第3章 死者と精霊 Ⅲ
セルヴァ伯爵は服を脱ぎ、体にこびりついたカーロの血の臭いを布でぬぐいながら、心の中で自分を罵っていた。
とっくの昔に人間の感情は捨て去ったはずなのに――――。
2年前、カーロが森に住みついた時は放っておこうと思った。
奴とは20年も前に縁を切っている。
奴が村人を襲い生き血をすすっても、関心はなかった。
だのにカーロがあの娘に牙を突き立てようとした時は、心の底から怒りがこみ上げた。
カミールは、私の獲物だ。横取りはさせない。
気がついたら激情に駆られ、奴を殺していた。
そして今赤ん坊だった頃の奴を思い出し、感傷に浸っている。気分が悪い。
苛立ちが募り陶器の壷を壁に叩きつけると、扉を叩く音がした。
「入れ」
開いた扉の向こうにあの娘、カミールが立っている。
「突然、申し訳……」
カミールは上半身裸の伯爵を見て、慌てて目を逸らした。
仲間の騎士たちは彼女にはおかまいなしに着替えたし、上半身裸の男は見慣れているはずなのに、彼女は顔が熱くなった。
伯爵は探るように彼女を見て、言った。
「彼らは自分の決めた道を進んでいるだけだ。お前には関わりのないことだ」
カミールははっとした。
「見えるんですか。ここにいながら、パーベルたちが?」
伯爵は黙って体をぬぐっている。
「教えてください。彼らは森から抜けられるでしょうか」
「無理だろうな」
「どうしてそう思われるんです? わたしたちが森で迷ったのは、あなたの力があったからですか? この天候の悪さもあなたの力ですか」
「違う」
彼は低い声を響かせ、蒼い目で彼女を凝視した。
「私がこの森を支配しているのではない。森が私を支配している。私が望んでも森は拒否し、自らの意思を私に押し付ける」
伯爵は深いため息をついた。
「お前たちが森で迷ったのは、私がこの城に導こうとしたからだ。森はそれを拒み、お前たちを惑わせ、滅ぼそうとした。天候の方は……そうだな、多少は私の気分が影響するかもしれん」
「よくわかりません。この森はあなたの何なのです?」
彼は黙ったまま布を放り出し、かけてあった新しい長衣に腕を通した。
答えないつもりだろうかと彼女が思いかけた時、彼は振り返って言った。
「呪い、かな。お前が思っているほど、私は自由ではない」
森に呪いをかけられて黙って引き下がる人には見えないと、カミールは伯爵の若く厳めしい顔を見上げた。
伯爵自身が気づかないうちに、森を要塞に変えてしまったのだろうか。
自分を守るために。
だがそれを支配できないとは、どういうことだろう。
「お願いです。あなたの助けが必要です。パーベルたちが森を出られないのなら、せめて命を助けてください。迷えば命を落とします。狼がいるし、底なし沼も見かけました。この森は危険です」
彼女は必死の願いを込めた。
「答は最初に言ったぞ。彼らが自分で決めたことだ」
「それなら、彼らが向かった方角を教えてください。わたしが行きます」
彼は彼女をじっと見る。
「自分をよく思わない者を、何故助ける?」
「それは……」
パーベルには、何度も嫌な思いをさせられた。
それでも、これ以上部下を死なせたくない。
狼に食い殺された部下たちの弔いもしていないのだ。それに……。
「彼らには家族がいます。彼らが戻らなければ、家族が悲しむでしょう」
伯爵は、皮肉な笑みを浮かべた。
「家族か。人間には、そういうものがいたんだったな」
長衣のボタンを留める伯爵を、カミールは目を伏せて待った。
黙り込んだ彼の次の言葉を、辛抱強く待つ。
やがて彼女に向けられた黒い瞳に感情がうかがえず、カミールは覚悟を決めた。一人で行くしかない。
「馬を二頭、出しておけ」
伯爵の低い声が響き渡った。