第一夜
夕闇が辺りを包み、民家や街路樹が影絵のように佇んでいた。
身を切るような風が吹き抜け、わたしの身体が寒さに震える。
鳥肌の立った両腕を擦りながら、門前に看板が立つ民家に足を踏み入れた。
看板には、白い光を背に『黒塚そろばん塾』の文字。
その脇にある階段を軋ませながら、上がった先でローファーを脱ぎ、引き戸を開けた。
蛍光灯の下、学校と同じ机と椅子が整然と並んでいる。
教室の前方には文庫本を読む男性の姿があり、わたしの気配に気付いて顔を上げた。
「やあ、こんばんは。いつもより少し遅かったね」
彼はふっと微笑んで文庫本を閉じた。
「すみません、黒塚先生。講習が長引いてしまって」
微笑みを浮かべ、黒塚先生は傍にあった机の上からプリントを持って席を立つ。
反対にわたしはいつもの席に腰を下ろして、学生鞄からそろばんと筆記用具を取り出した。
渡されたプリントに軽く目を通すと、そろばんに向き直る。
わたしは手首につけていた黒いシュシュで、自慢の長い髪を結うと問題に取り組み始めた。
一時間半が過ぎたところで、黒塚先生が声をかけてきた。
わたしは睡魔が首をもたげていた意識を払い、背筋を伸ばす。唸り声をあげ、脱力した。
「お疲れさま。今日はもう自習に移っていいよ」
「はい」
頷き、解き終わったプリントを先生に渡す。前方の定位置に戻った彼は、そのまま赤ペンで採点し始めた。
シュッシュッと紙を擦る音が静かな空間に響き、わたしは体を強張らせた。それを紛らわせるように、鞄から現国の宿題を取り出し、そろばんを片付ける。
「はい、満点でした。この調子でいけば、五級に移れるね」
わたしはほっと安堵の吐息をつき、「そうですか」と微笑んで応じた。
褒められたら素直に嬉しい。
「宿題は何を?」
「現代文です。『秘密』という小説なんですけど」
「ああ……あれは印象に残っているね」
わたしは「そうですか」と相槌を打って、問題文に向かった。
先生もそれ以上何も言わずに、文庫本に視線を走らせる。
そろばんを教えているくせ、文学的なところがある。そう思いながら、空欄に答えを埋めた。
と―――ガララッと入口の引き戸が開く音が聞こえた。
振り返ると塾生とは思えない、中年の黒いトレンチコート姿の男性が侵入してくる。
「よお、先生。邪魔するぜ」
馴れ馴れしく先生の肩を叩く。
憮然とした表情の先生は顎でわたしの存在を示した。
男性はわたしの方を一瞥すると、頭を掻いて、
「あーまだ営業中だったか。あとにするか?」
「そうしてくれると、助かるね」
先生は吐息をつくと、男性を押し退けわたしの元にやってくる。
「心配しなくていい。僕の知人だ」
「はあ……そうですか」
「そろそろ時間だね。少し早いけど切りあげる?」
頷いて見せると、先生は口元に笑みを浮かべた。
手早く片付け、入口で教室に振り返り二人に会釈する。先生は手を振り、男性は素知らぬ顔で懐から手帳を取り出していた。
外に出ると、冷えた空気が顔を撫でる。
髪を結っていた黒いシュシュを外すと、暗闇が口を開ける帰路へと着いた。
最初はゆるゆると更新していきます。
しばらく日常パートが続きます。