第六夜
「仲……良いですよね」
わたしは鉛筆を持つ手で頬杖をつき、先生の背中に声をかけた。とはいってもただの独り言……のはずだった。
彼は、えっ? と虚を突かれた表情で振り返った。
「それは、嫌で面倒をみている訳じゃないからね」
「そうですか……」
わたしは長い髪を黒いシュシュで束ねた後、そろばんを弾こうと指を伸ばした。
だが問題用紙の上に影が落ちた。
視線を上げると先生がにこやかな顔で「ああそうか」
何が? と首を傾げる前に彼の手が伸びてきて、わたしの頭を撫でた。
「頭を撫でて欲しかったんだね」
「ち、違いますっ!」
全力で否定し、ぶんぶんと首を横に振る。
羞恥で頭から湯気が出そうだ。
「あれ、違ったかい?」
今度は先生が首を傾げた。
翌日の夜。
塾に向かう道程で、不可思議な物を見付けた。
ぐにゃりっと頭の高さに曲がった規制標識だ。ちょうどロシア字のГに似ていた。
塾の軋む階段を上がると、硝子張りの引き戸がある。玄関先からは、室内の様子がよく見えた。
そこには珍しく険しい顔をした先生が前方の定位置に座り、それに肩を落とした生島くんの後ろ姿があった。
何か言い合いをしているようだった。
わたしがガララッ―――と引き戸を開けると、ハッとしたように二人が口を噤んだ。
生島くんは「邪魔になりますね。戻ります」と言って、そそくさとわたしの脇を通り過ぎて階下に降りて行った。
「あっ……」
先生が物言いたげに腕を伸ばしたが、空を切る。
わたしは素知らぬ顔でいつもの席に腰を下ろした。そろばんと筆記用具、文鎮を鞄から取り出し机の上に並べる。
「先生」
わたしは顔を伏せている彼に、そっと声をかけた。
「……いや、すまない。いつものように問題集を解いてくれ」
無理に口角だけ上げた笑みで、先生はばつの悪さを滲ませわたしに告げた。
頷いて、静寂の空間にそろばんを弾く音が響く。
と―――ガララッと乱暴に引き戸が開いた。
「おーい、先生。すまねえが」
全然すまなそうにしない黒いコート姿の闖入者。
わたしは先生を一瞥した。
先生は続けるように手で促し、コート姿の中年男性に大仰な溜息を吐いてみせた。
次から更新、遅くなります。
1月14日に書き直しました。