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第5章  獣性の口づけ


 翌日の早朝。薄曇りの空の下、三頭の馬が城を出た。

 霧は晴れているがどんよりと重い空気が垂れ込め、森は不気味に静まり返り鳥の囀りすら聞こえない。

 先頭を行く伯爵は時折奇妙な具合に光る黒マントを頭からすっぽり被り、隣でカミールが無言で馬を歩ませている。

 伯爵とカミールからやや遅れてファンが続き、ファンの前にはフィーリアが座っている。


「パーベルとボルトに何があったのかしら」

 フィーリアは大柄なファンを見上げ、囁いた。

「カミールは、何も話してくれないの」


「うーん」

 ファンは、ばつが悪そうに頭を掻いた。自分が酔いつぶれている間にパーベルが狼に襲われ、ボルトは誤って底なし沼に沈んだとカミールから聞かされている。


「俺にもよくわからんのだが、助けを呼びに行こうとしたんじゃないかな」

「助けなら、伯爵に言えばいいのに。伯爵を信じてなかったのかしら」

「そうだなあ」


 ファン自身、伯爵を信用していなかった。

 伯爵は敵方に通じていてフィーリア姫を人質にとる気ではないかと疑っていたのだが、そういう雲行きでもなさそうだと首をひねる。


「我々は、修道院に着くことだけを考えた方がいいんじゃないかな。俺はラーベンに戻り、遺品を遺族に渡さにゃならんし」

 伯爵がこの森で死んだ兵士全員の遺品を持たせてくれた。案外善人なのかもしれないと、ファンは更に首をひねる。


 森のはずれに来て、カミールは馬を止めた。木立の向こうに晴れ渡った青空と眩い光が見える。

 小高い丘の上に絵のように並ぶ白い小さな家々。コルバイン村だ。枯れた野の草が急激な真冬の訪れを語っている。

 振り返ると、伯爵は遥か後方の闇に佇んでいた。


 フィーリアの乗る馬が、カミールの前に立った。

「お別れなの?」

 フィーリアは淡い金髪を風になびかせ、涙を堪えている。

「また会えます」

 カミールも涙を堪え、笑顔を作った。

「会いに行きますよ、必ず」

「約束よ」

「はい」


 カミールはうなずき、フィーリア達を見送った。涙がこみ上げる。このままフィーリアに向かって太陽の下を走ったら、伯爵は追って来れないだろう。だが、そんなことは出来ない。一度口にしたことは守らなければならない。


 自分で決めたことだときっぱりフィーリアの後ろ姿に決別し、馬の首を伯爵の佇む方向に向けた。

 彼に近づくにつれ辺りは薄暗くなり、闇の中に入っていくのだと感じる。


 彼女の新しい主君セルヴァ伯爵の蒼い目が、彼女を迎えた。

「戻って来たな」

 彼は、言った。

「はい」

 彼の長い指が、彼女の頬を優しく撫でる。

「お前は私のものだ。城に戻ろう。見せたいものが幾つかある」

 伯爵は城に向かって駆け出し、カミールは彼に従った。


 大広間から階段を上がり、彼の主寝室に入った。以前にも一度入ったことがある。

 あの時は観察する余裕もなかったけれど、部屋は壁も窓も厚い黒地の布で覆われていた。

 どっしりとした家具が並び、ベッドには暖かそうな毛皮がかかっている。

 木材の床は磨かれて輝き、簡素で威厳のある男性的な部屋だ。


「黒い布が光を遮るんですか?」

 カミールが尋ねると、伯爵はマントを椅子に掛けながらカーテンに目をやった。

「多少は。おまえが思っているほど、わたしは光に弱くはない」

 さっきは薄曇りの朝陽の下で平気な様子だった。巷で囁かれるヴァンパイア像と実際とでは、違いがあるのかもしれないとカミールは思った。


「わたしは何をすればいいんでしょうか」

「私の身の回りのことは、コナリーがする」

 伯爵は椅子に腰かけ、じっとカミールを見つめた。

「お前には自由をやろう。ラーベンへ行こうと何処へ行って何をしようと構わない。ただ、私が必要とする時はそばにいてもらいたい」


 必要とする時とはいつかと尋ねようとして、彼女は躊躇した。血が必要になった時だろうか。

 伯爵は彼女の表情を読み、微笑した。


「一つ仕事を頼みたい。ピエールのところへ行き、私の食事を貰って来てくれ」

 カミールは礼をして、部屋を辞去した。ピエールは裏庭の馬房のあたりにいるはずだ。食事というのは何だろう。


 馬房にピエールの姿はなかったが、裏手から物音が聞こえる。粗末な小屋に入り、カミールは目を見張った。

 中央に大きなテーブルが置かれ、狼から受けた傷がもとで死んだファンの馬が乗せられている。

 ピエールは、馬を解体していた。テーブルの周りに布が吊り下げられ、集められた血が皮袋に収められる仕組みになっている。血……。


「何をしているの?」

 彼女はピエールに尋ねたが、彼はにっこり笑うだけだった。


「血を集めているんですよ。伯爵様のために」

 コナリーが、せかせかと部屋に入って来た。テーブルの横に並べられた皮袋の一つを手に取り、カミールに渡す。


「これをお持ちください。後ほど奥をご案内致しましょう。伯爵様のお食事が、いますよ」

「食事がいる?」


 何がいるのだろうと不審に思いながら、彼女は主寝室に戻った。

 頑丈な丸テーブルに置かれた高価なガラスのグラスを、血で満たす。刺激臭が鼻をついた。

 椅子に座った伯爵にグラスを手渡し、一歩下がる。彼は一口飲み、グラス越しに彼女を見た。


「お前の生き血を飲むと思ったか?」

「いえ……はい」

 正直に答えることにした。

「あるいは、そういう可能性もあると思いました」


 伯爵は笑った。

「そんなことはしない」

 テーブルの横に立つ彼女は、黙って頷く。


「私が何故お前を気に入ったか、知りたいか?」

「はい」


 彼はカミールのほっそりした体を眺めた。金色と茶色の混じった不思議な髪の色。琥珀のように輝く瞳。意思が強そうな、時に優しさの浮かぶ顔立ち。凜とした少年のような姿。


「お前は私を笑わせてくれる。それは、貴重な資質だ」

「笑い……ですか」

 彼女は困惑した。冗談の通じない生真面目な性格で退屈だと言われたことはあるが、おもしろい人間だとは言われたことがない。


「今のままでいてくれ。私のために変わる必要はない。夜になったら連れて行きたい所がある。それまではコナリーの相手をしてやってくれ。お前に相談することがあるそうだ」

 仕事の内容など、コナリーと話し合わなければならないことは沢山あると彼女も思った。

「わかりました」

「ひとつ頼みがある」

 去りかけた彼女を引き止める。


「これからは私をキリアンと呼んでもらいたい。キリアン・デ・セルヴァ」

「キリアン様……ですね。承知しました」

 彼のフルネームを、彼女は初めて知った。

「様はいらないが、まあいい。いずれ変わる」


 ――どういう意味だろう。


 心の奥底まで見通すような彼の視線に落ち着かなくなり、カミールは急いで部屋を出た。手のひらが汗ばんでいることに気づき、自分を叱った。今からこれでは、先が思いやられる。伯爵は人間をからかって楽しんでいるのだ。いちいち反応していては、身がもたない。


 小屋に戻ると、ピエールが馬肉を集めて大きな皮袋に放り込んでいるところだった。

「馬肉をどうするの?」

 話しかけるが、彼はやはりにっこり笑うだけだ。どこからともなくコナリーが現れ、ピエールの代わりに答えた。


「馬肉は狼に分け与えるのです。彼らとて、生きていかなければなりませんから。――こちらへ」

 と手招きする。奥の扉をあけると中はだだっ広い部屋で、狼の入った檻が三つ並んでいる。


「年老いた狼を安楽死させ、血を抜き取るのです」

「それが伯爵の食事なんですね」

 彼女は、狼のぼんやりとした目を見た。死を覚悟しているかのようだ。部屋の地下には氷室が設えられ、氷の狭間に血の入った皮袋が保存されている。


「あなた様のお食事は、これです」

 塩漬け豚肉やハム、ソーセージが並んでいる。

「菜園もあります。小麦粉などの粉類は、厨房に保管されています。食事に関しては、アネッタに尋ねるとよろしいかと思います」

「わかりました」

 カミールは、コナリーの痩せた横顔を見やった。伯爵の血を飲んだのだろうか、血色がよく、生きた人間に見える。一度飲むと効果はどのくらい続くのだろう。


「あなたは、どのくらい前から伯爵に仕えているのですか?」

「もうじき90年になります」

 心なしか、コナリーが胸を張ったように見えた。

「そんなに。その前は何を……」

 言いかけて、カミールは言葉は詰まらせた。伯爵に仕える前から死んでいたのか、と聞いていいものかどうか。

 

「伯爵に初めてお会いした時、私は8歳の孤児で、ダブリンでスリをやって生計を立てていました。伯爵に拾われて、63歳で老衰で死ぬまでお仕えしました。死んだ後もです。思い返してみると……」

 彼は、遠い目をした。

「あっという間だったような気がします。死んだはずの私が生前と変わらず身の回りの世話をしていることを、伯爵はおもしろがっておいででした。興味本位でご自分の血を飲ませてくださったんです。そしたら……。いや、あれは大発見でした」

 驚いたことに、コナリーは嬉しそうに笑っていた。


 私もこの人のような一生を送るのだろうかと、カミールは沈痛な思いに落ちた。

 忠誠を誓ったのだから死ぬまで仕えるのが当然だけれど、何かが足りない。


「ピエールやアネッタもあなたと同じように、生前から仕えていたのですか?」

「いやいや」

 彼は、首を横に振った。

「伯爵が人間をそばに置いたのは、二度だけです。私とカーロと。あなたで三人目ということになりますな」

 じっと彼女を見つめるその目に期待の色があるような気がして、カミールは戸惑った。


 小屋を出て、驚いた。空は雲ひとつない快晴で、風もない。空気は肌を刺すほど冷たいものの、日に当たるとほんのりと温かい。

「伯爵様は大丈夫でしょうか。あなたも」

 カミールは空を見上げ、コナリーを振り返った。


「ご心配には及びません。伯爵様の部屋は殆ど光を通しませんし、伯爵様ほどのヴァンパイアになりますと多少の光には耐えられます。死者が光に弱いというのは、少し違いますよ。日が差すと見えなくなるというだけで、それとて伯爵様の血を頂いている私には当てはまりません。……さて、こういう日は城の掃除をするに限ります。さっそく始めましょう」


 コナリーと手分けして城の各部屋に風を通し、カーテンに箒をかけ床をモップで磨いた。

 昼前になり、何やらいい匂いがすると厨房をのぞくと、コナリーが黒パンを焼いている。

 入り口に彼女が立っていることに気づき、恥ずかしい場面を見られたとばかりにコナリーは顔を逸らした。


「……アネッタが来る前は、よくこうしてパンを焼いたものです。伯爵様は、アネッタの料理がお気に入りなのです。子供の頃、慣れ親しんだ料理を思い出すからと」

「伯爵様は、イタリアのご出身なのですか」

「ローマの貴族のご子息だったそうです。いずれ詳しいことは伯爵様がお話しになるでしょうが……」

 黒パンを切り分け、スープをつけて、カミールに勧める。


「あの方は、料理を召し上がるわけではないのですが、見て楽しまれます。これまでは、お客様も見えましたしね。宮廷に出入りしていた頃は、ほんの五年ほど前のことですが、よく貴婦人が見えました。伯爵様は用心されて滅多に人間を招待されることはないのですが、中には積極的なご婦人もいらっしゃるのです」


 カミールは、ラーベンの館を思い出していた。騎士に叙任される前、舞踏会や晩餐会で人手が足りない時は給仕を手伝った。

 ここではアネッタが料理を作り、コナリーは家令の役目を担っているようだから、自分とピエールが給仕をすることになるのだろう。


「正式な給仕の仕方を教えて頂けませんか。私が知っているのは、ラーベンの館で学んだことだけなのです」

 彼女は小さな木のテーブルの前に座り、コナリーを見上げた。彼は怪訝そうな顔をしている。


「どうしてです? あなたに給仕をしろとは、伯爵様はおっしゃらないと思いますが」

「ですが、客人が……伯爵が招待されなくとも、積極的な貴婦人が、もしも……」

 カミールは、顔を赤らめた。

「あなたは家令なのですから、私が給仕をすべきなのでは?」

「あなたにそんな事をさせたら、私が叱られます。掃除なら、まあ、許されるとしても。それに、これからはご婦人はいらっしゃらないと思いますよ」

「そうでしょうね。この森は危険で、ご婦人が来られるような場所ではなさそうですね」

「そういうことではなく……」

 コナリーはカミールの顔をまじまじと見て、溜め息まじりに首を振った。


 午後もカミールは、城の掃除をして過ごした。コナリーと手分けしても部屋の数が多過ぎる。殆どの部屋は使われていないようで、カビの臭いがした。


 木の窓を開け、空気を入れ換える。

 モップで床を磨いていると、フィーリア姫の守り役として召し抱えられたばかりの頃を思い出した。

 姫君の乳母の手伝いや姫君付きの小間使いの手伝いの他に、他の小姓や騎士見習いと一緒に掃除や館の雑用をこなし、合間に剣の稽古に励んだ。


 召し抱えられた時支度金として金貨を一枚貰い、8歳の彼女は鼻高々で父親に手渡したが、父親はその日の夜のうちに金貨を持って近くに住む若い女と一緒に村から逃げ出した。

 彼女にとって金貨よりも、父親が自分達を見捨てて行ったことの方が衝撃だった。


 父親は美男の小作農で、働かない女好きの怠け者と言われていたが、カミールは父親が好きだった。

 祖母から聞かされたという様々な冒険や英雄の物語を彼女に話してくれ、いつか村を出て冒険をするんだというのが口癖だった。その通りにしたのだろうと思う。


 もともと貧しかった家は父親の出奔でますます貧しくなり、母親は金貨を直接父親に渡した彼女が悪いと責めた。

 彼女は、月々もらう給金のすべてを母親に渡した。兄二人は兵士の見習いになっていたし、母親一人なら楽に暮らせるだろうと思ってのことだったが、母親は悪い遊びを覚え始めた息子二人に小遣いを与え、暮らし向きは少しも良くならなかった。


 勤め初めて一年が過ぎた頃、兄二人と母親に呼び出され、兄たちを彼女と同じ小姓として召し抱えてもらえるよう取り成してくれと頼まれた。

 小姓でなければ、将来騎士にはなれない。騎士と兵士とでは、身分に雲泥の差がある。

 しかし、取り成すことなど出来るはずがない。ラーベンの領主が決めたことに異議を唱えることは許されない。彼女が無理だと言うと、母親は激怒した。


 以来兄達とも疎遠になり、何とか関係を修復したいと思いながら月日ばかりが経ち、2年前兄は二人とも戦死した。

 母親は、騎士のように質の良い馬と頑丈な鎧が与えられたなら、死なずにすんだのにとこぼした。

 彼女が騎士の叙任を受けると、どうして息子二人が死んだのにお前は出世するんだ、神様は間違ってると言った。

 彼女はそれまでと変わらず月々の給金を母親に渡し、たんまり貯め込んだ母親はそれを持参金にして、遠くに住む男と再婚した。

 彼女に、別れの挨拶はなかった。


 自分の顔が父親そっくりでなければ、状況は違っていただろうと思う。母は父を心から愛し、心から憎んだのだろう。

 ごく若い頃はそれに気づかず言葉を尽くしたし、いつか家族団らんの時が迎えられると信じていた。でも、その時は永遠に来ない。


 孤独――――自分があれほどまでにフィーリア姫に執着したのは、孤独だったからだと思い当たった。

 セルヴァ伯爵の険しい顔が心に浮かぶ。彼もまた孤独を抱えている。だから人間をそばに置こうとするのだろう。


 彼に惹かれるのは、孤独な魂が共鳴し合っているからなんだろうか。フィーリア姫には両親がいる。伯爵が寂しそうに見えることも、彼に仕える気になった理由の一つだろうか。


「考えごとか」

 飛び上がるほど驚き、彼女の手からモップが音を立てて落ちた。カミールは目を細めて伯爵を睨み、彼はくくっと笑う。


「悪かった。もう夜だぞ。出かけるから支度をしろ」

 中庭に出ると、空に星が輝いている。空気は澄み渡り、木々の濃厚な香りが心地良い。


「夕べからいい天気ですね」

 彼女は彼の後に続き、跳ね橋を徒歩で渡り、巨木の間を歩いた。乾いた下生えがさらさらと揺れている。


「私にとってはいいとは言えないが、楽しんでもらえたなら何よりだ」

「はい、とても」

 伯爵は彼女を見て微笑んだ。


 巨木を抜け、潅木の間の小道をしばらく歩くと、前方にきらきらと輝くものがあった。

 一本の巨大なモミの木だ。枝々に小さな光が宿り、点滅している。中には青い光や薄黄色の光もある。カミールは言葉を呑み、そばに近寄った。

 光を放つものは、様々な動物や植物の形をした小さな生きものだ。それは時間の経過と共に別の形に変わっていく。


「これは……精霊ですか」

 声が震えた。小さなおびただしい数の精霊が、点滅する光を発しながら一本のモミの木を飾っている。


「精霊の木とも精霊の寝床とも呼ばれている。木の根の下は、地下世界への入り口だ。毎年冬至になると、地下から邪悪な者どもがのぼってくる。それを防ぐために植えられた木がこれだ。眠りについた精霊がこの木に集まって木に力を与え、木から新たな力を与えられる。ラスもどこかにいるはずだ」


 カミールは探し、あっと声を上げた。

「ラスがいました。でも……変ですね。鷲に姿が変わりました」

「子犬の前は、鷲だったのだ」

 掌大の鷲の形をした光がしばらくすると雄ライオンに変わり、やがて美しく輝く青年になった。


「美男の妖精だったというのは、本当だったんですね」

 彼女ははっとするほど美しい、ラスの本来の姿にみとれた。――――フィーリア姫に見せたかった。


「ラスのように眠りについた精霊が、こんなに沢山いるんですね」

「もっといるぞ。世界中にこういう木が何千とあるのだから。いつか連れて行こう」

「はい。ぜひ」

 彼女はにっこりと伯爵に笑いかけ、精霊の木に目を戻した。

 まばゆい光が木全体を包み込み、神聖な温もりとなって心に沁み入ってくる。心の底から喜びがこみ上げ、小さな悩みや苦悩を消し去っていく。


「おいで」

 伯爵が手を差し出し、カミールはとまどいながら彼の手にそっと手を置いた。あっと思う間もなく引き寄せられ、抱きすくめられる。彼女の足が地上を離れ、二人はふわりと浮き上がった。


「しっかりつかまっていろ」

 耳もとで伯爵が囁き、彼に強く抱きしめれたまま、ぐんぐん夜空を昇っていく。

 彼の腕の中から首を伸ばし、カミールは下界の景色を眺めた。


 輝くモミの木が小さく見える。黒々としたモージュの森が下方に去り、森の遥か上空で二人は止まった。

 コルバイン村は白い陶器の小皿のように小さく見え、バリー公の領地が地平線まで広く見渡せる。

 ラックの町の明かりが星明りに呼応するように輝き、夜露に濡れた草原がきらきら光っている。


「何て素晴らしい」

 彼女の口からため息が洩れた。

「鳥になった気分です」

「気に入ったなら、また連れて来よう。夜だけなのは残念だが」

 彼女は伯爵の肩に頬を寄せた。こうしているととても安心でき、美しい風景を二人で眺めているのが楽しい。


 ラックの町の外に篝火が見えた。夥しい数の人間が、野営をしている。軍隊……! カミールははっとして顔を上げた。

「サンジュアン卿の部隊だ」

 彼女の視線の先にあるものを見て伯爵が言う。彼女にとって聞き覚えのある名前だ。確か国王の側近だったはず。


「サンジュアン卿が何故ラックにおられるのです?」

「理由は二つある」

 伯爵は、彼女の顔をのぞき込んだ。

「どうやらシャルルの宮廷人達は、私の正体に気づいたようだ。調査のためにサンジュアンを派遣した。場合によっては、住居を変えなければならない」

「どちらへ行かれるのです?」

 彼は微笑んだ。

「何処へ行きたい? お前の望む所へ連れて行こう」

「望んでもいいのですか」

 彼女は、顔を輝かせた。

「ラーベンの近隣から出たことがないのです。……もう一つの理由というのは?」

「バリーとドートリーユの戦いを終わらせるためだ」

 彼女は絶句した。戦いが始まった……。


「ラーベンは……無事なのでしょうか」

 カミールは、伯爵の背中に遮られた方角、ラーベンの方へ首を伸ばした。小さな森が幾つも重なり、その向こうに煙が見える。まさか……!

「ラーベンまで行けませんか」

「行かない方がいい。見ると記憶に刻み込まれてしまう」

 彼は深く蒼い目を彼女に向けた。

「見ない方がいいものもある」

「どうしてもラーベンへ行く必要があるんです。ラーベンは……」

 故郷だ。滅びてしまったのだろうか。カミールは言葉を詰まらせ、伯爵に願いを込めた視線を向けた。


「どうかお願いです」

「ラーベンまで飛ぶには力が必要だ。そのためには人間の血を飲まなければならない」

 カミールは息を呑み、言った。

「私の血を差し上げます」

 伯爵の顔が暗く陰る。

「忘れるな、その言葉を」

 言うなり彼女を抱く腕に力がこもり、彼女は風を顔に受けて息ができなくなった。下方の景色が急激に変わり、ラーベンに向かって一気に飛んだ。


 ラーベンは、変わり果てていた。質素だが堂々とした佇まいの館は焼け落ち、所々で燻った煙が立っている。

 小麦畑も果樹園もなくなり、黒々と焼け爛れた荒地と化している。館の石塀のまわりに点在していた小作人の家の多くが焼かれ、遠目には乱雑に組まれた薪のように見えた。


「そんな……!」

 カミールは、言葉を失った。

「アンリ様は……奥方様は……」

 

 伯爵は遥か下方に目をこらし、カミールの目では見えないものを見ていた。館の焼け残った柱に吊るされた、領主と妻の遺体。彼は、瞠目した。

「二人とも、亡くなられたようだ」

 カミールの両目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。

「これ以上は見るな」

「はい」

 彼女は伯爵の肩に額をつけ、肩を震わせて涙をこらえた。


「敵がラーベンを占拠している。理由はわからないが、同盟を結んでいたはずのドートリーユ伯はラーベンを助けなかった。ラーベンに戻っていれば、お前たちも死んでいただろう」

「でも領主のために戦うことはできました」

 彼女は顔を上げ、伯爵の厳しい目を見返した。伯爵はため息をつく。

「恨むなら、お前たちを城に留め置いた私を恨め。でなければ、バリーかドートリーユか。間違っても自分を責めるな。お前にできることは、何もなかった」

 彼は彼女の目に唇をつけ、涙をぬぐった。

「さあ、もう行くぞ。戻るにはお前の血が必要だ」


 伯爵はカミールの琥珀色の目をのぞき込み、ほつれ毛を優しく払った。顎に指をかけ、優美な顔を傾ける。彼女の唇に羽のように軽く口づけ、そっと唇を離した。カミールはとまどうように彼の唇から謎めいた目へ、視線を走らせた。


 彼が彼女の唇に軽く牙を立て、わずかな血を吸い込んだ。カミールは、自分を見失いそうな気がした。唇にちくりと一瞬の痛みを感じた後は、何も考えられなくなった。

 伯爵が、微かに震えている。黒ずんだ瞳が危険な色を放ち、彼女を見つめている。

 整った顔に獣性が漂っている――――。危険な人だと、カミールは心の底から思った。そんな彼に魅せられて目が離せない。


「行くぞ。つかまっていろ」

 カミールは目を閉じ、伯爵の胸に顔をうずめた。呼吸が苦しくなり、急に楽になったかと思うと、二人は伯爵の城の上空を漂っていた。


「モミの木のそばに、魔物の発生する場所はありませんか」

 彼女は尋ねた。

「魔物が霧のように流れ、ラーベンの方へ向かうのを見たのです」

 彼は彼女をじっと見て、首を振る。

「人間には行けない場所だ」


 突然、鳥の羽ばたきに似た音が夜空に響き、二人ははっと首を巡らせた。モミの木にいた精霊たちが、大量の鳥のように飛び立った。数百もの光の粒が木の上空を漂い、ふっと消える。


「どうしたんでしょう」

 カミールは不安になって、伯爵に尋ねた。

「わからない」

 伯爵は彼女を抱いたまま、モミの木のそばに降り立った。


 ラスの姿をした光が、枝にすっぽりと収まって眠っている。他には、光る精霊が数体。

 殆どの精霊たちが姿を消していた。伯爵は、厳しい顔つきで木の根もとを眺めた。


 いい知れない悪い予感が、彼の心を蝕む。

 伯爵は目を閉じ、自分に備わる全感覚を使って遥か遠方まで気配を探った。

 カーロに似た気配。その向こうに微かに感じる、おぞましい女の気配。――エリザベートか? あの女がモージュの森に気づいたのか。


 伯爵は不意に、カーロは何故私のところへ来たのだろうと思った。

 今となってはわからないが、何が起きたのか。伯爵はカミールの肩に両手を置き、見下ろした。


「今後は一人でここへ来るな」

「はい」

 と答えながらもの問いたげに見つめるカミールに、彼は首を振る。

「私にもわからない。良くない何かがこちらに向かっている」


 カーロの仲間だろうか、と伯爵は考えていた。それとも、エリザベートだろうか。

 正体不明の魔物が近づき、木の下にいる邪悪なもの達が反応している。精霊たちは怯え、逃げ出してしまった。


 木と精霊がそうであるように、魔物と地下世界は互いに力を与え合い、助け合うものだ。

 自分もまた地下世界と共生関係にあり、長く住めば住むほど森は暗い魔物の世界に姿を変えた。

 それを住み心地がいいと感じながらも精霊に心惹かれ、目の前の人間の娘を大切に思っている。


「お前は危険に近づくな」

 伯爵は願いを込め、カミールを見つめた。

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