第3章 死者と精霊 Ⅱ
こうなったら伯爵を当てにせず、自力で抜け出すことを考えようとカミールは馬房に向かった。
ピエールが笑顔で馬を出してくれたが、体が透き通っている。
これではパーベルが仰天するはずだ。
ピエールは、14、5歳くらいだろうか。ふっくらした体型で、柔らかそうな栗色の髪と愛らしい童顔が天使のようだ。
「ありがとう」
カミールが礼を言うと、満面の笑顔で応えてくれる。
彼の声は、聞いたことがない。今度話しかけてみようと彼女は思った。
ピエールが跳ね橋を降ろし、ランタンを手渡してくれた。風が出てきて、霧が右から左へ流れていく。
風のない日は森の力が強まると、伯爵は言っていた。今は弱まっているということか。
気を良くして跳ね橋を渡り、巨木の群生に馬を乗り入れた。
ランタンが照らし出すぼんやりとした風景以外は、真っ暗闇だ。
迷わないよう、枝に印を結びつけていく。
慎重に馬を進め、止まってはあたりの気配に耳をすました。
しばらく経つと、馬が怯え始めた。
音が聞こえる。獣の息遣い。
馬を止め、ランタンで遠くを照らし、カミールは凍りついた。
夥しい数の光る目、目、目。狼だ。
前方をびっしりと狼が埋め尽くし、じっと立ち止まってこちらの出方を見ている。
カミールは、じりじりと馬を後退させた。狼は動かない。
睨み合いながら少しずつ馬を移動させると、突然狼の呼吸音が変わった。
何かに驚いているようだ。息をひそめ、風上に目をやり、気配を伺っている。
狼の視線をたどり、彼女も風上を見た。
黒い霧が流れていくように見えるが、よく見ると霧はうごめいている。
狼は身を翻し、立ち去った。
カミールは、うごめく霧から目が離せなかった。
――――何だろう。霧の中に人の形をしたものが見える。
いや、人ではなく異形のものだ。異様な姿の煙のような物達が、木々を通り抜け、地上を這って流れていく。
どこに向かっているのだろう。
塔から見たコルバイン村の方角から測り、彼女ははっとした。
ラーベン! 背筋を冷たいものが流れ、慌てて首を振る。
ラーベンに向かっているとは限らない。
魔物たちの進む先に、ラーベンやバリーやドートリーユの領地があるというだけだ。
彼女は馬の鼻先を、魔物たちの来た方角に向けた。
どこかに発生源があるはずだ。
この森の異様さは、そこに原因があるのかもしれない。
途中まで進み、馬が立ち止まった。
怯えきった馬は、なだめても動かない。
遠くを流れていく魔物たちを眺めているうちに風が強くなり、霧が晴れてきた。
異形の物たちは少しずつ消え、やがて見えなくなった。
発生源らしき方角に、大きなモミの木の上部が見える。
この次はあれを目印にすればいいと、カミールは馬の首を城へ向けた。
「この城も天気も異様だ。伯爵もそうだ。ピエールが人間じゃないというのは本当だぞ。神に誓ってもいい」
まくしたてるパーベルを、ボルトはちらっと見た。
「落ち着けよ」
外で子犬と遊びたいと言うフィーリアに付き添って、二人は中庭に出ていた。
フィーリアは子犬と駆けっこを楽しんだ後、パーベルとボルトには聞こえないところで子犬に話しかけた。
「おばあ様から、ラスという名の子犬の話を聞いたことがあるのよ。あなたがそうなんでしょ? ね、喋ってみて。ちょっとでいいから」
ラスはフィーリアをじろりと見て、ばつが悪そうに目をそらした。
「あなた、おばあ様の膝の上で眠るのが大好きだったんですってね。眠くなるとおばあ様の膝の上にやって来たって聞いたわよ」
こほん。ラスは喉を詰まらせた。顔が赤らんで見える。
「ある日ぴたりと来なくなって、どうしたのかしらと探してみたら、村一番の美人の膝の上に鞍替えしてたんですって?」
ラスはフィーリアを睨みつけ、それは誤解だと言いたげな唸り声をあげ、すぐにはっとして辺りを見回した。
「どうしたの?」
「仕方がない。こりゃ、喋るしかない。ヤバい奴がこっちに向かってる。早く城の中へ戻れ」
「何ですって?」
「城へ戻れ! 早く!」
ラスはひときわ高く吼え、フィーリアは駆け出した。
仰天したパーベルとボルトが後を追う。
「間に合わん。しゃがめ」
「え?」
「しゃがんで、小さくなれ。早く!」
フィーリアがラスの言う通りにするのと同時に、パーベルが叫んだ。
「狼だ!」
だが彼の首に喰らいついた牙は、狼のものではなかった。
カミールが跳ね橋に近づいた時、狼たちが橋を渡り、城の中に入っていくのが見えた。
子犬がきゃんきゃん鳴く声が聞こえる。続いて男の叫び声。
パーベルの声だ。彼女は、馬を全速力で走らせた。
子犬がいるということはフィーリア姫もいるということだと、カミールの顔が青ざめる。
「フィーリア様!」
跳ね橋を渡ると、パーベルが黒マントの男と格闘しているのが見えた。
ボルトを襲っているのは数十匹の狼だ。フィーリアの姿は見えない。
「ピエール! 橋をおろせ」
カミールは馬上から叫ぶなり、狼の一匹を渾身の力を込めて突き刺した。
振り向きざまに二匹目の首を刎ねる。
「フィーリア様はどこだ」
「フィーリア様は……わからん。しゃがんだ途端に消えてしまわれた」
ボルトが唸るように言い、飛びかかってくる狼の喉に剣先を食い込ませた。
黒マントの男がパーベルを突き倒し、カミールを見た。
伯爵ではない。歯をむき出した異様な人相だ。
二本の長い犬歯から、血がしたたっている。
パーベルの首筋からは、血が噴き出していた。
男は目にも止まらぬ速さでカミールの足をつかみ、馬から引きずりおろした。
カミールは自由な方の足で男の顎を蹴り上げ、横っ飛びに転がった。
「パーベルを囲め!」
叫びながら素早く起き上がり、飛びかかってくる狼たちを切り裁く。
「パーベル、わたしたちが防いでいる間に血を止めろ!」
パーベルは上着を脱ぎ、シャツを手早く切り裂いて傷口に押し込んだ。
黒マントの男は剣を抜いて獣のような声を上げ、カミールに切りかかった。
受けたカミールの剣が、衝撃に震える。
「あうっ」
狼に腕を噛まれ、彼女は叫び声を呑み込んだ。
男が力を込めて彼女の剣を押し、牙を首に近づけようとする。
押し返そうとした時、黒い影が男に襲いかかった。
(伯爵!)
セルヴァ伯爵が黒マントの男を突き飛ばし、狼たちを睨む。
「やめろ! カーロ!」
カーロと呼ばれた男は、動揺したように見えた。
狼は唸り声を上げ、じりじりと下がっていく。
伯爵は、獣じみたカーロの顔を醒めた目で眺めた。
「ううぉぉーー」
雄叫びをあげながら執拗にカミールを狙うカーロの前に、伯爵が立ちはだかる。
両手で男の頭をつかみ回すと、ぼきっと鈍い音がして、男は痙攣し始めた。
左手を男の胸にずぶりと埋め、力まかせに紫色の心臓を引っ張り出す。
伯爵が手を離すと、黒マントの男はその場に崩れおれた。
体の輪郭に沿って皮膚が崩れ始め、砂に変わっていく。
やがて男は黒いマントと衣服に包まれた砂に変わり果て、辺りはしーんと静まり返った。
伯爵は砂の山をじっと見つめ、ちらっとカミールに鋭い視線を向けた。
唇の間から二本の牙が垣間見え、彼女ははっとした。
蒼い目は黒ずみ、感情を表さない。
端整な顔は氷のように冷たく、全身が血で汚れている。
「ひいーっ!」
パーベルが叫んだ。つまずきながら、転がるように逃げ出す。
ボルトはカミールと伯爵を交互に見て、パーベルの後を追った。
カミールは城に駆けこむ二人を横目で見て、伯爵に視線を戻し、頭を下げた。
「助けてくださって、ありがとうございました」
「フィーリアはラスが守っている」
彼の視線の先に、光るものが現れた。
光は徐々に薄れ、しゃがんだフィーリアの姿に変わる。
少女は腕にラスを抱いている。
「フィーリア様!」
姫君に駆け寄り、後ろを振り返ると伯爵の姿は消えていた。
「お怪我はありませんか?」
「何があったの? 突然ラスにしゃがめって言われて……。その後、狼の声が聞こえたんだけど、まぶしくて何も見えなかったの」
カミールは、フィーリアを抱きしめた。安堵で言葉が出ない。
「話は歩きながら致しましょう。無事でよかった」
「ラスの様子がおかしいの」
フィーリアが泣きそうな声で言った。彼女の腕の中でラスはぐったりとしている。
「コナリーに見せましょう。急いで」
大広間に入ると、テーブルに突っ伏して眠るファンが見えた。
「力を使い果たしたのでしょう」
コナリーは厨房の隣の使用人部屋を開け、中のベッドを指し示した。
「ここに寝かせてください。あとは私が見ます」
「わたしも一緒にいちゃいけない?」
フィーリアは、声を震わせた。みるみるうちに目に涙がたまる。
「ラスは、死んでしまうの?」
「いいえ」
コナリーはにっこり笑い、カミールを驚かせた。
「精霊は死にません。ただ少し眠るだけです。よろしければ、一緒に見ていましょう」
精霊――――。カミールがどきりとしてフィーリアを見ると、少女に驚いた様子はない。
ラスが精霊だと気づいておられたのか……。
冷たい指が腕にかかり、カミールははっとした。
アネッタが彼女の腕の傷に薬を塗っている。
「……あなたは女性なのに……戦ってる」
アネッタはそう言いながら、カミールの腕に包帯を巻いた。
「ええ。戦うことしか出来ないから」
カミールは笑った。
アネッタのようなしとやかな女性から見れば、わたしは野蛮人に見えるだろう。
「……私は、料理しか……出来ないの」
似たもの同士だと言いたいのだろうか。カミールはふいに、アネッタに親しみを感じた。
「こんな所にはいられない。出て行こうぜ」
パーベルは首に薬を塗り込みながら、ボルトに言った。
「狼がうろついているのにか」
「手はある」
部屋をうろうろと歩き回るボルトを見やる。
「狼は、あの化け物伯爵を恐れている。見ただろ、さっきの様子。臭いだ。伯爵の持ち物をくすねて、狼どもに伯爵がいると思わせればいいんだ」
「そんなに上手くいくかな」
「よく考えてみろよ。これはチャンスだぞ。この森を出て、助けを呼ぶんだ。無事フィーリアを助け出せば、俺たちは英雄だ。俺には褒美をたんまり、お前は騎士になれるかもしれんぞ」
「誰が騎士にしてくれるんだ。ラーベンは今頃、バリーに攻め滅ぼされているかもしれんのだぞ」
パーベルは、にやりと笑った。
「その時は、俺たちのどちらかがフィーリアの夫になる。ラーベンの新しい領主さまだ」
「ラーベン自体が無くなっているかもしれんのにか」
ボルトの悲観的なものの見方に、パーベルは指を振った。
「一介の兵士とラーベンの領主とじゃ、雲泥の差だ。領地があろうとなかろうと、関係ない。世の中、称号がものをいうんだ。ラーベン卿の名前を引っさげて、ブルゴーニュ公かオルレアン公に仕官すればいい。いい地位をくれるぜ。なんせ、ラーベン卿は貴族だからな」
ボルトは、まじまじとパーベルの顔を見た。
「どっちがフィーリアの夫になるんだ」
「お前でいいぞ。俺はお前の副官として、いい思いをさせてもらう」
パーベルはそう言って、にやりと笑う。
ボルトは唸りながら部屋中を歩き回り、やがて重い声で言った。
「いつ出て行く?」
決心したらしいボルトの言葉に、パーベルは立ち上がった。
「今すぐだ」
「馬のいななきが聞こえますね」
コナリーが首をかしげる。
「馬房の方からですね」
「あとをお願いします」
カミールは嫌な予感を抱え、馬房に向かって走った。パーベルとボルトは、馬に鞍をつけている。
「何のつもりだ。外は狼がうろついているんだぞ」
カミールは、声を張り上げた。
「こんなところにいられるか。狼を振り切って、助けを呼んでくる。お前はそれまで、あの化け物伯爵と遊んでろ」
パーベルは憎しみを込めてカミールを睨んだ。
首に巻きつけた包帯に、血が滲んでいる。
「お前のような小娘ふぜいが隊長になるから、こんなことになるんだ。俺はお前の指示には従わん。とっとと失せろ」
言うなり馬に飛び乗り、カミールに向かって駆け出した。彼女は間一髪で横に跳びのいた。
「悪いな」
ボルトはぼそりと言い、パーベルを追う。
二人の後ろ姿を見ながら、カミールは唇を噛んだ。
無事に森の外に出られるのなら、行かせてもいい。
だが、出られるとは思えない。二人の命が危ない。
彼女は思案し、伯爵の部屋に向かった。
コナリーを間に立てれば、会えないだろう。
これまでもそうだった。直接会って助けを乞おう。
伯爵の部屋は三階の奥だ。部屋の前で深呼吸すると、中で何かの割れる音がした。
一瞬体が凍りつき、意を決して扉を叩いた。