第11章 それぞれの決戦
伯爵は、カミールの腕をつかんだ。
「話がある」
「言わないでください。わかっていますから」
カミールは暗い空を見上げ、涙をこらえた。
「あの池を封印するまで待ってください。ここに魔物が現れないことを見届けたら、すぐに出て行きます」
「何を言っている。そんなことは許さないと言っただろう」
振り返ったカミールの涙を湛えた目をみつめ、伯爵はため息をつく。
「あの女は、ここから立ち去る条件を出したのだ。私はそれを呑んだ。エリザベートと戦えば、お前の命が危ないからだ。それが、さっきの光景の理由だ」
「わたしの命を救うために、彼女とキスをしたって言うんですか。わたしの心が傷つくとは考えなかったんですか」
「ヴァンパイアになりたての、ひよっこが言いそうなことだ」
伯爵はカミールの肩をつかみ、深い蒼い目で彼女の顔を覗き込んだ。
「エリザベートを甘く見るな。あの女に酷いやり方で殺されたヴァンパイアは、数え切れないほどいる。まずは生き延びることを考えろ。心はその後だ」
「あなたがわかりません。心を大切にしているのは、あなたじゃありませんか」
彼の目が一瞬、揺らいだ。
「私のことは分からなくていい。お前は生きろ。そのためなら、私はどんなことでもする」
伯爵は静かに言い、彼女の髪を一房つかむ。
「新しいローブを用意してやれなくて、済まなかった」
カミールは、はっとした。
「お前が眠っている間に城中を探したが、あれしか見つからなかった。それでもエリザベートや他の女たちの何倍も美しい。このことが片付いたら、世界中を旅しよう。私の傍にいてくれないか、カミール?」
伯爵は懸命にローブを探してくれたのだ。わたしの為に。そう思うと、胸が歓びに震えた。
「あなたを信じたいんです。でも、信じるのが怖い」
伯爵は、体をこわばらせた。
「エリザベートだな。あの女に何を言われた?」
「あなたは、飽きっぽい方だと」
「お前に関しては、違う」
彼は指から狼の紋章の指輪をはずし、そっと彼女の指にはめた。指輪はずしりと重く、大きい。彼女は驚いて伯爵を見上げた。
「ずっと、こうしたいと思っていた」
彼は真剣な表情で彼女を見つめ、尊い宝石に触れるように涙に触れた。
「だが、お前を永遠に私に縛りつけることになる。そんなことをする資格が私にあるのかどうか。……まだ涙が出るのだな。お前は人間だ」
「はい」
彼は、笑った。
「それは、どちらの返事なのだ?。私の妻になってくれるのか?」
カミールは戸惑った。エリザベートが言ったことや、胸の中に芽生えた疑惑が消えていく。でも彼に結婚を申し込まれるとは予想もしていなかった。
「わたしは……」
彼はにっこりし、人差し指で彼女の唇に触れる。
「今すぐ返事をしなくていい。結論がでるまで指輪は持っていてくれ。結婚を承知してくれたら、新しい指輪を買おう。新しいローブも。宝石や美しい衣装で、お前を飾り立ててみたい」
カミールは、花のように微笑んだ。宝石やローブより彼の気持ちが嬉しい。幸福感を噛みしめ、彼の首筋に牙を立て、小さな傷口から血を吸い取る。彼は、声をあげて笑った。
「いたずら娘め」
牙を伸ばしかけ、伯爵ははっとした。カミールは彼の首から顔を離し、辺りを伺った。くぐもった叫び声が聞こえる。
「フィーリア様――?」
彼女は池に向かって駆け出し、伯爵も後を追った。
池のそばで、口に布を押し込まれたフィーリアとグレイが転がっている。エリザベートがフィーリアの首に噛みつこうとした瞬間、カミールが怒りをこめてエリザベートに体当たりし、顔を殴りつけた。
伯爵はグレイを押さえつけているジレの髪をつかみ、首を半ばまで引きちぎる。首から血を噴き出しながら、ジレはのたうった。
「おのれ!」
怒りに顔を紅潮させたエリザベートの手がカミールをはねのけ、ジレの腰をつかみ、池に放り込む。透明の水を真っ赤に染め、ジレは底まで沈み、必死に浮き上がろうとした。池の底に大きな亀裂が走って小石がはじけ飛び、伯爵は青ざめた。
「カミール。二人を連れて精霊の木まで行け。お前は木に近づくな」
剣を抜き、彼はエリザベートに向き直った。エリザベートの高笑いが響く。
「愛人とどこかに消えてくれれば手間が省けたものを」
エリザベートの全身から黒い魔物が立ち昇り、伯爵に襲いかかった。カミールは剣を抜き、魔物に切りかかる。
「私のことはいい。二人を安全なところへ連れて行け」
伯爵が叫ぶ。カミールは茫然とするフィーリアとグレイを抱き起こし、精霊の木に向かって走った。
池の底から、真っ黒な粘着質の泥が吹き上がった。池を囲む巨木や地面に飛び散った泥から、もくもくと煙のように魔物が浮き上がり、伯爵に赤い目を向ける。
「フィーリア様。モミの木から離れないでください」
カミールは精霊の木の手前でフィーリアの両肩をつかみ、目を合わせた。
「あれは精霊の木です。あなたを守ってくれます」
「カミールはどうするの?」
フィーリアは、真っ青な顔をしている。
「わたしはあの木には近づけません。……フィーリア様をお願い」
グレイに向かって言い、剣を抜こうとする彼の手を押さえた。
「剣は使えないわ。魔物と目を合わせないで。何があろうとも、フィーリア様を守って」
グレイは黙ってうなずき、フィーリアの手を引いて精霊の木まで走った。
伯爵が凄まじい速さで剣をふるい、魔物を切り裁く。彼の口元から牙が伸び、剣を握る指に細く鋭い爪が生えた。黒髪がたてがみのようになびき、目が赤く光る。彼は唸り声をあげ、赤く輝く剣でエリザベートに切りかかった。だが大量の魔物が間に立ちはだかり、邪魔をする。
池の亀裂はどんどん広がり、後から後から魔物を噴き上げた。エリザベートは、大きく口を開けた。上唇がべろりとめくれ上がって鼻骨と額を呑み込み、胸が裂け下唇が腹につく。
エリザベートの上半身は、口だけとなった。巨大な口が噴き上がる魔物を吸い込み、咀嚼する。牛のように反芻して呑み込み、消化した。彼女のものとなった魔物が彼女の全身から噴き上がり、帯となって伯爵を包み込む。
「キリアン様!」
カミールが叫び、伯爵を囲む魔物に切りつけた。彼女の剣の稲妻のような光がそこかしこで爆裂したかと思うと、その度に魔物たちが消える。エリザベートが噴き出す大量の魔物を、伯爵とカミールの剣が瞬く間に消し去っていく。エリザベートは怒りに目を細め、歯噛みした。
「目を開けるなよ」
グレイはフィーリアをしっかりと胸に抱き、モミの木に額をつけた。背中を魔物たちに向け、フィーリアをかばう。フィーリアは彼の胸に顔をうずめ、震えた。
「何が起きてるの?」
「わからない。何が何だか……。でも今はとにかく、じっとしていよう」
地面が揺れ、木の根が動き出した。グレイはぎょっとしたが、不安はなかった。フィーリア同様、彼の体にも魔女の血が流れている。彼女と彼の祖母は、フランスでも指折りの魔女の家系の出だ。モミの木が人間に危害を加えないことは、彼にも感じ取れた。
木の根がのたくり、魔物の生気を吸い取り始めた。二人のまわりを濃厚な悪意がひしめき、取り囲む。木の根が吸い取っても悪意は後から後から補充され、きりがない。悪意は木の根の下からやって来るのだと、グレイは気がついた。
恐る恐る目を開け下を見ると、モミの木の下の土が粘り気のある暗緑色の粘土に変わっている。嫌な予感がして、彼はごくりと唾を飲み込んだ。
「私、気分が悪いわ。ここを離れた方がいいわ」
「離れるなと言われているだろう?」
フィーリアの言葉に、彼は迷った。
「大丈夫。私について来て」
フィーリアが目を閉じたまま、彼の手を引いて歩き出す。まるで見えているかのような足取りだ。
「見えているのか、フィーリア?」
彼は、目を閉じたフィーリアの神秘的な横顔を驚きの目で見た。
「景色は見えないけど、光が見えるの。呼んでるみたいだわ。グレイ、目を開けちゃだめよ。魔物と目が合ったらとり憑かれるわよ。足で地面を探りながら歩いて。そうしないと転ぶわよ」
どっちが年上かわからないなと彼は苦笑し、目を閉じた。
フィーリアに手を引かれ暫く歩くと、地面が激しく揺れた。振り返るとモミの木の根もとに亀裂が生じ、下から黒いものが噴き出している。あっと思った瞬間モミの木ごと地面が爆発し、二人は吹き飛ばされた。グレイはフィーリアの上に重なり、落ちてくるものから彼女をかばった。
精霊の木が消えた。後に残ったのは大きな黒い穴だ。そこから大量の魔物が湧き出し、エリザベートは両手を広げ、地下世界の住人たちを歓迎した。
「これこそ私の世界よ」
手足のついた口だけの姿で貪欲に魔物を食べ、吸収し、全身から噴出する。彼女から飛び出した黒い影は一つになり、巨人にも似た化け物の姿に変わっていった。
化け物は赤い目であたりを見回し、半ばまで引きちぎられた首を押さえながら這いずるジレを見つけた。指のない尖った手で彼の体を一突きにして持ち上げ、鋭い歯で頭からむさぼる。骨を噛み砕く音とジレの絶叫が響き、エリザベートはうっとりと化け物を眺めた。
「何ていい子なのかしら。お前が千匹もいたら、この世はさぞ楽しくなるでしょうねえ」
巨大な化け物の横で夥しい数の黒い魔物が集まり、ゆらゆら揺らめきながら人の形をとり始める。指のない手を持つ化け物がもう一匹出来上がり、伯爵は眉をひそめた。これでは、きりがない。これほど多くの魔物を一度に滅ぼし、池をも消滅させる方法は、一つしかない。
ただ問題は――――自分にそれだけの力があるかどうかだ。
「カミール、城に戻るぞ」
彼女に声をかけ、フィーリアとグレイに駆け寄る。二人を両脇に抱えて城まで飛び、伯爵は大広間に入った。
「コナリー」
「――ここです」
背筋を伸ばした老人が姿を現した。
「魔布の予備を出してくれ。――アネッタ」
「……はい」
アネッタが急ぎ足で出てくる。
「子供たちを頼む」
「……おまかせを……」
伯爵はカミールに目で合図し、階段を駆け上がった。魔布? カミールは怪訝な表情をコナリーに向け、グレイに抱きかかえられたフィーリアを見やり、伯爵を追った。
主寝室に入り扉を閉めるや否や、伯爵は彼女を抱き寄せた。骨も折れんばかりに抱きしめ、激しく口づける。やがて体を離し、記憶に刻み込もうとするかのように彼女に見入った。彼の目に言い知れない思いを見て、カミールは胸がいっぱいになった。
「あなたの妻になります」
彼女は、あふれる思いを言葉に換えた。
「永遠にあなたの傍にいます」
カミールが胸ポケットから狼の紋章の指輪を取り出すと、伯爵は指輪ごと彼女の手を両手で包み込む。
「生涯で最高の言葉だ。……愛してる」
彼は言った。
「愛してる。私の心は、お前のものだ」
窓辺を覆う黒いカーテンを引きちぎり、カミールの頭からすっぽり被せた。布に包まれた彼女を抱き上げ、部屋を出て階段を駆け足で下り、大広間の隅の扉を開く。さらに階段を下り樫の扉をあけると、地下霊廟が広がっていた。
伯爵は彼女を降ろし、強く抱きしめた。いきなり彼女を離し、背を向ける。
「ここから先は、お前の力では無理だ。ここにいろ」
「そんな……待ってください」
茫然とする彼女の耳に、扉の閂を掛ける音が冷たく響いた。
「キリアン様、何のつもりですか」
カミールは扉に駆け寄り、叩いた。彼が階段を駆け上る音が耳にこだまする。
「どうするつもりですか!」
嫌な予感が彼女を蝕んだ。体ごと扉に体当たりしても、頑丈な樫の扉はびくともしない。
大広間で、奇妙な具合に光る黒いマントを持ち、コナリーが伯爵を待っていた。
「伯爵様……」
「何も言うな。カミールを地下から出すなよ」
コナリーはうなずき、手馴れた手つきで魔布のマントを伯爵に着せ、頭や手首、足首を金の輪で止める。一歩下がり、彼は皺深い顔をくしゃっと歪めた。
「心配するな。戻って来る。結婚式の準備をしておいてくれ。私とカミールは結婚する」
伯爵が言うなり、コナリーの顔がぱっと明るくなった。
「カミールと結婚するの!?」
フィーリアが嬉しそうに叫ぶ。
「おめでとうございます」
グレイは、にっこりしている。伯爵は微笑み、すぐに真顔に戻った。
「その前に片付けなければならないことがある。チャンスがあれば、私たちにかまわずここから逃げろ」
カミールの魔物の目に、大広間から外へ飛び出す伯爵の姿が見えた。
化け物が二匹、城に迫っている。隣でもくもくと煙のようにたなびくものが、新たな化け物の姿をとり始めている。地下世界から途切れることなく湧いてくる魔物たちが、うごめきながら霧のように化け物の足もとを這い、城に向かっている。
池のほとりの魔物の黒い群れの中から、エリザベートの笑い声が聞こえた。
「増えよ、私の子供たち」
彼女は小さな魔物を吸い込み、大きな魔物を産み出すことを繰り返している。
「キリアン様、一人で戦わないで!」
カミールは叫び、頑丈な扉に何度も体をぶつけた。
「わたしを出して! こんなことをして、許さないから!」
中庭に出て、伯爵は目を閉じ意識を集中した。夜が明けたことが、肌で感じられる。
太陽が見たいと心の中で唱えながら、地上を干し砂漠に変える殺人的な太陽を思い浮かべた。ぎらぎらと照りつけ、わずかな水をも蒸気に変える太陽。熱い砂。乾いた植物。さあ、現れろ。
彼の意識が森全体に流れ、循環し、上昇した。森の意識が彼の意識に引きずられるように、動き始めた。目には見えない経路をたどり、意識の力が森の上空を覆った。
「太陽が見たい」
彼は目を開け、空を見上げた。厚い雲が薄れ始めている。
視界の隅で二匹の巨大な化け物が城に体当たりし、一匹が尖った手で二階の木の扉を突き破るのが見えた。化け物はエリザベートの召使いを突き刺し、口の中に放り込む。召使いはなす術もなく化け物の餌食となった。
東の空に曙光がさし、赤紫の光が霧のような魔物たちを切り裂く。彼らは甲高い声をあげながら薄れ、見えなくなった。精霊の木があった場所にぽっかりと空いた穴が、光を浴びてみるみる塞がっていく。
エリザベートの姿があらわになった。大きな口に手足のついた醜怪な姿が、魔物の塊の上に浮いている。彼女は突然現れた陽光に舌打ちし、池のそばの木陰に隠れた。強い力を持つ彼女でさえ、まともに陽光を浴びては生きられない。池の周囲は枝や葉に覆われて光が届かず、恰好の隠れ場だ。
伯爵が魔物たちの猛攻撃をかわしながら池の上の枝の半分を切り落とし、矢のような光にさらされた池は瞬時に干上がり半分の大きさになった。
エリザベートは激怒し、伯爵に罵声を浴びせた。
「悪戯が過ぎるわよ、小僧」
化け物をけしかけ、伯爵を襲わせる。鋭く尖った手が斧のように、執拗に伯爵に振り下ろされる。伯爵は巧みにかいくぐり、化け物の心臓を貫いた。化け物は弱った素振りも見せず斧と化した手を振り回し、エリザベートの高笑いが響き渡った。
「私の息子に弱点はないのよ。おまえとは違うの。そんな布きれを被っただけで、いつまでもつかしらねえ」
「お前の心臓を刺し貫くまで、もたせるさ」
伯爵がエリザベートに切りかかろうとした時、フィーリアの叫び声が響いた。化け物の手がぐにゃりと曲がってフィーリアに巻きつき、破壊された城の一階の壁から引きずり出す。グレイが手にしがみつき、剣を突き立てている。
フィーリアが化け物の手を叩き、何とか振りほどこうと暴れているのを見て、伯爵は城に向かって引き返した。
エリザベートの目があった箇所は口となり、それでも彼女には何もかもが見えていた。彼女は意識を集中し厚い雲を呼んだが、森の上空は伯爵の固い意志に支配され、うまくいかない。
舌打ちしながら池に目をやると、半分の大きさになったせいで一度に現れる魔物の数が減ってしまっている。子供たちを増やすには、もっと食べなければならないというのに。口を食虫花のようにすぼめ、湧いてくる魔物を一匹残らずすった。
ファンは城に向かって巨木の群生の間を進み、化け物に捕まってもがくフィーリアの姿を見つけた。
追いすがる狼を振り切り、命からがらたどり着いたというのに、今度は化け物だ。
彼の体は恐怖で凍りつき、震えが足から全身に回り、歯がカチカチ音を立てた。急に尿意を催し、膝から力が抜けていく。
恥ずかしくない生き方をしろよ、と彼は自分に言い聞かせた。誰も見てないなんて思うなよ。天がお前を見ているぞ。
「くそ……! フィーリアさまぁっっ!!」
ファンは腹の底から叫び、雄叫びをあげて突進した。
カミールの魔物の目にも、化け物の口の前でもがくフィーリアが見えた。
カミールは樫の扉を叩き、叫び声を呑みこんだ。熱い! 崩れた大広間の壁の間から、日が射しているのだ。扉が燃えるように熱くなっている。
伯爵が手で触れることなくバルコニーの扉を開けたことを思い出し、わたしにも出来るだろうかと思った。黒い魔布を頭からかぶり、地下霊廟の扉に意識を集中する。
扉が、吹き飛んだ。
太陽に温められた空気が熱風のように吹きつけ、恐怖心を呼び寄せる。太陽の下に出て、わたしは生きていられるだろうか。だがフィーリア様が危ない。カミールは歯を食いしばり、扉の外に出た。
急ぎ戻った伯爵の赤く光る刃が、一刀のもとにフィーリアを握った化け物の腕を切り落とした。
「フィーリア!」
グレイはフィーリアに飛びつき、自分の背中を地面に向ける。落ちる二人に向かって、雄叫びをあげるファンが突進した。全身で二人を受け止め、馬ごと倒れ込んだところに、怒り狂った化け物の指のない尖った手が振り下ろされる。
「危ない!」
グレイが叫び、フィーリアをかばいながら横に転がった。ぎょっとして目を見張るファンをかすめ、化け物の手は素早く立ち上がった馬に突き刺さった。馬の体が持ち上がり、化け物の口の中に消えていく。
「俺の大事な馬を、よくも!」
怒ったファンは剣を抜き、化け物に切りかかった。
「下がっていろ!」
伯爵が怒鳴りながら、人間たちを守るように化け物に切りつける。
「馬鹿なキリアン。そういう情けが、命取りになるのよ」
エリザベートが長い舌で唇をなめると、もう一匹の化け物の手が伯爵の背中を切り裂いた。裂けた肉に太陽が容赦なく照りつけて、伯爵はもんどりうった。
歯を食いしばって布を巻きなおし、金の輪で留める。彼の驚異的な治癒力をもってしても、陽光に焼かれた傷を癒すには時間がかかる。
昇りきった太陽がぎらぎらと照りつけ、伯爵は苦悶の表情を浮かべた。いかに魔布でも、長くは持ちそうにない。彼は、焦った。
「伯爵、見て!」
フィーリアの視線の先で、切り落とされた化け物の腕が太陽に照らされている。腕は燃えて炭になり、消えた。
「切り落とされた箇所は消えるんだわ」
フィーリアの言葉にうなずき、伯爵は化け物に切りつけた。
(フィーリア様は無事だ)
カミールはほっと胸を撫で下ろし、斧を抱えて奥から出てきたコナリーを呼び止めた。
「わたしにも金の輪をください。この布を留めたいの」
彼はぎょっとし、困惑している様子だ。
「しかし……伯爵様は、あなたを外に出さないようにと……」
「伯爵一人に戦わせるつもりなの?」
彼女は、老人を睨んだ。
「責任は、私がとります。あなたは私に脅されたとでも何とでも言えばいいの」
コナリーは彼女をじっと見て、首を振りながら奥に引っ込み、箱を抱えて戻って来て、中から金の輪を取り出した。
「君は隠れていろ」
グレイはフィーリアに言い、剣を振り上げ、化け物に向かって走った。ファンは怒りにまかせて化け物の脚に切りつけ、変幻自在に姿を変える手につかまって持ち上げられた。もう一匹の化け物が大きく口をあけ、ファンの頭に近づく。
「うわぁー!!」
叫ぶファンめがけて数匹の狼が飛び出し、化け物に食らいついた。
「行け。僕の狼たち!」
ピエールがフィーリアの隣に立ち、肉切り包丁を振りながら大声で怒鳴る。死んだ老狼たちは空中を飛び回り、化け物の首や肩に噛みついた。
「伯爵様からもらった血を、少し飲ませてみたんだ」
ピエールは嬉しそうに言い、フィーリアと両手に包丁を持って立つアネッタに微笑みかけた。コナリーが斧を手に化け物の足に切りつける。
青く稲妻が走り、ファンをつかんだ腕が切り落とされた。カミールは素早くファンの胴をつかみ、地上に降ろす。すかさず飛び上がり、化け物を切り刻んだ。化け物はどうっと倒れ、黒い躯体に老狼たちが群がった。グレイとファンが剣で切りつけ、コナリーが斧で太い脚を切り落とす。切られた箇所は煙をあげて燃え、消えた。
いきなりカミールが現れ、伯爵は愕然とした。――扉を壊して出てきたのか。ヴァンパイアになったばかりの未熟な体で、太陽の光に耐えられるわけがない。
今にも目の前で彼女が燃え出してしまいそうで、彼は心の底から恐怖を感じた。どうしておとなしく隠れていないんだと、恐怖が激しい怒りに変わっていく。彼女を無理矢理地下室に連れ戻そうと近づく彼に、化け物が襲いかかった。
別の化け物が、カミールめがけてカマと化した腕を振る。彼女はさっと身をかわし、カマめがけて剣を振り下ろした。伯爵が化け物の足に切りつけ、化け物は倒れ込んだ。老狼たちが群がり、化け物の体を食い散らす。
「地下室にいろと言っただろう。死にたいのか」
いきなり伯爵に怒鳴りつけられ、彼女は目を細めて彼を見た。
「生きるために出てきたんです。みんなを死なせて私だけが生き延びたら、心が死んでしまいますから」
「皮膚が燃え始めているぞ。わかっているのか」
彼は彼女の腕をつかみ、地下室に引き戻そうとした。
何てわからず屋なの。カミールは、かっとなった。みんなが命の危険にさらされている時に、じっとしていられると思っているんだろうか。フィーリア様や伯爵が死ぬかもしれない時に。彼女は、彼の手を振り払った。
「わたしはあなたに忠誠を誓ったけれど、奴隷じゃありません」
彼を鋭く睨み、カミールは化け物に向かって飛んだ。太陽に照らされ、まるで溶鉱炉の中にいる気分だ。黒い布ごしに突き刺さる陽光が痛い。伯爵の言う通り、皮膚が燃え始めている。血が沸騰しているかのように、全身が熱く苦しい。
伯爵は歯ぎしりしながら、カミールと二人がかりで、残った化け物を処理した。
池の方角から新たな化け物が二匹、こちらに向かっている。
もう限界だ。伯爵はカミールの腰を抱き、城に飛んだ。崩れた壁から中に入り、地下霊廟の奥まで進む。ずらりと並んだ棺桶を飛び越え、最も奥の壁に彼女を押しつけた。黒い布を取り去り、彼女の全身を見る。所々焼け爛れているが大丈夫だ、すぐに完治するだろうと彼はほっと息をついた。
有無を言わさず連れ戻されたカミールは、こみ上げる怒りを抑えかねていた。
「自分の面倒は、自分でみます」
「ほう。それで死にかけたわけだな」
伯爵の嘲るような口調に、彼女の自制心が切れそうになった。
「どうなろうとも、わたしの責任です。あなたは黙ってわたしに守らせてくださればいいんです。それがわたしの仕事なんですから」
「いいか、よく聞け」
伯爵は怒りの形相で彼女の肩をつかみ、激しく揺さぶった。
「お前は私の妻だ。私は自分の妻を、危険にさらすつもりはないからな」
「わたしは騎士です。人を守るのが役目です。あなたがわたしをどう思おうと勝手ですが、わたしの仕事の邪魔はさせないわ」
彼はぎりぎり歯を噛みしめて彼女を睨みつけ、彼女は殺気立って彼を睨み返した。
この横柄で横暴で高飛車な男を棺桶に閉じ込めてやったら、どれほど気分がすっきりし、安心して戦えることだろうと彼女は思った。彼の火傷の方が重傷だ。わたしがどれほど心配し、彼を守りたいと思っているか、棺桶の中でしっくり考えればいい。
ちらりと棺桶を見る彼女の視線に気づき、伯爵は目を細めた。
「そんなことをしてみろ、どこかに閉じ込めて永遠に外に出られないようにしてやる。そうすれば、私は安心して戦える」
「わたしは、出たいと思ったら出ます。あなたにわたしを閉じ込める権利はないわ」
「私の妻になると言ったのではなかったのか。私には、夫の権利がある」
「わたしの妻! 権利! 何だか物になり下がった気分だわ。傷つかないよう衣装箱の底に仕舞い込まれる、あなたの舞踏会用の靴になった気分よ」
逆上してもはや自分を抑えられなくなったカミールは、胸ポケットから狼の紋章の指輪を取り出し、彼に突きつけた。
「お返しします。あなたの靴にはなりたくありません。どんなに上等な靴でも」
彼の手に無理矢理指輪を握らせて、黒い布を整えながら、カミールは出口に向かって走った。扉のそばで、振り返る。
「閉じ込めておけば無事とは限りませんよ。あなたが死んだあと、一人で生きるつもりはありませんから」
彼女はそう言って、地下霊廟から飛び出した。伯爵は拳を握り締め、開き、大きく息を吐き出した。




