第1章 ラーベンの女騎士
―――― 1407年 12月 フランス南西部
モージュの森に入ると、天候が変わった。
澄んだ冬の青空を狂気のような黒い雲が覆い隠し、森の中は早朝にも関わらず湿った暗黒の帳に閉ざされた。
空気は冷たく、厚いマントから寒さがしみ込んでくる。
ラーベンの女騎士と呼ばれる18歳のカミール・クリステンは、8騎ばかりの一行を止め、辺りを見回した。
「ランタンをつけろ。足もとに気をつけろ」
兵たちに命じ、隣を進む鹿毛の子供用の鞍にちょこんと座ったフィーリア姫に近づき、マントの前を閉じる。
「冷えてきましたからね。大丈夫ですか?」
10歳になったばかりのフィーリアは、にっこりした。
「もうすぐコルバイン村に着くんでしょ? 絵本に出てくるような綺麗な所なんですってね。楽しみだわ」
「こんな気味の悪い森を進む気かよ」
19歳のパーベルが小声で悪態をつく。
「当然だろ」
悠然と答えるファンは、最も年配の兵士だ。顎鬚を撫でながら、パーベルを横目で見た。
「街道は、バリーの軍に押さえられている。この森を通るしかないんだ。まさか怖気ずいたのではあるまいな」
パーベルはファンを睨みながら、黙ってランタンを灯した。
霧が出てきた。進むにつれ、霧は濃さを増した。
厚い雲とびっしり生い茂った木々の下、ランタンだけを頼りに進む一行を漆黒の闇が包んだ。
息吹のように風が吹きつけ、黒々とした枝はうねうねとたわみ、低い音でざわめく。
どのくらい時間が経っただろう。もう森を抜けていい頃だと、カミールは周囲を見回した。
――――森を抜けた先には、コルバイン村がある。
そこで一泊したら、明日の夕刻には聖カタリナ修道院に着く。
修道院長は、フィーリア姫の祖母にあたる方だ。
姫君を安全な修道院にあずけたら、急いでラーベンに戻らなければ。
ラーベン近郊で、バリー候とドートリーユ伯は一触即発の状態だ。
開戦したら、ドートリーユと同盟を結んでいるラーベンは戦わざるを得ない。
事態を危ぶみ領主のアンリ・ド・バンクリーズ卿は、唯一の相続人であるフィーリア姫を安全な修道院に送ることにしたが、できればこの森は通りたくなかった。
前夜泊まった農家の主人の話が、カミールの脳裏をよぎる。
モージュの森にはヴァンパイアがいる。主人はそう言った。
しかし、森を迂回してバリーの軍に捕まる危険は冒せない。
木々の向こうにそびえる岩を見て、カミールははっとした。見覚えがある。
「止まれ」
やはりそうだ。随分前に一度目にしている。
「この道は通ったな」
無口なボルトが、ぼそりと言った。
「まさか」
皆の視線の先にある岩を見て、パーベルは引きつっている。
「似たような岩は、どこにでもあるだろ」
「印をつけておこう」
ファンは胸もとから白い布を取り出し、木の枝に結びつけた。
「何、心配はいらん。もうじきコルバイン村だ。酒とふかふかのベッドが待ってるぞ。美味しい林檎のケーキも」
そう言ってフィーリアにウィンクし、フィーリアは顔をほころばせた。
一行は再び、深い森を進んだ。
無言のまま、馬二頭通るのが精一杯の狭い道を行く。
道は一本しかないはずで、迷うなどあり得ないとカミールは唇を引き結んだ。
次第に時間の感覚が無くなって、かなりの時間が経ったような気がする。もう夕刻になるのではないだろうか。
ボルトのランタンが照らし出すものを見て、カミールは愕然とした。木の枝に結びつけられた、白い布。
「俺がつけた目印だ」
豪胆な兵士であるファンの声が、かすれている。
同じ所をぐるぐる回っている、そんな馬鹿なとカミールは大きく息を吸い込んだ。
兵たちの呼吸も荒くなっている。
「迷ったんだ」
パーベルが憎々しく言った。
「だから、やめれば良かったんだ。こんな薄気味悪い森を通るなど」
「バリーの奴らに皆殺しにされた方が良かったと言うのか」
ファンの激した声が響く。
狼の遠吠えが聞こえ、カミールは体をこわばらせた。
「急ごうぜ」
パーベルの声には焦りがにじんでいる。
「この暗さだ。やみくもに走れば馬の足を傷つける」
カミールは言い、ちらっとフィーリアを見た。顔色が真っ青だ。怖いのだろう。
「姫さま、こちらにいらっしゃいますか」
と両手を差し出すと、フィーリアは嬉しそうに小さな手を伸ばした。
馬をフィーリアの牝馬に近づけ、姫君を抱き上げる。
10歳にしてはか細いフィーリアを抱きしめ、何があろうともこの姫だけは守りたいと思った。
うなじにぞくぞくと悪寒が走った。危険が近づいている。
幾多の戦いで自分を生き延びさせた直感が、命の危険を知らせている。
「何か来る」
カミールは兵士たちに告げた。
「離れるな。姫さまをお守りしろ」
「狼だ!」
口々に叫び、兵士たちは剣を抜いた。暗闇にびっしりと目が光り、その数は百近い。
唸り声と共に先陣の数匹が飛び出し、馬の足に喰いついた。
「囲まれたぞ」
パーベルが叫ぶ。どこを見ても光る目だ。
「姫さま。私につかまっていてください」
カミールは左手で手綱を操りながら、右手で剣を振るった。飛びかかる狼たちをなぎ払い、突き刺す。
「ぎゃあっ」
兵士の一人が叫んだ。太ももを二匹の狼に食いつかれ、馬から引きずり降ろされた。
地面でもんどりうつ兵士に、狼たちが襲いかかる。
助け寄ろうとするファンの前を、狼の群れが塞いだ。
落ちた兵士は三度断末魔の絶叫をあげ、静かになった。
カミールは馬を右に左にと操りながら、正確な剣さばきで狼を仕留めていった。
だが数が多過ぎる。後から後から押し寄せて一行をとり囲む狼の大群の前に、兵士は一人また一人と倒れていく。
黒一色の空にぽっかりと穴が開いたように月が現れ、岩に立つ一匹の狼を照らし出した。
全長2mもありそうな大きな体は、闇の中にあってなお黒く輝いている。
剣を素早く切り返しながら、カミールは狼を見上げた。
蒼い目だ。射抜くような狼の視線に捉えられ、思わず手を止めた。
蒼い目の狼は彼女を横目で見ながら、不意に岩の向こうに姿を消した。
すぐに岩の下に現れ、彼女を見つめて岩の横の小道を走り去る。
ついて来いと言っているのか。彼女は一瞬迷い、直感に従った。
「わたしに続け。遅れるな」
大声で怒鳴り、狼を追う。前を塞ぐ狼たちを切りさばき、道をつくった。
「こっちだ。ついて来い」
ファンが怒鳴りながらカミールに続き、パーベルとボルトが後を追った。
「姫さま。しっかりつかまっていてくださいね」
フィーリアは無言でカミールにしがみつき、小さく震えている。
追いすがる狼たちをなぎ払いながら、月明かりの小道を駆け、前方を行く蒼い目の狼を追う。
木々の枝が容赦なく手足に打ちつけ、カミールは腕を広げてフィーリアをかばった。
やがて狼たちは追って来なくなった。
後ろを振り返ると、ファン、パーベル、ボルトの馬の向こうで狼たちは立ち止まり、引き返し始めている。
助かったのだろうか――――。
カミールはフィーリアを抱きしめる腕に力を込め、前方に首を巡らせた。
黒々とした巨木の群生が視界を塞ぎ、蒼い目の狼はその向こうに消えた。
手を上げて兵士たちを止める。
「どこに向かっているんだ」
パーベルが語気荒く尋ね、彼女はパーベルの薄青い目を見返し、言った。
「どこかで休もう。ここでは無理のようだが」
「確かにな」
ファンが呟く。
足踏みする馬たちの蹄の下で、湿気を含んだ下生えがピチャピチャと音を立てている。
「この巨木の向こうへ行ってみよう。ここよりはましかもしれない」
カミールの言葉に、腕と足に傷を負ったパーベルは目をむいた。
「何があるって言うんだ、この向こうに」
「わからない」
静かに答え、カミールは巨木に目を馳せた。
ファンがパーベルを見やり、ボルトの顔を伺う。
「カミールに従うか」
ボルトは黙ってうなずき、パーベルは小さく舌打ちした。
そろそろと巨木の間に馬を進める。
静寂の中で、下生えの湿った音だけが響いた。
森はもとの漆黒の闇に閉ざされた。
ランタンは狼たちとの戦いの最中に失ってしまい、そこかしこで青白く光る苔が唯一の明かりだ。
巨木の間を縫うように進むと、前方に灯火がちらちらと見え始め、やがて光を乱反射する水面が見えた。
水面の向こうは頑丈な木の門だ。巨木の群生を抜けると、要塞のような古い城が建っていた。
ゆっくりと跳ね橋が降りてきて、カミールは目を見開いた。
「こんなところに城が……」
ボルトが呟く。
カミールが見下ろすと、腕の中の小さな姫君は眠っていた。
もともと丈夫とはいえない上、さぞ疲れていることだろう。
夜露をしのげるのはありがたい。
「どうする」
ファンが誰にともなく尋ねる。彼もまた尋常でないものを感じ取っているようだ。
「気がすすまない」
と、パーベル。
「行こう」
カミールは馬を前へ進めた。
跳ね橋を渡り、門をくぐると広々とした中庭に出た。老人が少年を従えて立っている。
灯火のおぼろな光の下に佇む二人はこの世ならぬ者に見えて、彼女はぞくっとした。
「ようこそ」
深い皺に覆われた老人が、無表情で声をかけた。
「馬の世話は、ピエールがいたします」
ピエールと呼ばれた栗色の髪の少年は、満面の笑顔だ。
「ワインとお食事をご用意いたしますので、広間へどうぞ。こちらです」
と老人は先に立って歩き出す。
まるで我々を待っていたみたいだなと、兵士たちは渋い表情で顔を見合わせた。
カミールがフィーリアを抱いたままそっと馬から降りるのを見て、ようやく馬から荷物を降ろし始める。
「俺にまかせろ」
ファンがフィーリアを抱き取った。
フィーリアはぴくりとしたが、また寝息をたてて眠ってしまった。
「子供には過酷だったろうな。よもやこんな事になろうとは」
ファンは苦々しく首を振る。
石造りの階段を登りながら、カミールは中庭を振り返った。
ピエールは上手に馬たちを集め、城の裏手に連れて行こうとしている。
馬の扱いには慣れているようだ。
城の中に入ると、蝋燭の灯りに煌々と照らされた大広間の上段、主の席に黒髪の男が座っていた。
「セルヴァ伯爵でいらっしゃいます」
先ほどの老人が重々しく告げる。
「そう言えば、宮廷人の貴族がこのあたりの城を買ったという話を聞いたことがあるな」
パーベルが小声で呟いた。
伯爵はゆっくりと立ち上がり、一行の前に立った。
その目を見てカミールはぞくりとした。あの狼と同じ、蒼い目だ。
狼狽を押し隠し、彼女は深々とお辞儀をした。
「夜分に申し訳ありません。わたしはラーベンのカミール・クリステン。こちらにおられるのはラーベンの領主アンリ・ド・バンクリーズ卿のご息女、フィーリア姫でいらっしゃいます。聖カタリナ修道院へ向かう途中、狼に襲われ、こちらの城にたどり着きました。一夜の宿と傷薬を所望致したく、お願い申し上げます」
目を上げると、伯爵はじっと彼女を見つめている。かなりの長身だ。
年齢は、22、3歳くらいだろうか。
肩まで伸びた黒髪。顔立ちは端整で優美だが、表情は冷たく険しい。
海の底のような蒼い目で見つめられ、カミールは落ち着かなくなった。
この人はあの狼なんだろうか。まさか。
「気の毒なことだ」
伯爵は低い、よく響く声で答えた。
「部屋と薬を用意させよう。コナリー」
「おまかせください」
コナリーと呼ばれた老人はファンにうなずきかけ、ファンはカミールを見た。
「不躾ですが、フィーリア姫とわたしは部屋で食事をさせて頂けないでしょうか。姫が目を覚まされた時、そばに誰もいないと怖がるだろうと思いますので」
カミールの言葉に、伯爵は微笑んだ。冷たい、しかし魅惑的な微笑だ。
彼女は慌ててファンから姫君を抱き取り、コナリーの後に続いた。
姫君の安全が第一だ。他のことに気を取られてはならない。
部屋は豪華ではなかったが、清潔だった。
凝ったタペストリーが壁や床を飾り、ベッドは柔らかそうで羽毛の布団がかけられている。
「当城には小間使いがおりませんので、ご不便をおかけ致します」
淡々とした口調で部屋の蝋燭を灯すコナリーは、かなりの高齢なのだろうが背筋が真っ直ぐに伸び、以前は兵士だったのではないかと思わせる。
「泊めて頂けるだけで充分です」
彼女はフィーリア姫をそっとベッドに降ろし、マントを脱がせた。
「後ほど、お食事をお届けにあがります」
コナリーはそう言って重い扉を閉めた。
部屋の隅の暖炉では薪が赤々と燃えている。
カミールは部屋を見回し、石の壁に触れた。
壁は冷たいが、部屋の空気は暖まっている。ここもまた、準備をして我々を待っていたかのようだ。
セルヴァ伯爵の顔が浮かぶ。何者だろう。
パーベルは宮廷人の貴族がどうのと言っていた。
魔物には見えないが、不思議な気配がある。
カミールはフィーリアの衣服をゆるめ、羽毛布団を優しくかけた。
ベッドに腰かけ、姫君の小さな顔を見下ろす。
規則正しい寝息が、神経を張りつめていたカミールをほっとさせた。