維心の心が、まるで解けて行くような…。

維月はハッとして目を開けた。目の前で、維心が自分を見つめている。維心は言った。

「…主は、人として一度死んだのだな。」維心は、ひたすらに維月を見つめた。「そして月に呼び戻されて、その命を宿した。だから、月になったのか。なんと潔い生き方をしておったものか。だから主は、あのように諦めずに逃げ回ったのか…主は芯が強いの。だから、見た事もないような女だと思ったのであるな…。」

維月は頷いた。急に胸が詰まって、言葉が出なかったのだ。維心は、今まで本当に一人だった。生まれ出る時に母上を殺してしまったことを悔やみ、でも、それは維心のせいではないのに…父上を恨んで殺し、そして若くして王座に就いて、長く一族を守って、ただ、闇の中を…。

「私…私なんかが、どうして維心様の心に光になっておるのですか?」維月は涙を流しながら言った。「まだ会ったばかりで、好き勝手言って、困らせてばかりで、呆れておられるとばかり思っていたのに。」

維心は苦笑した。

「なぜであろうの。我にも分からぬ。しかし、昨夜から主に惹かれてならぬ。主が何を言っておってもどうしたことか我には慕わしく感じてしまう。これが愛情なのではないかと、我は思うて…」と、維月をじっと思い詰めたような目で見た。「こうして身を重ねたいとまで、思うてしまう…。我は、今までそんな欲求などは皆無であった。心を見て知っておろう…我には、何もなかったのだ。」

維月は、頷いた。維心という神を、誤解していた。ただの神ではなかった。神の王で、力があるゆえに皆に頼られて、それに応えなければと、そればかりを考えて…。

「私なんか、とても我がままで人なのに。」維月は、維心の頬に触れた。「こんな私で、本当に良いのですか…?」

維心は、その手を握って、頬を擦り寄せた。

「良い。我の為に主が現れたような気がしてならないのだ。維月…真に夫婦になろうぞ。我が妃に。今すぐに…。」

維心の目は、真剣だった。維月は微笑んだ。

「まあ、維心様ったら…私も、昨夜会ったばかりで、しかもさらわれたというのに、どうしたことかしら。」維月は泣きながら笑っていた。「維心様…でも、私人だったし、浮気は許しませぬ。」

維心はびっくりしたように維月を見た。

「浮気とは?他に女をということか。有り得ぬ。何しろ、我はこの1600年も一人で来たからの…主のような女、探して見つかるものでもないであろうが。」

維月は少し意地悪く言った。

「あら。では、見つかったらどうなさいまするか?」

維心は困ったように維月を見た。

「維月…我は主の他に妃は娶らぬ。約す。違えたら…」

「…出て参りまする。」維月が続けると、維心が驚いて目を丸くした。「人の世では、そうですの。私は維心様だけを愛して参りまするから、維心様も私を愛してくださいませ。でも、他を愛されたなら…私は用済みですので、出て参りまする。」

維心はその言葉を、肝に銘じた。維月を失いたくなければ、絶対に他を娶る話は受けてはならぬ…。

「…わかった。」維心は、決心したように頷いた。「必ず我は主一人を守る。維月…良いか?」

維心の鼓動が早鐘のようなのが分かった。維月も急にドキドキした。維心様…記憶の中では、こんなことしたこと、なかったけれど、大丈夫なのかな…。

維月は、頷いた。維心は嬉しそうに微笑んだ。その笑顔があまりに幸せそうだったので、維月は自分まで嬉しくなった。

維心が、ぎこちなく維月の腰ひもを解く。

維月は、黙って維心に身を委ねたのだった。


そんなこんなで、結局朝になってやっと寝台に入ったので、起き出したのは昼どころか夕方だった。

維月は散々に疲れてしまって、まだ寝ていた。維心がふらふらと出て来て、居間の椅子に腰掛けると、洪が待ってましたとばかりに飛んで来た。

「王!あまりに長い間出て来られぬので、どうしたものかと思うておりましたが…。」と、回りを見た。「はて、維月様は?」

「まだ寝ておる。」維心は怠そうに言った。「我の妃が決まったと近隣に告示せよ。妃の部屋を我の裏手に設えよ。それから、妃の着物を仕立てさせるゆえ、明日の朝妃が出て参ったら選ばせるように、ここへ反物を揃えておくように申せ。」

洪はためらいがちに頭を下げた。

「はは!」と、目を上げた。「王、して、昨夜はあの維月様をどうやって説き伏せられたのでありまするか?」

維心は手を振った。

「別に何も。ただ、朝まで話しておっただけのこと。朝になって、やっと妃になってくれると承諾してくれたがゆえ、我は妃に迎えたのであるが、そのためにこんな時間になってしもうたのだ。」と、維心はまた立ち上がった。「では、さよう手配せよ。維月が目を覚ますかもしれぬゆえ、我は奥へ戻る。」

洪は頭を下げた。それにしても王が、あのように女を気遣うとは…嫌々妃になされたのではなかったか。それを、王のお部屋の裏手に部屋を設えさせるとは、どうしたことだろう。しかも着物を作らせよとは…そんなことにお気が回るかたではなかったのに。

洪は訳が分からなかったが、とにかく王の初めての妃であるのだからと、大切にしなければと心に決めた。


維月が出て来たのは、星が出て来た頃であった。

このままでは昼夜逆転してしまう…維月は今晩寝なくて明日も一日起きているか、それとも今晩無理矢理に眠るか、難しい選択をしなければならなかった。

維心が、気遣わしげに維月を見た。

「維月…すまぬ。つい、我は、あのようなことは初めてであったので、我を忘れてしもうて…。」

維月は苦笑した。確かに死ぬかと思った。でも、死ななかったから良しとしよう。

「大丈夫でありまする。このように私は回復しておりまするし。維心様こそ、ご無理をなさったのではありませぬか…?」

維心は、首を振った。

「目覚めた時は大層気を失っておったが、今は大丈夫よ。」と、維心は、維月を抱き寄せた。「維月…我が妃よ。月の宮にも、使いを出させた。蒼殿より、返事が参った…蒼殿は、神世のことをよく知っておられる。まずはめでたい事と言って参った…我も、婚姻が成立してからであるが、このような形であったので、結納の品を後から持って参らねばならぬのでの。」

維月はびっくりした。そんなに正式にするのね。

「維心様…本当に夫婦でありまするのね…。」

維心は眉を上げた。

「何を申す。今朝から散々に…、」

維月は慌てて遮った。

「はい、分かっておりまする。でも、なかなかに実感するようなことがありませぬので…。」

維心は頷いた。

「突然のことであったゆえの。我とて、このような心持ちになるなど考えてもみなんだ。それでの、我の北の領地を譲って、そこへ宮を建てる。守りを固くして、もっと月の宮は大きくせねばならぬ。我の軍神も駐在させるゆえに。維月、それを我からの結納の品とする。」

維月は仰天した。それって土地に宮を建てて、そのままあげるってことよね!そんなの…。

「維心様!そのように大層なお品でなくとも、私の価値など…何しろ私は、何も持って来ておらぬのですから。」

維心は首を振った。

「もう決めた。蒼殿には知らせてある。主をもらい受けるのであるから、それぐらいはせねばならぬ。臣下に申し付けてあるゆえに、宮の間取りは蒼殿が良いように決めればよい。」

維月は呆気に取られた。もしかして…もしかして維心様は、力のある王だったっけ…。私ったら、このかたに言いたい放題、最初の日はどれほどに失礼をしたことか。維月は急にしょぼんとして下を向いた。維心は驚いて維月を見た。

「どうした?不服であるか?もう少し領地を広げた方が…」

維月は、首を振った。

「違いまする。維心様…私は、維心様に大変に失礼ばかり申しておりました。あの、昨夜のことですけれど。あ、今朝もでありまする。」

維心は思い出して、フッと笑った。

「良い。今更であろう。我はの、あのように歯に衣着せぬ主の言葉を聞いて、良かったと思うておるのだ。あのようにはっきりと我に物を言った者は、男でも居らぬ。主は貴重よの。」

維月はしゅんとした。

「なんだかお恥ずかしい所ばかり見せてしまって…。」

維心を愛し始めて、維月はなんだか恥ずかしくなってしまった。どうしてあんなにガンガン言ってしまったのかしら…。今更、神の女っぽくしても、きっと駄目よね。いいか、それでいいって言ってるし。

「維月、我は気にせぬと申したであろう?」維心は、維月の顔を覗き込んだ。「良いぞ?」

維月は微笑んだ。

「はい…でも、なるべく努力致しまする。ですので、神の世のことを、いろいろとお教えくださいませ。」

維心はびっくりしたようだが、嬉しそうに頷いた。

「我が何でも教えてやろうぞ。維月、共に生きようぞ。」

維月は頷いた。なんだか、気恥ずかしい…昨日、ここに連れ去られて来たばかりだというのに。

維月は、慣れない宮であったが、洪に聞いたりしながら、必死に王とは何か、妃とは何かを学んで行った。

おとなしく奥宮でじっとしているのはとても無理だったが、それでも維心が怒る事はなかった。

今日も会合に出て居ない維心に、維月は退屈なので広い庭を散策していた。本当に広いこと…ちっとも飽きない。維月は奥の池の所まで歩いて、ぼーっと水面を見つめていた。


一方、維心は会合で報告を受けていた。

「…鳥の宮ではかなりの動揺が走ったようでありまする。」洪が言った。「どうしても押さえたかった月を先にこちらに押さえられてしまったと、炎嘉様もかなり憤っておられたとのこと。虎より先に月であったのにと、臣下達はかなりの喚起を被ったとか。あちらの臣下は焦ったのでありましょうな。」

兆加が頷いた。

「これで鳥はこちらに手出しは出来ませぬ。月は何が何でもこちらにつきまするでしょう。蒼様もこの婚姻を快く思うてくださっておる由。何より、維月様が王の妃にと、あのような形でありましたのにご努力をなさっておられる。我らも尽力を惜しみませぬ。」

維心は頷いた。

「維月には、我もいろいろと教えておるが、まだ知らぬ事も多い。主らも良く教えてやるようにの。あの姿であるが、まだ子供のような歳。40になるかならぬかの辺りぞ。」

洪は驚いて言った。

「なんと!まだ成人まで150年以上あられまする!…何もご存知ないのは、道理でありまするな。」

維心はフッと笑った。

「…それでも、我も知らぬような事も案外と知っていたりするのだ。面白いものよ。」

臣下達は驚いた。王が笑うなど…。

「…この上は、一日も早くお子をなしていただき、この体制の安泰をと願っておりまする。」

維心は呆れたように洪を見た。

「一週間前めとったばかりであるのに。主の望みは底がないの。」

そう言いながらも、維心は嬉しそうだった。これは本当に、王は維月様を…。

維心は、庭を眺めた。維月は今庭に出ているようだ。側に控えるこの気は…義心か…?

維心は、なぜか胸が騒いで、会合の間を出た。


義心が、維月の側に膝を付いた。

「維月様。」

維月は微笑んだ。

「義心!あなたにも謝らなきゃならないと思って…最初の夜、無理ばかり言ってごめんなさいね。私、人だったから…価値観とか、考え方が徹底的に違うの。」

義心は驚いた。維月は真っ直ぐにこちらを見る。その目に、気取りも何もなかった。王の妃は王族が多く、皆気位も高いはずなのに。この妃は違う…。それに、あの時は気付かなかったが、この気はなんだ。意識をせずとも惹き付けられる…捕らえられて、逃れられない。

義心はその気に酔いながも、頭を下げた。

「そのような…もったいない事でありまする。我に分かる事でありましたら、何なりと。」

維月は微笑んだ。

「ありがとう。あなたは優しいわね。これからもよろしくね。」

維月は、義心に手を差し出した。握手しようと思ったのだ。義心は驚いた…王の妃に触れるなど…!

だが、義心はその手を取った。

「はい、維月様。」

膝間付いたまま、その手にソッと唇を寄せると、義心はくるりと踵を返して立ち去った。維月は赤くなった…神って皆、あんなに紳士なのかしら。

維月は義心が気になって、しばらく義心の立ち去った方向を見て佇んでいた。


居間に帰ると、維心が不機嫌に座っていた。

「まあ維心様…お戻りでしたのね。」

維心は頷いて、維月を引き寄せて座らせた。そして、維月をいきなり抱き寄せると、突然に口付けた。

維月は驚いて身を退いた。

「維心殿?あの…どうなさいましたか?」

維心は目を反らすと、言った。

「維月。妃は王の居らぬ場所で他の男と話してはならぬ。まして触れるなど、論外であるのだ。」

維月は、義心の事を言っているのだと分かった。

「そのような…ただの、挨拶でありまする。」

維心は鋭く維月を見た。

「挨拶であろうともだ。本来なら奥の宮から出てはならぬ身。それを自由に出る事を許しておるのだから、守るのだ。」

維月は追いすがった。

「ですが維心様…、」

維心は、突然に維月をそこへ押し倒し、口付けた。維月は横を向いた。

「維心様、何を…!」

「臣下も望んでおる。」維心は維月を自分の方へ向けた。「早く子をなさねばの。」

維月は眉を寄せた。

「そんな…私は道具ではありませぬ!」

維心は維月を睨んだ。

「何を申す!主は我の妃ぞ!ならば我の子を産むのは義務であろう!」

維月は、維心を振り払った。

「そんなお考えにはついて参れませぬ!子は授かるもの。無理に産むなど!そのようにして出来たお子など、まるで人の世の畜産のようですわ!私は動物ではありませぬ!」

維心は維月を引っ張って組み敷いた。

「口答えなどさせぬ!主は我の妃ぞ!」

維心が口付けようとすると、維月は首を振った。

「嫌!そんな維心様など、嫌でありまする!お離しくださいませ!」

「ならぬ!」

維心は、突然に後ろへ押された。維月から、青白い光が伸びている…月の力なのだと、維心は思った。

「維心様など嫌い!」

維月は、いきなり飛んで庭へ出て行った。維心はそれを追った。

「維月!」

維心はどうしたらいいのか分からなかった。愛しているのに。維月はどう言えば分かってくれるのだ。他の男になど…目に触れさせるのも嫌なものを。維月は籠められるのを嫌がる。子をなせば落ち着いてくれるのではと思うたのに…。我の子を産めば…。

維心は維月に追い付いて、腕を掴んだ。

「維月!逃げるのではない!我の妃ではないか!」

維月は首を振った。

「嫌!私は月の宮へ帰りまする!」

「そのようなことは許さぬ!」維心は言った。「ここに居るのだ。共に生きると約したであろう!」

維月はキッと維心を見た。

「維心様のお気持ちが分かりませぬ!維心様に私の気持ちが分からぬように!」

維心はハッとして思わず手を離した。維月はその隙に、維心から離れて庭の奥へと飛んで行った。


結界の中は、穏やかだ。

維心は維月がまだ、自分の結界内に居ることを知っていた。なので、気が済むまでとそのまま置いていた。まだ、出逢って一週間しか経っていないのだ…お互いに、行き違いがあっても仕方がないであろう。しかし、あのように面と向かって気持ちをぶつけられたのは初めてで、維心もどうすれば良いのか分からなかった。

自分は、神の世で生きて来て、その理に沿って考えていた。それが、維月には通用しない。維月は人であったから、神の考え方が分からない。そして、王の妃がどんなものかも分かっていなかった。おそらく維月にとって、これは王の妃になるというより、ただ婚姻が成ったというだけの感覚なのだろう。ならば、いろいろと制限されるこの生活が、維月にとって理解し難いものであっても仕方のないことだった。

しかし、維心は自分の初めて望んだ妃が他の男の目に触れて、しかも触れられるなど考えられないことだった。本当なら奥宮に篭って出て来ることのない、王の求めに応じるだけで、ただ従順に従う妃が、たった一人であるにも関わらずあのように出歩いて、従うどころか逃げ出して、拒絶する。維心はため息を付いた。もしかして、我らは無理なのではないのか…。

しかし、それでも維月を手放す気には到底なれなかった。

「あーあ、蒼があれでいいと言うから、オレだってそんなもんかと黙ってこっちへやったのに。世の平和ってのをお前が維持してるんだろう?違うのか?」

維心はびっくりして振り返った。結界が張ってあるのに。何の気配も結界に掛からなかった。

そこには、青銀の髪の、端正な顔の男が少し浮いて腕を組んでいた。人の世の服を着ている…しかし、その気は維心にも抗えないような強いものだった。

「…主は誰ぞ。確かに我は世を押さえ付けておるがの。」

その人型はフフンと笑った。

「オレは十六夜。月だ。維月を月にしてこの世に戻したのもオレ。お前の嫁にしたら世が安定すると蒼が言うから、あの夜、隙を作った。あいつが隣りの宮の神のとこへ泊って、オレは見逃した。でなきゃお前らは維月を連れてなんて行けてねぇよ。あんな無防備な状態で、維月を一人放って置く訳ないだろうが。ちなみに言っとくが、炎嘉だって維月をさらいに何度も来てたが、オレが追い返してたから近寄りも出来なかったんだぞ?感謝してもらわなきゃな。」

維心は驚いて十六夜を見た。これが月。そして、炎嘉はとっくに維月をさらいに行っていたというのか。

「…どうしようもない。維月は我には理解出来ぬのだ。おそらく維月にも我が理解出来ぬのだと思うが。」

十六夜はため息を付いた。

「確かにな。オレも人とばっか一緒に居たから、お前らの考え方ってのが今一理解出来ねぇしよ。お前が要らないって言うなら、オレは維月を連れて帰ってもいいぞ?あっちで炎嘉から守ってれば、まあ世は安定するんだろうが。蒼はそれじゃあ心許ないと言うから、お前らに維月を連れて行かせたんだからな。不幸にするためじゃねぇよ。」

維心は慌てて首を振った。

「不幸などではない。ただ…今はまだ行き違いがあるだけで…。」

十六夜は維心を見た。

「なあ、維心。維月は人の世に居た時から、そりゃあ気の強い取扱い注意な女だったんだ。だから死んじまったんだしな。オレが止めても聞かなくて、突っ込んでって死んだんだからよ。だが、オレが維月を大事に思う気持ちは強いから、あいつに不死の命を与えて戻したんだ。オレの命を分けたんだよ。その意味、分かるか?」

維心はじっと十六夜を見た。

「主…維月を望んでいると?」

十六夜は笑った。

「望む?そんな簡単なことじゃねぇ。オレはアイツが生きて幸せならそれでいいんだ。つまりはな、不幸なんだったら、そこから救い上げなきゃならねぇのさ。お前が理解出来ねぇでいるのなら、すまねぇがこれ以上はお前に任せる訳にはいかねぇよ。連れて帰ってオレが守る。どうする?維心。お前なら、もっと従順でもっと見た目がいい女を嫁に出来るんじゃねぇのか。まだ一週間だろう?諦めるってもの手だぞ。」

維心は何度も首を振った。

「維月の代わりなど居らぬ。やっと見つけたのだ。頼む、我に時をくれぬか。」

十六夜は腕を組んで宙で胡坐をかくと、考え込むようにため息を付いた。

「…全く、仕方がねぇなあ。わかったよ。ここへ連れて来てやる。それで話を付けな。拗れたら、そのまま連れて帰る。それでいいな。」

維心は緊張気味に頷いた。

「…分かった。」

十六夜は飛んで行った。維心はそれを見送りながら、思った…月。あれが、月。我にも匹敵するあの気…本気で戦えば、恐らく我に勝ち目はない…。


「維月。」

聞きなれた声に、維月は急いで顔を上げた。「十六夜!」

維月は十六夜に抱きついた。十六夜はぽんぽんとその頭を撫でた。

「どうした?お前なあ、結婚したんだから、ちょっとはダンナを立てろよ。相手は王なんだからよ…お前は誰にでもそんなだからうまく行かねぇと、いつも言ってるだろうが。」

維月は泣きながら十六夜を見上げた。

「だって、酷いのよ?どうして行動を制限されるの?奥に篭ってなきゃならないと言われて、それは出ても良いと言ってくださったけど…世話になった軍神に挨拶程度話しただけで叱られるのよ?訳わかんない…。」

十六夜は、維月を座らせた。

「嫉妬なんだよ、維月。王ってのは嫉妬深いんだ。ましてお前一人しかいないのに、それが他の男に取られたらどうする?それが怖いからああなるんだ。怖くたって怖いって言えないのが王ってもんだ。自分に繋ぎとめたいからこそ、奥へ篭めようとする。わかってやりな、お前、それでなくてもその気で男を惹き付けちまうんだから。それとも、いろんな男と遊びたいのか?」

維月は慌てて首を振った。

「そんなこと!…そうなの、維心様、嫉妬してらしたの。」

十六夜は維月を覗き込んだ。

「さ、で、オレは維心に会って来たんだがな、お前を連れて帰ると言ったら、どうしてもそれは嫌みたいでよ。だから、オレの前で話し合え。決裂したら、すぐ連れて帰る。維心のことは金輪際忘れな。あいつだってお前を忘れてもっと扱いやすい女を嫁にしたほうがいいだろうし。」

維月は驚いた顔をした。

「十六夜…そんな、一方的な!」

十六夜は眉を上げた。

「はあ?お前に言われたかねぇなあ。お前はどうなんでぇ。一方的なんじゃねぇのか。ちょっとは自覚しな。我がままにもほどがあるぞ。あのな、お前みたいなのを、自己中心的って言うんだよ。ジコチューって言うらしいな。」

維月は顔をしかめた。

「何よ!十六夜だってジコチューじゃないの!」

十六夜は笑った。

「オレ達はいいんだよ、お互い様だしな。だがな」と十六夜は表情を変えた。「維心は違う。ここまで自分の望みなんか叶えずに来た。それがお前がいいって言ってるんだろうが。お前もちょっとは努力しな。神にならなきゃならねぇのさ。全て従えとは言ってねぇ。そこにはそこのルールってもんがあるんだ。それを守りな。出来ないなら帰れ。わかったな。」

維月は十六夜に言われて、しゅんとした。

「…わかった…。」

十六夜は、維月にそっと口付けた。

「落ち込むなよ。さ、行くぞ。」

十六夜は、維月の手を握って飛び上がった。

維月もそれに従って飛んで行ったのだった。


維心は、十六夜と手を繋いで飛んで帰って来る維月を見上げた。命を分けたと言っていたが…いったいどんな関係なのだろう…。

居間に降り立った十六夜は、維月の背を押した。

「さ、早いとこ話し合いな。オレだって忙しい。」

維月は、維心の前で下を向いて立った。維心が、先に口を開いた。

「我が押し付けてしもうたのは悪かったと思うておる。しかし、どうしても譲歩できぬこともあるのだ。」

維月は顔を上げた。

「私も一方的で悪うございました。奥に篭りっきりにはなれませぬが、おっしゃるように、維心様の居られぬ所で殿方と話すようなことはないように致しまするし、それに姿を晒すようなことがないように致しまするので…。維心様にも、あの、あのように命じるのではなく、私にも分かるようにご説明頂きたいのです。さすれば、私も納得してそれに従えると思いまする。」

維心はハッとした。そうか。自分は王として生きて来たので、命じることしか知らなかった。あのようにただ命じては、維月には訳が分からず、ただ禁止されているだけととらえるのだろう。

維心は頷いた。

「わかった。これからは、主にも分かる様に説明しようぞ。それで良いか?」

維月は頷いた。

「はい。」

維心は、ホッとして手を差し出した。

「これへ。」

維月は素直にそれに従った。十六夜は呆れたように二人を見た。

「手間ぁ掛けさせるなよな。仲良くやりな。」

維心は、十六夜を見た。

「その、主は維月のなんだ?主らは、婚姻関係にあるのか?」

十六夜は驚いたような顔をしたが、意地悪く笑った。

「おいおい、そうだと言ったらどうするつもりだ?お前にオレは消せねぇだろうが。そうじゃねぇよ。別にお前らがいう結婚とやらをしてもよかったが、どっちでもいいんでぇ。オレ達は同じ体と命を共有してる運命共同体だ。オレが死ねば維月も死ぬ。わざわざそんな形式を取らなくても、離れることはねぇんだよ。お前は死ぬだろう?オレ達は死なない。今の維月の傍に誰が居ても気にならねぇなあ。だってそのうち死ぬんだもんよ。また別の男が娶るのかもしれねぇし、そうでないかもしれねぇし分からないが、お前達は入れ替わる。オレと維月はずっと一緒だ。だからこだわらねぇのさ。いきなり返せとかいわねぇから安心しな。」

維心は衝撃を受けた。それは…我とは一時的なという意味か。

「我は一時の相手と?」

十六夜は頷いた。

「そうだ。お前らって寿命があるじゃねぇか。オレ達にはない。一時って言ったってお前にとっては一生だから安心しな。オレ達にとっては、無限の時間の一時期でしかないだけさ。」

維心は、維月を見た。不死…だから、我は一時の相手と。我の寿命が尽きると同時に、我のことは維月に忘れられて…また他の男が夫になって、それを繰り返し…。

維心は、維月の手を握る手に、力を込めた。先のことまで、妬むのは間違っている。まして自分が死んだ後のことまで…。

維心が黙っているので、十六夜は窓に向き直った。

「じゃ、行くぞ?またな、維月。何かあったら言いな。」

維月は維心を気遣いながら頷いた。

「ええ。ありがとう、十六夜。」

十六夜は頷くと、飛び立って行った。

維心はまだ、黙っている。維月は維心を気遣わしげに見た。

「維心様…十六夜は、少し口が悪いんですの。でも、悪気もないし、正直なのですわ。思ったことは包み隠さずいうので…お気になさらずに。」

維心は維月をじっと見た。

「維月…。」

何やら思い詰めているような様子だ。維月は維心の頬に触れた。

「まあ維心様…どうなさったの?」

維心は維月を抱き締めた。

「我のことを…忘れてしまうのか。維月、主はいつか…。」

維月は維心を抱き締めた。

「維心様…。私の夫がそんなにたくさん居たとお思いですか?それに、この先もたくさん居ると?ないと思いまするわ。そのように、まだ何も起こっておらぬうちから案じるのはおやめくださいませ。ただ、こうして二人で居られる間、幸福に暮らして参りましょう。私も、努力致しまする。維心様…共に生きて参りましょう。」

維心は頷いた。

「維月…我は主を愛しておるのだな。本当に…。しかしこれほどまでに辛く、しかし幸福であるとは思いもせなんだ…。」

維月は、維心を抱き締めた。愛してくださっている…私も、このかたを愛して、幸せにしよう。生きている間、ずっと…。



維心は、目を開けた。

天井が見える。維月が隣りで瑠璃色の玉を浮かべていた。

そうか、我は、隣の世を見ていたのだった…。

維月が、重い表情で起き上がった。

「…なんと申せば良いのか…。先も気になりましたけれど、心が重くのしかかって来て。戻って来てしまいました。」

維心は頷いて、維月を抱き寄せた。

「あちらの世の我らは、まだ始まったばかり…衝突を繰り返して、我らは今があるではないか。あちらでも、十六夜は居た。同じようにあんな感じだったが、やはり十六夜は十六夜であったの。きっと、大丈夫よ。」

維月は頷いた。

「まだ出逢って一週間でありました。私は、維心様を安心させてあげたかった。見ていて辛ろうございました。でも、あちらの維月には、まだそこまで深い愛情が存在せず…維心様に共に参るとも言うこともなく…。」

維心は、維月に頬を擦り寄せた。

「一週間ではのう…我らは60年以上共に居るであろう?ここまで来るにはまだまだであるぞ。そのうちに、あの世の我も安心できる時が来る。案じずとも良い。」と、維心は維月に唇を寄せた。「さあ、主の相手は誰ぞ?この我ではないのか。我は幸福にしてはくれぬのか。」

維月は微笑んで、維心に口付けた。

「維心様…。どこまでも共に参りましょうね。」

維心は微笑み返した。

「もちろんよ。」と思い出したように言った。「そうそう、十六夜もの。」

二人は瑠璃色の玉を巾着へ収めると、まだ明け切れぬ空の下、抱き合って過ごしたのであった。


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