第4章 忠誠の誓い
パーベルはボルトを従え、西に向かった。
方角と距離は、塔の頂上に登っておおよその見当をつけてある。
今は昼間で狼の動きは鈍いはずだ、あとは回りに気をつけるだけだと、自分を勇気づけた。
彼は昔から、カミールが嫌いだった。
子供の頃は一つ年下の彼女に剣で負かされ、苦汁を飲んだ。
長じてからも剣の腕は自分の方が上なのに、フィーリア姫の守り役という肩書きのせいで自分は格下扱いだった。
そして今回、隊長に選ばれたのは自分ではなく彼女だ。
しかしこの森を生きて抜け出し、無能な女のせいで何人もの兵士が死んだと進言すれば、立場が逆転するだろうと彼は考えた。
ついでにこの手でフィーリアを救い出せば、フィーリアの婿になれるかもしれんとほくそえむ。
ランタンをつけていても濃い霧が行く手を阻み、パーベルは舌打ちした。
「ボルト、離れるなよ。いったん離れたら、探してやれないぞ」
「ああ」
ボルトは、冷静にあたりの気配を感じ取った。
「獣の臭いがするぞ」
パーベルはぎょっとし、馬の歩みを止め、まわりを見回した。
何も見えないが、音が聞こえる。
葉の揺れる音。ひたひたと近づいてくる足音。はっはっとせわしない息遣い。
パーベルの全身に汗がにじみ、伯爵の部屋から持ち出したマントを強くつかむ。
前方にぼんやりと光る目が浮かび、震える手で剣を抜いた。
ずんと鈍い衝撃を体に受け、隣にいるボルトに首を巡らせた。
「俺が逃げる時間を稼げ」
言い放つボルトの剣が自分の腹を刺し貫いているのを、信じられない思いで見た。
「何をする……」
パーベルが言い終わらないうちにボルトは彼を馬から蹴落とし、伯爵のマントをつかんで一目散に駆け去った。
パーベルと彼の馬に狼が群がった。
剣を振ろうとする腕に、血の滲んだ首に足に狼が喰いつき、パーベルは叫んだ。
狼に埋め尽くされた彼の体はどうっと倒れ、永遠に続くかのような長い絶叫をあげながら死に物狂いでもがき、やがて静かになった。
後には肉を引き裂き、血をすする音だけが残った。
カミールは伯爵の後について馬を走らせた。
厚い雲の下、森は闇に包まれているが霧が晴れ、ランタンで照らし出された視界は極めてはっきりしている。
前方に狼が群がっている物を見つけ、彼女ははっとした。
人間の原型を留めていないそれは、衣服からみてパーベルらしい。
手前で馬を止め、カミールは込み上げる吐き気に耐えながら目を逸らした。
「ボルトがこの者を剣で刺し、餌として狼に差し出した」
彼女は鋭く息を吸い込み、横で馬を御す伯爵を見上げた。
「この者とて同じことを考えていたのだろうが、ボルトに先手を打たれたのだろう」
伯爵の暗い目を見返しながら、人間の暗黒の面ばかりを見続けるのはどんな気分だろうと思う。
「それでも、ボルトを探してください」
「奴は罪人だ。自ら罪を購う立場にある」
唇を噛みしめ、彼女は静かに言った。
「探し出し、裁きを受けさせます」
「お前のいう家族とやらが、辛い立場に追いやられるのではないか。罪人の家族だからな。このまま森で人知れず死なせた方が、家族のためにはいいのではないか」
伯爵の言葉が、カミールの胸に冷たく突き刺さった。
ラーベンの法は厳しい。ボルトの家族は罪人の家族として、蔑まれるだろう。パーベルの家族は、ボルトと彼の家族を憎むに違いない。
伯爵が言うようにボルトは自分で罪を償い、家族には何も知らせない方がいいのではないだろうか。
知らない方が幸せなこともある。
でも……そんなことを決める資格が、わたしにあるんだろうか。
それにもしわたしが家族の立場だったら、真実を知りたいと思うだろう。
どんなに酷い真実であっても。
「信じたいんです」
カミールは、逡巡しながら言った。
「すべてを明らかにしても、皆が最善の道を選ぶと。家族に罪はありません。ボルトの家族に辛く当たる者がいるかもしれませんが、それは間違っていると諭す者もいるはずです。誰もが良心に従って生きる道を選ぶ可能性もあります」
伯爵の端整な顔に、苦笑が浮かんだ。
「お前の人間への信頼に敬意を表し、ボルトを探してやろう。間に合えばいいが」
セルヴァ伯爵は馬に鞭をあて、先に進んだ。
カミールは焦った。間に合わないかもしれない――?
ボルトは馬を走らせながら、独り言を繰り返していた。
「パーベルを馬から突き落としてやらなければ、こっちがやられていた。あんな小僧の考えることなどお見通しだ、こっちは奴の倍近く生きて来たんだ」
木々をかき分け、獣道を進む。森から出られる方角は、彼もまた塔の上から見当をつけていた。
自慢の鼻をひくひくさせ、臭いを嗅いだ。腐った泥の臭いが鼻につく。
「森で迷った時、こういう臭いの沼を見かけたぞ。あれは底なし沼に違いない」と呟きながら手綱を引き、馬を止めた。
目をこらすと鬱蒼と茂る木々の彼方、ランタンに照らされた先に悪夢のような黒い沼がある。
「思った通りだ。迂回すれば森から出られるはずだ」と辺りを見回した。
沼の手前の木の根もとが明るい光の色から黒に変わり、その手前もそのまた手前も順に黒い色に変わっていく。
ボルトはぎょっとしてさらに目をこらし、黒い沼の色が自分に迫っていることに気がついた。
周囲を見回すと、沼が自分を囲んでいる。
馬の足もとがぶくぶくと泡立ち、急激に水かさが増した。
ボルトは恐怖の叫び声をあげながら、馬を走らせた。
馬は泥に足をとられ転倒し、沼に投げ出された彼はすぐさま立ち上がる。
必死に走ろうとするが、泥にずぶりと沈んだ足が持ち上がらない。
どんどん水かさが増し、腰まで来た。彼は、泣いた。助けてくれと泣き叫んだ。肩まで沼に沈み、声を限りに叫んだ。
「ボルト!」
馬から飛び降り走り出そうとするカミールの腕を、伯爵がつかむ。
「間に合わん。お前も沈むぞ」
「黙って見ているなんて、できません」
剣を抜き、木の枝を切ってボルトに差し出す。
ボルトがつかむと足を踏ん張り、力いっぱい引っ張った。
死に物狂いで枝にしがみつくボルトに引きずられ、カミールはずるずると沼に引き寄せられていく。
伯爵は低い声で悪態をつき、カミールの細い腰に腕をまわした。
二人がかりで引き、ボルトの体が少しずつ沼から出てくる。
ボルトが命綱の枝を必死の思いでつかみ直した時、枝がぽきりと折れた。
反動でカミールは伯爵の腕の中に倒れ込み、ボルトは顔から沼に突っ込んだ。
ぶくぶくと泡が浮き上がり、黒い沼が彼を呑み込む。
駆け寄ろうとするカミールを、伯爵が両腕で抱えて止めた。
「もうよせ。終わった」
ボルトの姿はどこにもない。また一人、部下を死なせてしまった。
「わたしは隊長失格だ……」
「お前のせいではない」
天を仰ぎ涙を堪える彼女の肩に手を置き、伯爵はしばし彼女を見つめた。
やがて彼女に背を向け、先に立って歩き、馬の手綱をとって振り返る。
「フィーリア姫をこの森から出してやろう。ファンとかいう酒好きの男も。ただし条件がある。お前は残れ」
事情を呑み込むのに、一瞬の間があった。
「それは、わたしがあなたに仕えるという意味ですか」
「そうだ」
カミールの胸の底から、じわじわと怒りが湧き上がった。
この人の力をもってすれば、全員を助けることも出来たのではないか。
パーベルとボルトも助けられたはず。
だのに――――。
「あなたがなさっている事は、脅しです」
彼はにやりとした。
「いや。駆け引きだ。欲しいものを手に入れるためには、必要な手段だ」
「わたしは物ではありません」
頬を赤く染め、彼を睨みつける目が怒りで爛々と輝いている。
伯爵は微笑し、指で金茶色の髪をそっと撫でた。
彼の唇に鋭い牙が垣間見え、カミールははっとした。
「あきらめろ。私は必ずお前を手に入れる」
彼女を見下ろす蒼い瞳が黒っぽく陰り、何かの感情を湛えている。
渇望だろうか。
彼はわたしの血を求めていると気づき、カミールは凍りついた。
伯爵に仕えるということは、血を提供するということなのだ。
「考える時間をください」
「時間なら充分に与えたぞ。四日間、わが居城が人間の血の匂いに満たされるのを耐え忍ばねばならなかった。私はお前たちに手出しをしなかったぞ」
「わたしたちは、気の毒な客だと思っていました」
カミールは、伯爵を鋭く見上げた。
「人間は妙なるご馳走だ。我々は餌と呼んでいるが。これ以上いられると血をすすりたくなる。とりわけあの小さな姫君は、さぞ美味だろう」
「フィーリア様を傷つけたら、容赦しませんよ」
彼女は本気で伯爵と戦うことを考えた。だが負けたらフィーリアはどうなるだろう。最も安全な方法をとるべきだ。
「自分か姫君か、どちらかを選べと言っているのだ。自分が大事だと言うなら、無理強いはしない」
彼女は奥歯を噛み締めた。
そんな選択を迫るどんな資格が彼にあると言うのだろう。
彼は魔物でヴァンパイアで、今は優位に立っている。
弱いものが強いものの餌食になるのは、世の常だ。
それでも尊大な態度で見下ろし傲慢な要求をつきつける伯爵の顔を、思いっきりひっぱたいてやったらどれほどすっきりするだろうと想像し、そんなことをしても何の解決にもならないと思い直した。
「馬に乗れ。城に帰り着くまでに返事をしろ」
命令する口調が、カミールの神経を逆なでする。
――――わたしはバンクリーズ家の家来だ。伯爵の家来じゃない。
馬に歩み寄りながら、彼女はふと思いついた。
この四日間彼が殆ど姿を見せなかったのは、わたし達を傷つけないためなのではないか……。
まさか。魔物に人間らしい感情があるとは思えない。
そんなことより、フィーリアをこの森から出すことを考えなければ。
狼は伯爵を避ける。彼は森のどこに何があるかを知っている。
伯爵の助けがあれば、この森から出られる。
姫の安全のためなら、どんなことでもしよう。選択の余地はない。
「わかりました」
カミールは、覚悟を決めた。
「わたしは城に残ります」
伯爵はにやりと笑い、無言で馬の首を帰り道に向ける。
カミールもまた無言で彼の後に続いた。
城の中庭に着くと、コナリーがカーロだった砂の山を手ですくい木箱に入れていた。
伯爵は馬を止め、険しい表情を浮かべた。
コナリーの悲しげな目が、蒼い目に射抜かれて揺らぐ。
哀願するように伯爵をみつめる彼に一瞥をくれて、伯爵は馬房に向かった。
コナリーはじっと砂を見て、再びすくい始める。
カーロは何者なんだろう。カミールは伯爵に尋ねようとして、やめた。
厳しい顔をしている時の彼は近寄り難い。
いずれわかるだろうと、質問を呑み込んだ。
厨房の隣の使用人部屋でフィーリアはベッドに腰かけ、ラスの黒い斑点の入った白い毛を撫でていた。
そばにアネッタが立っている。
カミールと伯爵が部屋に入ると、フィーリアは顔を輝かせた。
「ラスがついさっき、目を覚ましたの」
カミールの表情に気づき、眉を曇らせる。
「何かあったの? パーベルとボルトは?」
カミールは、力なく首を横に振った。
「助けられませんでした。でも……フィーリア様は聖カタリナ修道院に向けて、出発することができます。もうすぐおばあ様に会えますよ」
「出発? ラスも一緒に?」
フィーリアは期待でいっぱいの視線を、カミールと伯爵に向けた。
「わしは行けんよ」
ラスはベッドに大の字になって横たわっている。
「わしは日の光を浴びることができない。この城で暮らすのが一番いい」
「どうして日の光を浴びられないの?」
フィーリアはがっかりした。
「退化した精霊だからだ。日の光は体に悪い」
「じゃあ、私もここに住むわ。そしたら毎日ラスと遊べるもの」
「それも難しい。わしにはもう、この体を維持する力が残っていない。この体を手放して、しばらく眠らねばならん」
「どういうこと? 死ぬっていうこと? 私のせいね。私を助けたからでしょ?」
今にも泣きだしそうなフィーリアに、ラスは笑顔を向けた。
「違う違う。しばらく眠った後、別の体で目覚めるということだ」
「別の体って、どんな?」
「そうだなあ。おそらく日の当たらない土の下の生き物だな。美男の妖精としては、プライドの傷つく姿だ」
そう言ってむすっと黙り込む。
「ずっと昔、天上に住んでいたと話していたな」
伯爵が言う。
ラスに向ける彼の視線は限りなく優しいと、カミールは意外に思った。
「天上?」
フィーリアの目が輝いた。
「神様だったの?」
「いやいや」
ラスは苦笑した。
「ただ住んでいただけだ。美しいところだったが、ある日地上を見下ろしたら地上はもっと美しかった。色が鮮やかでな。天上の色は、どこかぼんやりしていた。今じゃ地上の色も見ることはできんが」
光がなければ色は見えない。
「もう一度青空が見たいものだ」
ラスの言葉に伯爵の目が曇るのを、カミールは見た。彼も青空が見たいんだろうか。
「天上とやらに戻り、もとの美男の姿とやらを取り戻して、もう一度地上に降って来たらどうだ」
伯爵の優しい声。
「降るって? 精霊は降るものなの? 雪みたいに?」
「そうとも。かつては夏至の頃になると宝石のようなきらきら輝く精霊たちが、雪が舞い降りるように地上に降り注いだものだ。今じゃそういう事もなくなった。人間が増え過ぎて、精霊の住む場所がなくなったからな。そうだなあ、天上に戻るか地上に留まるか、思案の時だな」
「美男の精霊より、土の下の生物を選ぶかもしれないの?」
フィーリアは目を丸くした。
「土の下の生物って、ミミズか何か? お喋りできる?」
「何だかんだ言っても、ラスは人間が好きなんだよ。特に魔女が。だから地上に留まろうとする」
「馬鹿言うな」
ラスは伯爵に反駁した。
「誰が魔女など」
「でもおばあ様はラスが好きだったわ。そう話してらしたもの。ラスが大好きだったって」
ラスは黙り込んだ。しばしの沈黙の後、認め難いことを渋々認めるように言った。
「わしも、カトリーヌが好きだった。……さあ、そろそろ眠るとするか。おい、若造」
伯爵に顔を向ける。
「準備してくれ」
伯爵は深いため息をつき、いつの間にか部屋の隅に立っていたコナリーに目配せした。
コナリーは部屋から出て、大きな木箱を抱えて戻って来た。
蓋を開け、ラスを抱き上げ箱の中にそっと降ろす。
蓋を閉めようとするのを、フィーリアが止めた。
「駄目。これじゃあ棺桶みたいだわ。眠るんでしょ? ラーベンの館に地下室があるわ。そこで眠るといいわ。ね?」
「また会えるよ、お姫様。強く願えば、また会える」
コナリーにうなずきかけ、ラスは目を閉じた。コナリーは蓋を閉じ、箱を抱え上げた。
裏庭に穴を掘り、木の箱をそっと降ろす。砂をかけているうちに、フィーリアは泣き出した。
「お墓みたいだわ。ラスはやっぱり、死んだんだわ」
カミールは姫君を抱きしめ、伯爵を見やった。
「人間から見ればそう見えるかもしれん。だが精霊から見れば、魂がひとつの体から別の体に移るだけのことだ」
伯爵は膝をつき、フィーリアに目を合わせた。
「強く願えばまた会える。ラスは人間の願いを無視するような奴じゃない」
フィーリアは鼻をすすりながら何とか微笑もうとしたがうまくいかず、カミールの腕の中で声を上げて泣いた。
夜になりフィーリアが泣きながら眠りについたのを見届け、カミールはそっと部屋を出た。
中庭に出て、驚いた。空に満天の星が輝き、木々が微かな風に揺れている。
星空を眺めた後、眠る前に馬の様子を見ておこうと裏庭に回ると、塔の向こうでコナリーが何かを埋めていた。
「手伝いましょうか」
カミールは声をかけた。コナリーは彼女をじっと見て、首を横に振る。
彼は土をならし、杭を立てていた。墓標のようだ。
「どなたなんです?」
カミールは尋ね、内心答えてもらえないものと諦めていた。
「息子です……私たちの」
「息子?」
驚いて彼の顔を見る。
「わたしたちというのは……」
「伯爵様のお許しを得られないので、名前を刻むことができません」
コナリーの皺に覆われた顔が、わずかに歪んだ。泣いているのだろうかとカミールは口を閉ざし、彼の隣で頭を垂れた。
「カーロは、伯爵様と私が育てたのです」
いつもの無表情に、苦痛の色が見える。
「生まれてすぐアンダルシアの山に捨てられていたのを、伯爵様が山犬の餌になるよりはヴァンパイアの餌食になる方がいいだろうとおっしゃって、拾われたのです」
「人間の赤ん坊を育てたのですか。……ヴァンパイアにするために?」
「いいえ」
コナリーはきつい視線を彼女に向けた。
「カーロは成人してすぐ黒死病にかかり、死にかけたのです。それで伯爵様は……」
「……やむなく、ヴァンパイアに変えた」
コナリーがうなずく。
「それまで、そんなことは一度もなさいませんでした。大抵のヴァンパイアは仲間を作ろうとするのですが、伯爵様はそうはなさらなかった。しかし、カーロが死にかけているのを見ていられなかったのでしょう」
彼は、ため息をついた。
「今にして思えば、死なせた方がよかった……」
「何故です?」
コナリーはうつむき、組んだ手を震わせた。
「カーロはヴァンパイアというより、けだものになったのです。心を失い、殺戮を楽しむようになりました。伯爵様は、裏切られたとお思いになったようです。今でもそう思っておられるでしょう。カーロと縁を切ったのです。2年前、彼がこの森に現れるまでは」
「2年前……村人が襲われ始めた年ですね。8人の村人を殺したのは、カーロなんですか?」
苦悩に顔を歪めながら、コナリーがうなずく。カミールは首をかしげた。
「村人のこともそうですが、何故カーロはフィーリア様たちを襲ったのでしょう。伯爵の城でそんなことをすれば怒りを買うと、分かっていたと思うのですが……」
――――それに伯爵は何故、2年もの間カーロを排除しなかったのだろう。
力なく首を振るコナリーを見ながら、伯爵はカーロを大切に思っていたのではないか、できれば殺したくなかったのではないかとカミールは思った。
だが、わたしたちを助けるために殺した。
カーロの方は躊躇している風だったのに、伯爵には一片の情けも無かった。
伯爵の心の中には優しさと冷酷さが混在していると彼女は感じた。激しさも――。
伯爵の口もとに牙が見えたことを思い出し、怒ると牙が現れるのだろうかと思う。
それでもわたしは彼と共に城に住むことになり、彼には借りがある。
彼がわたしたちを森で迷わせ城に招き入れたのだとしても、狼やカーロから命を助けられた恩義がある。
受けた恩義は、返さなければならない。
「話してもらえてよかった」
カミールは、コナリーの薄茶色の目を見た。
「わたしには伯爵がよくわかりません。この城に住む以上、あなたの力が必要です」
コナリーは何も言わず、じっと彼女をみつめ返した。
馬の様子を見て大広間に戻ると、伯爵が主の席にゆったりと座りワインを飲んでいた。
カミールは彼に歩み寄り、頭を下げた。
「出発は、明日の早朝だ」
彼が低い声で言う。
「早朝、ですか」
ヴァンパイアが朝に活動するのだろうか。彼が飲んでいるのはワインで、血以外のものも飲めるようだ。
彼女の考えを推し量ったように、彼は微かに笑った。
「他にも色々とお前を驚かせることがあるかもしれんな」
カミールは伯爵をじっと見た。魔物を主君にして、わたしはわたしでいられるだろうか。
「あなたは高潔な方でいらっしゃいますか?」
「魔物に高潔さを求めるのか」
「はい」
彼は苦笑した。
「どうやら仕えるのは、私の方らしい」
「いいえ。無理強いはしません。決めるのはあなたです」
彼の蒼い瞳が、彼女を厳しく見据える。
琥珀の瞳が彼を捉え、戦いのようにみつめ合い、やがて彼はため息をついた。
「わかった。せいぜい努力しよう。それでいいか?」
彼女の顔に笑みが花開いた。
カミールは彼の前で膝をつき、頭を垂れた。
「あなたにお仕えします。あなたを主君とし、あなたに忠誠を誓います」
伯爵は誓いの言葉を述べる彼女に歩み寄り、肩をつかんで立たせた。
「魔物に誓う必要はない」
彼女を見下ろし、ふっと笑う。
「お前は私の意表をつく」
彼は 一歩下がり、彼女を見つめた。
「私は魔物だ。お前を傷つけるかもしれない。それを忘れないことだ」
「貴方がわたしを傷つけるとは思えないんです」
この人は人間の心が捨てきれなくて、苦しんでいるのではないかと彼女は思った。
ならば故意に人を傷つけることはしないだろう。
伯爵の表情が厳しくなった。
「私を信じない方がいい」
彼はそう言い残し、大広間から出て行った。