第6章 去れない理由
セルヴァ伯爵は、寝室を落ち着きなく歩き回った。嵐のせいで、近づくものの気配も臭いも感じ取れない。
胸の奥でうずく、この不安感は何だろう。冬至が近づき、邪まな力が強くなっているのか。それともカミールが現れたせいか。
カミール――――彼女の血が欲しい。伯爵は苦しげに手で片目を覆った。
一口味わってみたのは間違いだった。あの美味と芳香を知ってしまったら、忘れられるものではない。
ヴァンパイアになったばかりの頃は、人間の血が欲しくてたまらなかった。年を経て、今では自分の欲求を抑えられると自負していたのに……。
力を維持するための必要に迫られて、人間の血をほんの一口飲むことはあるが、カミールの血なら一口では足りない。すべてが欲しい
彼女の血を飲み干し、自分の血を飲ませたい。彼女の血が喉を通って体内に流れ込み、自分の血が流れ出して彼女を潤す場面を想像すると、体が渇望に震える。望みをかなえるためには、彼女をヴァンパイアに変えるしかない。
カーロで懲りたのではなかったのかと、彼は自分に腹を立てた。寂しさから、捨てられていた赤ん坊を家族に見立ててしまった。その結果はどうだ。縄張り争いをする獣のように牙を剥き合い、血みどろの争いをした挙句、決別したではないか。
魔物が誰かと仲良く暮らすなど、あり得ない。それが出来るのは人間だけだ。ヴァンパイアとなったカミールもいつかカーロのように自己を主張し、私の腕から逃れるように去って行くだろう。彼は、力なくベッドに座り込んだ。
彼の目に、馬に乗った一行が跳ね橋の前で止まるのが映った。嵐は治まり、十二体の人にあらざる者が城を見上げている。城内に引き入れカミールを危険にさらすしかないのかと、伯爵は悪態をついた。
その頃、カミールは寝台の上ではっと目を覚ました。うとうとしていたのだが、危険な気配に鳥肌が立っている。
急いで剣を帯び、階段を駆け下りた。伯爵が客と相対している。十二人の客の目が一斉に彼女に集まり、伯爵の声が響いた。
「部屋に戻れ」
彼女は、頭巾を下ろした客達の顔を見渡した。二人の金髪の男以外は、一目で人間ではないとわかる。長い犬歯をむき出し、彼女を見ている。
「できません」
言い放ち、剣に手を置く。金髪の男の片方が声を上げて笑った。
「これはこれは。勇ましいことだ」
くくくと笑う男は髪を肩のあたりでなびかせ、高価な衣服をまとい、貴族然としている。整った顔立ちだが、灰色の切れ長の目がぞっとするほど冷たい。
「どなたなのです?」
剣に手を置いたまま、カミールは伯爵に尋ねた。
「カーロの息子たちだ」
伯爵が苦りきった口調で答え、息子たちとはカーロがヴァンパイアに変えた人間という意味だろうかとカミールは考えた。
「そういう呼ばれ方は好まない」
金髪の魔物が滑らかに言う。
「私は、マーカム・ウェイランド。お見知りおきを」
カミールに向かって丁寧に頭を下げ、下から突き刺すように彼女を見た。
「隣にいるのは弟のトーマス」
もう一人の金髪の男が軽く頭を下げ、値踏みするような視線をカミールに向ける。マーカムとよく似た顔だが、唇から牙がのぞいている。
「あとの十人も弟たちだが、名乗るほどの者ではない」
弟たちと呼ばれた者たちの形相が変わった。ある者はよだれを垂らし、ある者は目を血走らせて彼女を見ている。まるで飢えた獣のようだ。
「見ての通り、腹を減らすとけだものになるのでね。特に美味しそうな人間の娘を前にすると」
男たちの姿は、変わり続けた。顔が崩れ、歯茎と犬歯がむき出しになる。真っ黒な枝のような腕から長い爪が伸び、はちきれた衣服から獣毛がはみ出す。
これがヴァンパイアの本当の姿だろうかと、カミールは思った。だがマーカムと名乗る男は冷たい貴族の容貌を保ち、伯爵はいつもの傲岸不遜な姿で彼らを見下ろしている。
「歓迎するつもりはない。よそで泊れ」
冷ややかに言う伯爵を、マーカムは面白そうに眺めた。
「貴様の意向は聞いていない。カーロの始末をつけてくれたのだから、大目に見てやるが」
と広間を見回し、にやりとする。
「いい城だな。値打ちのある池もあることだし、気に入った。今すぐ城から出て行ってもらおう。この娘を置いて」
マーカムの灰色の目がカミールに向けられた。彼女は見返しながら、伯爵がカーロの心臓を取り出した様を思い出していた。
狙うのは心臓だ。剣の柄をつかむ彼女の手を、伯爵の手が止める。
「カーロに何をした」
「何を?」
くだらない質問だとばかりにマーカムは薄く笑い、伯爵を凝視した。
「お前たちと一緒にいたはずだ。何故カーロはお前たちから離れた?」
「追い出したんだよ。役立たずだから」
弟たちの一人が、笑いながら答える。
「役立たず?」
「人間を狩るのをやめろと言い出しやがった。こっちは面白くてやめられないっていうのによおっ」
よだれを垂らした男が叫ぶ。
「人間の血を飲むのをやめて、豚の血にしろってさ。ふざけやがって。みんなで噛みついて半殺しの目に会わせてやったら、あいつ、泣きながら出て行ったぜ」
伯爵の心に、痛みが走った。カーロは助けを求めて私のところに来たのか。
獣に成り果てた頃の彼の姿が浮かぶ。年月を経て、カーロは変わったのだろうか。いや、もともと心優しい奴だった。魔物になっても人間の心を持ち続けていたのだ。
孤独に耐えかね、家族に似せて仲間を造り、裏切られた。どんな気持ちだったかは分かる。彼は傷心のまま、私のところへ戻ってきたのだ。
それを私は冷酷に拒絶した。彼は絶望して死を望み、それすら拒否すると人間を襲い始めた。私が殺してくれるのを待つかのように。二年もの間苦しんだカーロを、私は殺したのだ。
言いようのない怒りが伯爵の中でくすぶり、彼は唸り声を上げた。手にした剣を抜き、よだれを垂らした男の心臓を一突きにする。男は驚いた顔のまま砂になり、崩れ去った。
マーカスの弟トーマス・ウェイランドがにやりと笑い、
「勝ち目はないぞ、セルヴァ」
と剣を抜く。カミールは素早く目の前にいた男の心臓を貫いた。男は信じられないという表情で立ち尽くし、仰向けに倒れた。
トーマスが伯爵に切りかかり、残りの者はカミールに襲いかかる。トーマスの剣をすり抜けた伯爵がカミールの前に立ちはだかり、男たちをなぎ払った。
「逃げろ!」
「いやです!」
伯爵は歯ぎしりしながら鋭く突き出されたトーマスの剣を払い、攻撃に転じた。伯爵とトーマスの、剣と剣のぶつかる音が響いた。
カミールは大広間のテーブルにひらりと飛び移り、牙をむいて追いすがる男の顎を思いっきり蹴り上げた。転倒した男の傍に飛び降り、その心臓に両手で剣を突き立てる。素早く抜き取って、振り向きざま背後にいた男の首を刎ねた。首のない体と三人の男が、同時に彼女に襲いかかる。伯爵が背後から切りつけ、一人の男の心臓を貫く。その隙に彼女は横に飛びのいた。
どの男にももはや人間の面影はなく、ヴァンパイアとも言えない。剣を捨て、獣のように唸り、鋭い爪と牙でカミールに飛びかかる。彼女は身軽にかわし、テーブルを超え、魔物たちの反対側に飛び降りて身構えた。
「俺との勝負より、女が大事か」
嘲るようなトーマスの声を無視し、伯爵は叫んだ。
「精霊の木まで走れ」
カミールは走った。広間から中庭に出て、跳ね橋を渡る。マーカムの弟たちは、四本足で彼女を追った。カミールが飛びかかってきた魔物をかわし殴り倒し、すかさず心臓を貫くと魔物の絶叫が闇にこだました。
一匹の魔物が彼女の首を狙って跳躍した。剣で防ぐ間に別の魔物に右手を噛まれ、彼女は左手で短剣を抜いた。彼女に噛みつき、鋭い爪で肉を抉ろうとする魔物の心臓を刺し貫く。
さらに別の魔物がカミールの背に飛び乗り、彼女はうつ伏せに倒れ込んだ。彼女の首筋に牙を突き立てようとした時、黒い狼が魔物に喰らいついた。
(キリアン様――)
蒼い目の狼が、魔物の心臓に牙をうめる。カミールは素早く立ち上がり、走り出した。巨木の間を、飛びかかる魔物たちをかわしながら走る。雲の切れ間から月光が差し込み、前方のモミの木を照らした。木の幹にもたれかかり、カミールは剣を握り直した。
三匹の魔物が彼女を囲んだ。視界の隅で、黒い狼と黒豹が牙を剥き合って戦っているのが見える。
カミールの足もとが揺れ、モミの木の根がうごめいた。
じりじりと彼女に近づく魔物たちが、驚いたように立ち尽くす。口を大きく開け、獣の咆哮が木霊した。
魔物は凍りついたように立ち止まったまま、急激にやせ細り、骨と皮だけになっていく。足もとでモミの木の根が魔物の生気をぐんぐん吸い込み、生き物のようにのたうつ。魔物たちは命を吸い取られ、ぼろぼろになって崩れ落ちた。
「キリアン様! こちらに来ないでください!」
カミールは叫んだ。伯爵とて魔物だ。木の根に生気を吸い取られたら、生きてはいられない。
黒い狼と黒豹が互いに噛みつき合い、地面を転がって戦っている。黒豹の牙が黒い狼の肩の肉を削り取った。狼が飛びのくと、黒豹は食いちぎった肉片をぺっと吐き出し、跳躍しようとして止まる。体を二つ折りにし、のけぞり、苦しんでいるようだ。
闇を切り裂く獣の声をあげ、黒豹は仰向けに倒れた。心臓に30cmばかりの巨大なミミズが食い込んでいる。
黒豹は手や足、牙でミミズを払いのけようとするが、鋭い歯で食いついたミミズは容易に離れない。黒豹の胸の中にどんどんもぐり込み、全身で心臓を貫く。
黒豹は地面を転がり、断末魔の絶叫をあげた。ぴたりと止まると砂に変わり、風に飛ばされて消えた。
「まさか……ラス?」
信じられない気持ちで足を踏み出す彼女の視界の隅で、黒い狼がよろめき倒れた。
「キリアン様!」
彼女は狼に駆け寄り、膝をついた。狼は全身傷だらけだ。削り取られた肩は骨が飛び出し、血が滴っている。
カミールは急いで自分の下着を破り、短衣の下から引っ張り出して狼の傷口を止血した。血がみるみる下着を染めていく。まさか、このまま死んでしまうのでは――――。そう思うと居ても立ってもいられず、涙がこみ上げた。
狼は目を閉じ、ぐったりしている。どうすればいいんだろう。他に出来ることはないだろうか。カミールは、狼にとりすがった。
「私のために泣いているのか」
聞き覚えのある低い声に、彼女ははっと体を起こした。涙をためた目で、狼の姿から戻った伯爵を見下ろす。彼の指先が、彼女の涙を拭き取った。
「私が死んだら悲しいか」
「当たり前です」
彼女は答え、口調をゆるめた。
「……死なないでください」
伯爵は、満足そうに微笑んでいる。カミールは体を起こす彼に手を貸そうと寄り添い、背中に手を回した。
彼女の暖かい体から濃厚な血の香りが漂い、伯爵の鼻腔をくすぐる。伯爵の牙が伸び、彼は力ずくで自分を抑えた。
「木の根もとに埋めてやってくれ」
伯爵の視線は、力を使い果たして動かないミミズに向けられている。
「ラス……ですか」
伯爵は笑った。
「頑固な奴だ。最後の最後まで、地上に残るつもりらしい」
カミールは、落ち葉でそっとミミズをくるんだ。
「この次は何になるのでしょう」
「さあな。奴のことだ、また何かしら考えつくだろう」
見上げると、モミの木にひときわ強く輝くミミズが眠っている。
「ありがとう」
彼女は声をかけ、木の根の土をそっとかき分けて、ミミズの死体を埋めた。
「気をつけろ、カミール」
伯爵が苦しそうに立ち上がり、モミの木のある方角とは反対側の巨木の向こうに目を馳せる。
「もう一人、残っている」
木々の間の暗闇から、マーカムが姿を現した。あたりを見回し、砂と化したヴァンパイアたちの残骸に視線を送る。
「弟たちのお陰で、ゆっくり池を観察することができた」
冷たい顔に、嘲笑が浮かんでいる。
「おや、深手を負ったな」
「弟の敵討ちをする気はなさそうだな」
伯爵の言葉に、マーカムは笑った。
「トーマスは残念だったが、あとの者はいい厄介払いになった。もうじきエリザベートがここに来る。私はそれまで客として待たせてもらおう」
言いながら、カミールに熱い視線を向ける。
「ちょうどいい遊び相手もいることだしな」
伯爵は、激怒した。
「出て行け!」
「そんなことを言っていいのか。エリザベートの友人を粗末に扱うと、厄介なことになるぞ」
「出て行かないなら、力ずくで追い出すぞ」
いつもの彼らしくない激しい口調に、カミールは驚きの目で彼を見た。傷口の出血は止まり、治癒し始めている。驚異的な回復力だ。
それでも今マーカムと戦うのは、苦しいはずだ。彼女は剣を持つ手に力を入れた。
マーカムは苦笑した。
「お前は変わり者だと聞いていたが、その通りらしい。人間どもの間では、イングランドとフランスを統合する話し合いが進んでいる。私とエリザベートの話し合いは、ここで行われる。池を見ながらな。邪魔だてすると、ろくなことにならんぞ」
「政治に興味はない。出て行くか私と戦うか、さっさと選べ」
マーカムは凄まじい目つきで伯爵を睨み、
「近いうちにまた来る」
と言い残して飛び去った。
「イングランドとフランスの統合? エリザベートとは、どなたです?」
すぐ傍に立つカミールの芳醇な血の香りを嗅ぎ、伯爵は呻いた。
「痛むのですか?」
伯爵の顔をのぞき込み、彼女ははっとした。目が血走り、牙が伸びている。彼は血を欲しがっていると本能的に悟った。
「私はお前の血を、一滴残らず飲み干しかねない」
伯爵の言葉に、カミールは体をこわばらせた。
「そうなったら、わたしは死ぬのですか」
「そうだ。生き延びる方法はひとつだけ、私と同じヴァンパイアになることだ」
彼女は伯爵を凝視した。わたしがヴァンパイアになる……。
「だが、私はそんなことはしない」
彼は美しい顔をそむけ、「今後、私には近づくな」と言い残し、消えるように立ち去った。
近づくなと言われても、それでは役目が果たせない。カミールは、決断を迫られていると思った。伯爵を避けて暮らし続けるか、血を差し出して人間のまま死ぬか、ヴァンパイアになるか。どれも喜んで選べる道ではない。
夜明けまで時間があるが、眠れそうにない。伯爵の部屋の前まで行き、立ち止まった。彼は大丈夫だろうか。驚くべき治癒力をもっているようだが。
コナリーに命じ、狼の血を大量に運ばせていた。眠れば傷も癒えると、コナリーは言っていた。
厨房に入ると、コナリーが朝食の支度を始めている。この人はいつ眠るんだろう。コナリーのいつもと変わらない表情に、カミールは詰めていた息を吐き出した。伯爵の傷が深刻なら、厨房でのんびり朝食の支度などしないだろう。――伯爵は大丈夫だ。
「考えてみると……」
カミールは、コナリーに話しかけた。
「食事をするのはわたしだけなのに、あなたやアネッタに食事を作らせていますね。申し訳ありません」
彼はにっこりした。
「食事を作るのが好きですから。昔を思い出すんですよ」
カミールは、彼の皺深い顔をみつめながら尋ねた。
「聞いてもいいでしょうか。……ヴァンパイアになりたいと思ったことはありますか」
「私までもがヴァンパイアになってしまったら、昼間、伯爵様をお守りする者がいなくなります」
「そうでしたね」
彼女は籠に入ったハーブを手に取り、香りを吸い込んだ。
「……カーロは……心の優しい子供でした」
コナリーが言葉を詰まらせながら言い、カミールは彼に顔を向けた。
「動物が好きで、虫も殺せなかった。それが突然、ヴァンパイアとして生きなければならなくなってしまって……。無理だったのですよ、彼には。……人間を殺して生き血をすするなんてことは」
「最初から動物の血を飲むのは、できないことなんでしょうか」
彼女の顔をじっと見て、彼は首を横に振った。
「最初は、人間の血が欲しくてたまらなくなるそうですよ。伯爵様がそう仰ってました。ヴァンパイアになりたての体が求めるのでしょうね。そうしているうちに心を失って、大半のものは地下世界に移るのです。あちらの方が陽がささないし、住みやすいですからね。地上に残るのは、残る理由を持つヴァンパイアだけです。人間が好きとか、人間の血を好むとか、地上の殺戮が好きとか」
カミールは、マーカムの弟たちの獣に近い姿を思い出した。彼らは地下の魔物の世界へ行く寸前だったのだろうか。
「カーロは、どれでもなかった。だから生きられなかったのですよ。なまじ人間としての心があったばかりに、魔物として生きていけなかったのです」
カーロは殆ど抵抗することなく、伯爵に殺された。死にたがっているかのようだった。
「伯爵は長く生きておられますね」
コナリーがうなずく。
「二百年になります。あの方は強い心の持ち主です。誰もがあの方のように、人間の心を持ちながらヴァンパイアとして強く生きられるわけではありません」
わたしはどうだろうと、カミールは思った。強く生きられるだろうか。
朝食を済ませ、後片付けをしてから馬房の裏の小屋に向かった。ピエールが年老いた狼を抱いて座り、頬ずりしている。彼からは見えないところで、カミールは壁にもたれて座った。
「大丈夫。一人じゃないからね」
ピエールは、狼の耳もとで囁いていた。
「死は終わりじゃない。始まりだよ。お前は好きなものになれる。人間は無理かもしれないけど、鳥にもライオンにもなれるよ。何がいい? もう一度狼になる?」
ピエールの柔らかい声は子守唄のようで、老いた狼は彼にもたれ目を閉じている。ピエールの目から涙がこぼれ、狼は動かなくなった。
ピエールが振り返った時、
「君は天使みたい」
と言うと彼はにっこりし、それからしばらく狼を抱いて離さなかった。
夜が明けても空は厚い雲に覆われ、城のまわりは夜のような暗闇に沈んでいた。
伯爵は寝室のベッドに横たわり、天井を睨んでいた。床には大量の皮袋が転がっている。狼の血を摂取し、少し眠り、肩以外の傷は癒えた。マーカムに食いちぎられた肩も、明日にはもとに戻るだろう。戻らないのは心の傷だ。
ごく若い頃、思い通りにならないものはないと信じていた。退屈な貴族の暮らしから逃げ出し、家族の反対を無視して傭兵になった。
ベネチアの場末の酒場で目を見張るような美女に誘われ、彼女の自宅に行った。彼女は五百年生きたヴァンパイアだった。
魔物として生きることに飽き、最後に息子を残したかったのだと言って彼をヴァンパイアにした翌日、日の光を浴びて死んだ。死にたくなったら、太陽の光を浴びなさいと言い残して。
何が息子だ――見ず知らずの他人なのに。身勝手な女だった。だが自分もまた、カーロに対して同じことをしたのだ。
カーロ……。動物を育てるのが好きな、内気で心優しい子供だった。彼を見ていると人間に戻ったような気がして、心が癒された。彼の命を救うためだと言いながら、本当に救いたかったのは自分の心だ。彼を失いたくない一心で、彼に魔物としての生を強要したのだ。
カーロは苦しんだだろうか。人間の血を吸う時も、私の手で最期を迎えた時も。
太陽の光を浴びれば簡単に死ねるのに、彼はそうはしなかった。どうして私と戦うことを選んだのだろう。最後まで、絆を求めたのだろうか。今となっては、わからないままだ。
カミールに対しても、同じことをしようとしている。彼は、寝返りをうった。
カミール――――夫を持ち子供や孫に囲まれて暮らす彼女を想像すると、切られたように心が痛む。だが彼女には、人間として幸せな一生を送る権利がある。暗闇に棲み、血がなければ生きていけない暮らしなど、彼女にはふさわしくない。
永遠の命をもつ者として、短く一生を終える人間を見下してきたのに、突然自分の本当の姿が見えてきた。禍々しく邪悪で薄汚れた化け物――それが私だ。彼は、笑いたくなった。化け物の分際で、人間の娘に心惹かれるとは。
このまま彼女を手もとに置いておけば、自分の渇望を抑えきれなくなるだろう。彼女を自分と同じ化け物にはしたくない。
彼は歯を食いしばり、目を閉じた。太陽の光を浴びた彼女を思い浮かべる。青空の下で髪も顔も黄金色に輝き、緑の草原を駆ける彼女は幸せそうに笑っている。自分が決して目にすることのない、彼女の姿だ。温まった体から、芳しい血の香りがするだろう――――。
彼は、笑った。この期に及んで血とは。
もう限界だ。伯爵は意を決して起き上がり、身支度をした。
カミールは、裏庭の菜園にいた。コナリーに頼まれたのだろう、ハーブの種を植えている。
「お加減はいかがですか」
心配そうな顔で立ち上がる彼女に、伯爵は言った。
「傷はすぐに癒える。お前にはひまを出す」
彼女は、凍りついたように見えた。
「今、何とおっしゃいました?」
「今すぐ立ち去れ。私も近いうちに、ここを去る」
彼女は無言で彼をみつめていた。美しい顔だと彼は思った。この顔を心に刻み付けておこう。もう二度と会うこともあるまい。そう思うと、あるはずのない心が切り刻まれるようだ。
「よろしければ、理由をお聞かせ願えますか」
彼女は震える声で尋ねた。目に涙が浮かんでいる。彼は杭で腹をえぐり取られたような痛みを感じた。
このままではお前を不幸にするからだ――――彼は心の中で答えた。闇に棲む化け物になり果てたくなければ、立ち去れ。
「私が側近を選択するのに、理由は必要ない」
伯爵は答え、カミールに背を向けた。
「私の馬に乗って行け。馬が道を知っている」
彼女が心の光だったことに気づき、これで心の奥底まで闇に閉ざされたと彼は思った。
カミールは馬房から伯爵の馬を引き出し、鞍を載せてまたがった。まさか解雇されるとは……。伯爵に言いたいことは沢山あるけれど、何も言うまいと決めた。せめて背筋を伸ばし毅然として去ろうと、こみ上げる涙を押し留める。
。
後ろを振り返ることなく巨木の間を抜け、初めて蒼い目の狼を見た場所まで来た。枝には白い布が巻きつけられたままだ。ここで三人の部下を失った。わたしには、隊の指揮を執る資格はない。指揮どころか騎士としての資格も怪しい。手綱を引き、カミールは馬を止めた。
これから、どうなるんだろう。ラーベンは滅びた。フィーリア姫のもとへ戻るべきだろう。姫君は今頃お祖母様と再会しているだろうかと思い、カミールは首を振った。
もう以前の暮らしには戻れない。ラーベンという巣の外の世界を見てしまい、自分自身の幸福とは何かを知ってしまった。わたしの幸福には、伯爵が深く関わっている。心の大部分を彼に甘く絡め取られてしまったのだと気づき、カミールは愕然とした。
手綱から手を離すと、馬はとぼとぼとコルバイン村に向かって歩き始めた。馬の背で揺られながら、心が空っぽになっていくような感覚にとらわれる。心は、彼のもとに置いて来てしまったのだ。
手綱を引き、馬から滑り降りて地面に座り込んだ。辺りは月夜のようにうっすらと明るく、苔むした匂いがする。カミールはうなだれ、こぶしを握り締めた。
わたしの何がいけなかったのだろう……。解雇の理由がわからない。血を差し出さなかったからだろうか。伯爵が望むなら、そうしていただろう。 だが彼は、わたしをヴァンパイアにはしないと言っていた。伯爵の望む通りに血を差し出したら、わたしは死ぬ。わたしを死なせないために、遠ざけたのだろうか。
それとも、命令に対する不服従だろうか。マーカムたちが現れた時、わたしは伯爵の命令に従わず彼らと戦った。だが主君が危機に瀕していれば、臣下なら誰だって同じ事をするだろう。
あるいは、単に彼に嫌われたのか。その理由が一番妥当に思えて、彼女は深く傷つき両手で顔をおおった。
伯爵のそばにいたい――――。自分の気持ちが、はっきりと見える。好きな人と一緒にいたい――――。
きっと彼はわたしの気持ちに気づいたのだろう。迷惑に思い、追い払うことにしたのだ。そう思うと涙があふれた。
千回も言い聞かせれば頑固な体も動く気になるだろうかと、抵抗する心に言い聞かせた。立ち去りなさい――――。彼は、わたしが疎ましいのだ。だから立ち去った方がいい。
涙が流れるままにまかせ、呪文のように唱える。立ち去りなさい――――。だが体は動かず、立ち上がる気にもなれない。
騎士の誇りは何処にいってしまったのだろう。十年かけて築き上げた戦う姿勢は、こんなにも簡単に崩れるものだった。このざまは一体、何だろう。カミールは、自分自身を嘲笑った。
そんなカミールの姿を、伯爵は魔物の目で見ながら歯を食いしばっていた。城から出て行く彼女から目が離せなかったばっかりに、座り込んでうなだれる悲しい姿を見る羽目になってしまった。
細い肩が震えている……。泣いているのだと気づくと、胸が抉り取られるように痛んだ。目を逸らそうとするが、出来ない。彼女が森から出てしまえば、見ることはできなくなる。それまでは、どんな些細な姿でも記憶に留めておきたい。これからの長く暗い人生の慰めにするのだ。
それでも泣き続ける彼女を見ていられなくなり、彼女を追い払うためだと自分に言い聞かせ、彼は矢のような速さで城から飛び出した。
突然現れた伯爵に驚いた様子も見せず、カミールは力なく無言で立ち上がった。伯爵の前まで歩み寄り、食い入るように彼を見つめる。
琥珀色の瞳に魅入られ、伯爵は体を震わせた。追い払うことが出来るなどと、どうして考えたのだろう。とっくに死に果てたはずの心が、彼女を求めてやまない。だが自分のそばにいても、彼女は幸せにはなれない。
彼が言葉を発しようとした時、彼女の体が傾き彼にもたれかかった。カミールは両腕で彼を抱きしめ、胸に顔をうずめて嗚咽を洩らした。
「……私の血を差し上げます。命もあなたのものです。ですから……出て行けとは言わないでください」
彼女の涙が彼の胸に沁み、伯爵は彼女を抱きしめた。
「わかった。……もう何も言うな」
金茶色の髪を優しく撫でながら、自分はカミールを手離すことができないのだと、しみじみと感じた。