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第2章  蒼い瞳の伯爵

 

 キリアン・デ・セルヴァ伯爵は、ファンたちと礼儀正しい会話を続けながら、先ほどの女騎士のことを考えていた。


 美しい娘だった。

 金茶色の長い髪をゆるやかな三つ編みに束ね、瞳は琥珀色だった。

 整った顔は日焼けし、ほっそりとした体は少年のような身なりだが、貴婦人の装いをさせればどれほど華やぐことだろう。

 姫君を守ろうとするあの姿――――伯爵はそっと微笑んだ。

 まるで子供を守る母虎のようだった。


「フィリップがブルゴーニュ公だった頃は、まだ良かった。フィリップが死んでジャンが後を継いでからというもの、フランス中で内戦続きだ。ラーベンのような片田舎まで巻き込まれてしまった。ドートリーユ伯とバリー候の後ろには、ブルゴーニュ公とオルレアン公がいるに違いないのです」


 ファンの激した声に、伯爵は穏やかに応じた。

「先代のドートリーユ伯は、温厚な方だった」

 ――――彼から5年前にこの城を買ったのだが、その1年後に彼は亡くなった。

 後を継いだ長男は野心家で、国王の従兄弟であるブルゴーニュ公ジャンに急接近した。


 対するバリー候は、王弟のオルレアン公ルイを支持している。

 領地を接するドートリーユとバリーの間には昔から争いが絶えなかったが、今では宮廷で権力を争うブルゴーニュ公とオルレアン公の代理戦争の様相を呈している。

 ラーベンの近くで両者は睨み合っているが、精神を病んだ国王シャルル六世には押さえる力がない。


「バンクリーズ卿は争いを回避するために、先代のドートリーユ伯と同盟を結んだのではないかな」

 伯爵は手にしたワインを口に含み、ゆったりとした口調で言った。


「おっしゃる通りです。しかし時代は変わった。もはやバリーとドートリーユの戦争は避けられない」

 ファンはそう言いながら、伯爵はどちらの味方なのかと値踏みしていた。

 パーベルは包帯を巻いた手で鴨肉のシチューをすくいながら伯爵を観察し、ボルトは黙って食事をしている。


「私はそろそろ失礼する」

 セルヴァ伯爵は手にしたグラスを置き、立ち上がった。

「必要なものがあれば、コナリーに言うといい。ゆっくりくつろいでくれ」


 歩き去る後ろ姿には、隙がない。パーベルは小さく鼻を鳴らした。

「何だ。不満でもあるのか」

 ファンの問いかけに、バーベルは眉をひそめる。

「人間に見えるか?」


 ファンは大笑いした。

「今日はひどい経験をしたからな。誰でも疑いたくなる気持ちはわかるが、それでは伯爵に失礼だろう」

「伯爵だというのも、わからないぞ。自分でそう言っているだけだ」


「いや、彼は貴族だ」

 ボルトが、ぼそりと呟く。

「貴族は匂いでわかる。俺たち平民とは違う」


「俺は騎士だがな。平民より上等だ」

 パーベルは、むっとしたように言った。

「もっとも女が騎士になる時代だ、騎士の値打ちも地に落ちたがな」


「またそれか。カミールを騎士に叙したのはバンクリーズ卿だ。文句があるなら卿に言え」

 呆れた口調のファンを睨みつけ、バーベルは舌打ちした。

「言ったところで何も変わりはしまい」




 深夜。

 カミールはフィーリアが眠るベッドの下に敷いた藁布団から、静かに起き上がった。

 神経が高ぶって眠れない。

 青い短衣を身につけ、ブーツを履き、剣を吊るす。

 鎖帷子は置いていくことにし、そっとドアを開けると不寝番のボルトが廊下に座っていた。


「見回りに行ってくる」

 カミールが言うと、ボルトは黙ってうなずいた。


 部屋から持ち出した燭台を手に、彼女は夜のしじまの中、足音を立てずに歩いた。


 ――――城の西の端に塔があったはず。あの高さならコルバイン村まで見渡せるかもしれない。村までの方角と距離を知っておきたい。

 

 カミールは広間を抜け、中庭に出た。

 裏木戸を開けると、雑草の生い茂った裏庭の向こうに塔がそびえている。

 周囲を見回しながら塔に近づき、扉を開けた。

 誰かに見られているような気がして後ろを振り返ったが、誰もいない。

 中に入ると燭台の光を受けて、石壁と階段がぼんやりと浮かび上がる。

 頂上まで上がり木の扉を開けると、低い石塀のそばに月明かりに照らされた人影があった。


(セルヴァ伯爵……)


 黒い長衣に身を包んだ伯爵は石塀にゆったりともたれかかり、振り返った。

 月光に照り映えた黒髪が輝いている。

 蒼い瞳がカミールを捉え、彼女は足を止めた。


「申し訳ありません。いらっしゃるとは存じ上げず……」


 伯爵は謎めいた微笑を浮かべた。

 笑うと冷たさや険しさが消え、本来の優美な顔立ちが露わになる。


「かまわない。ちょうど話し相手がほしいと思っていたところだ。……こちらへ」

 彼は隣を指し示し、カミールが傍に立つと深みのある目でじっと見つめた。


 彼女はしばらく見返し、視線を前に向けた。

 眼下には果てしなくモージュの森が広がっている。

 月下の森は金色に縁取られ、黒々と静寂に沈んでいた。


「コルバイン村はどちらの方角でしょう」


 伯爵が月の方角を示すのを見て、彼女はがっかりした。

 地平線に至るまで見渡す限り黒い森が続き、その向こうにあるはずの村は見えない。


「明日も霧がでるだろう。この森を抜けるのは難しい」

「霧、狼、闇……この森はいつもこんな風なのですか?」

「大抵は。森は意思を持っている」


 カミールは、遠くを見つめる伯爵の横顔を見た。険しさが戻っている。


「人を拒もうとする意思だ。風のない日は特に力が強くなる。霧と狼を使って人を滅ぼそうとする」

「そんな……」


 ふと、石塀に置かれた彼の指に目を留めた。

 中指にはまった指輪には、狼の姿が刻まれている。彼と目が合った。


「蒼い目の狼に導かれて、この城にたどり着きました」

 カミールは言った。

「あの狼は何だったのでしょう」

「この森からお前たちを救おうとしたのかもしれんな。私にはわからないが」


 彼は指輪に目をやり、彼女に視線を戻した。

「これは、私が騎士に叙せられた時に貰ったものだ」

「あなたは騎士なのですね」

「爵位を継ぐ前はね。今度はお前の番だ。聞かせてくれないか。なぜ騎士になった?」

「それは……フィーリア様がおられたからです」


 フィーリア姫が生まれた頃、ラーベンは近隣との小競り合いが絶えなかった。

 姫の父親である領主は、老若男女を問わず戦闘訓練を課し、腕のいい者を兵士にとり立てた。


 小作農家に生まれた8歳のカミールは、二人の兄と共に訓練に参加し、またたく間に頭角を現した。

 生来敏捷で力と体力に秀でていた彼女は、剣を持つことで職を得た。

 姫の母親である領主夫人のたっての希望で、生まれたばかりのフィーリアの守り役兼遊び相手として召し抱えられることになったのである。


 2年前、ラーベンは大きな戦争に巻き込まれた。

 カミールの二人の兄とフィーリアの兄を戦死させた敵は、勢いづいてラーベンの城を攻めた。

 カミールは城の留守を預かっていた騎士たちと共に城とフィーリア姫を守り抜き、急ぎ戦場から戻った領主の部隊と合流して敵を退けた。

 その時の武勲の褒美として、領主バンクリーズ卿は彼女を騎士に取り立てたのだった。


「フィーリア様はラーベンの後継者でいらっしゃいます。その守り役の身分が低くては、釣り合わないとお考えになったのでしょう」

「なるほど。10年もの間、姫を守ってきたわけか。それで母虎なのだな」

 彼は低い声で笑った。


「母虎?」

「母性が豊かだと言いたかったのだ。だがお前自身のことはどうなのだ? 結婚もせず子供も持たないつもりか? その年ならば、子供の一人や二人いてもおかしくない」


 カミールはきつい視線を伯爵に向けた。


「失礼ですが、立ち入り過ぎです。伯爵様こそ、奥方様とお子様はどちらにいらっしゃるのです?」

 伯爵は声を上げて笑った。

「どこにもいない。一本とられたな。聖カタリナ修道院へ行く途中だと言っていたな。しおらしく改心して、修道女にでもなるつもりだったのか」

「いいえ。違います」


 カミールは伯爵を睨みつけた。――――何て失礼な人だろう。


「戦争になりそうなので、姫君を安全な場所へお連れするつもりだったのです。まさか森で迷うとは……」


 何を言っても言い訳になってしまう、と彼女は口を閉じた。カミールは言い訳が嫌いだった。

 

「姫にはいつまで仕えるつもりなのだ? 姫はいずれは嫁ぎ、領地の女主人となり母となる。そうなっても仕えるつもりか?」

 伯爵は尋ね、探るようにカミールの目を見た。


 彼女は言葉に詰まった。

 大人になったフィーリアが自分を必要とするかどうか、どうしてわかるだろう。

 必要とされなくなった時、自分はどうするだろうなどと今答えられるわけがない。


「先のことはわかりません」

 カミールは、伯爵を見返した。残酷な質問にひるんだ姿は見せまいと思った。

「でも今は、フィーリア様が心配です。わたしは失礼させて頂きます」


 彼女のきつい口調に、伯爵は心地よい声で笑った。

「また立ち入り過ぎて怒らせてしまったな。――――部屋まで送ろう」


 先に立って歩く伯爵の後ろ姿は優雅で、称号を聞かなくとも貴族だとわかる。

 足取りには無駄がなく、隙がない。

 かつて騎士だったと言っていたが、この人は戦士だとカミールは感じた。


 何気なく彼の足もとを見て、はっと息を呑む。

 影がない――――。

 月に照らされ彼女の影は石廊に映っているが、伯爵の影はない。


 伯爵は振り返り、彼女の顔色から状況を察した。

 しばしの沈黙の後、カミールは静かに言った。

「ひとつだけ、お聞かせください。あなたの許可なしに、わたしたちはここから出ることは出来ないのでしょうか」


 彼の口角が上がり、笑みを作る。

「やってみるといい。人間は地上の王を名乗っている。人間の力を見せてくれ」

「あなたもかつては……」

 言いかけ、口を閉ざした。彼は面白そうに彼女を見つめている。

「かつては……人間だった。随分昔のことだ」


 彼は、人間ではない。そのことに少しも恐怖を感じない自分に、カミールは驚いた。


大広間に戻り、彼女は足を止めた。小さな規則正しい音が聞こえる。

「厨房で、アネッタが朝食の用意をしているのだ」

 伯爵が言う。

「真夜中なのに?」

「スープを作るのに時間がかかるらしい」

「そういえば、夕食の鴨のシチューは素晴らしい味でした。挨拶してもかまいませんか? 礼を言いたいので」


 考え込むように彼女を見つめ、彼は手招きした。

 大広間の奥の廊下を進み、厨房に入る。

 ほっそりとした女性が野菜を刻んでいる姿を見て、カミールの背筋に冷たいものが走った。


 女性は透き通った体で、長い黒髪の間から目だけを覗かせて彼女を見ている。

 後ずさりしようとする彼女を、アネッタの瞳のなかにあるものが押しとどめた。

 悲しみ――――この女性は、悲しみを抱えている。


「夕食のシチューの礼を言わせてください」

 カミールは、恐る恐る言った。

「今まで食べた中で最高の味でした。ありがとう」

 アネッタの青白い顔に赤みが走る。頬を染め嬉しそうに微笑む彼女は、とても若く美しく見えた。


「アネッタはイタリア人だ。究極のスープを作ろうと努力していたのだがね」

 伯爵はそう言いながら小刀で指を切り、したたる血を杯に注いでアネッタに差し出した。


 一口で飲みきった彼女の体が輝き始め、透明感が失せる。

 ――――生身の人間に見える。カミールは、息をのんだ。


「私の血は死者の役に立つらしい。生きている人間にとっては毒だが」

 伯爵はカミールに手を伸ばし、指の背で彼女の頬を撫でた。


「私に仕えないか、カミール・クリステン」

 彼女はどきりとした。彼に仕える……?

「何故わたしを?」

「お前が気に入ったからだ。そばに置いておきたい」

「それは……」


 長身の伯爵に見下ろされ、彼女は言いよどんだ。

 伯爵がそばにいると、圧迫感がある。

 奥深い蒼い目に捉えられ、初めて彼女は恐怖を感じた。


 彼に仕えたら、わたしはどうなるのだろう。

 命を失い、魔物か死者になるのだろうか。


「光栄です。ですが……フィーリア様を見捨てるようなことはできません。誓いましたから」

 バンクリーズ卿から騎士の叙任を受けた時、命に代えてもフィーリア姫を守ること、高潔であることを誓い、それは今でも胸に刻まれている。


 伯爵はにやりとした。

「いずれ気が変わる。近いうちに」

「それでは、わたしはこれで」

 カミールは丁寧に礼をして彼に背を向け、廊下に出ると一気に階段を駆け上がった。 

 部屋の前の不寝番は、ファンに交代していた。

「夜明けと共に発とう」

 ファンに声をかけ、部屋に入り、フィーリアの幼い顔を見下ろす。ベッドに腰をおろし、ほっと息をついた。

   

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