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第10章 乱れる心


「これに着替えてくれ」

 伯爵から手渡された物を見て、カミールは驚いた。ロイヤルブルーの美しいローブだ。

「でも、わたし、ローブなんて一度も……」

 彼女は戸惑い、伯爵を見上げた。

「これは、どなたの……?」

「屋根裏部屋にあったものだ。私は大広間にいるから、アネッタに手伝ってもらうといい」

 彼はそう言って貴婦人に接するように丁寧に会釈をし、悪戯っぽく微笑んで部屋を出て行った。


「ごめんなさいね、アネッタ。こんな事までさせてしまって」

 カミールが申し訳なさそうに言うと、アネッタは彼女にローブを着せながら頬を染めた。

「……楽しい……です」

 そう言って針箱から針と糸を取り出し、嬉々として手直しを始める。

「何かいいことがあった?」

 カミールがアネッタの顔を覗き込むと、彼女は恥ずかしそうに頷いた。


 昼前、アネッタは伯爵に命じられ、コナリーと一緒にフィーリア達に食事を運んだ。ラックに残った数名を除く四十人余りの難民達とフィーリアはコルバイン村までやって来たのだが、小さな村なので滞在させることはできないとモージュの森に追い立てられたのである。


 食事を荷馬車に積み、アネッタが森のはずれに着いた時、ぐったり座り込んだ人々の顔には疲労と絶望が浮かんでいた。フィーリアは二人に会えて嬉しそうだったが、すぐにラックに引き返さなければならず、ファンは森には狼がいるのにとこぼしていた。


 アネッタは、生きた人間のように料理を振る舞った。鰻のパテ。ひばりの焼肉。兎のシチュー。マッシュルームのハチミツ煮。辛子ソース入り鯉のスープ。大麦パン。デザートは、フィーリアの大好きな林檎のケーキだ。難民達の間で歓声があがった。


「こんな美味い食事は初めてだ」

 人々の暗い表情が、食事が進むにつれ明るく変わっていく。絶望で黙り込んでいた者たちが、お喋りを楽しむようになった。満腹になると笛の音に合わせて踊り出し、子供たちは微笑を浮かべて眠った。誰もが幸せそうに見え、アネッタは信じ難い発見に胸を躍らせた。


 ――――私は、人を幸せにできる。


「ありがとう。美味しかったよ」

 そう言われ、彼女の胸にこみ上げるものがあった。なんとも言えない幸福感に体が震え、人を幸せにできたら自分も幸せになれるのだと思った。

 

 カミールは、アネッタの服の色が変わったことに気がついた。いつもはくすんだ灰色なのに、今日は淡いピンク色だ。

「服を着替えたの?」

 カミールが尋ねると、アネッタは「……やっと着替えられ……ました」と嬉しそうに笑う。




 大きな姿身に映る自分の姿を見て、カミールは本当に自分だろうかと思った。

 金茶色の髪を結い上げ、あらわになった細い首。顔を縁取る巻き毛が、少年のような顔を柔らかく見せている。細い体の線に沿って流れるロイヤルブルーのローブ。腰のあたりにゆったりと巻かれた金の鎖。


 部屋を出て階段を降りると、伯爵は大広間でワインを飲んでいた。グラスを持つ彼の手が一瞬止まり、目が賛嘆に見開かれる。

「綺麗だ」

 伯爵はグラスをテーブルに置き、彼女に歩み寄った。彼の牙が伸びているのを見て、カミールが軽く眉を上げる。


「牙が疼くよ。君の血は、いくら飲んでも飲み足りない。美しい姿を見るとなおさら欲求がつのる。いっそこのまま君をさらって、寝室に閉じこもりたい気分だ」

 彼は彼女の手をとり、指先に口づけた。


「エリザベート・ヴィッテル夫人がお見えでこざいます」

 コナリーが緊張の面持ちで伝えた途端、伯爵の顔つきは険しくなった。

「通してくれ」

 大広間に入って来たエリザベートを迎え、カミールは目を見張った。――何て美しい人だろう。

 宝石を縫い付けた頭飾り(コウル)をかぶり、先端から優美な長いヴェールを床まで垂らしている。ウエストの高い真紅のローブはスカートのドレープがたっぷりとして華やかで、まるで女王のようだ。


「お久しぶりね、キリアン」

 エリザベートはカミールには目もくれず、伯爵にあでやかに微笑みかけた。伯爵は目を細め、冷ややかに答える。

「カミール・クリステンだ」

 カミールに向き直り、

「彼女はエリザベート。我々の先輩格だ」

 と安心させるように頷いた。エリザベートは微笑みながら、カミールを鋭く横目で見た。

「あらあら。使用人に挨拶しろとおっしゃるの?」


 伯爵は、顔をこわばらせた。

「カミールはこの城の女主人だ」

 エリザベートの美しい笑い声が響き渡る。

「ごめんなさいね。カミール、でしたかしら? わたくしは世の習いに従っただけ。あなたに辛く当たるつもりはないのよ」

「いいえ」

 カミールは、小さく笑った。わたしは伯爵に仕える身だ。それはヴァンパイアになったところで変わらない。

「長旅でお疲れになったでしょう。どうぞこちらへ」

 カミールがエリザベートを大広間のテーブルに案内すると、コナリーがグラスに狼の血を注ぎエリザベートの前に置いた。


「まあ。何なの、この臭い。獣の血? わたくしは歓迎されてないのかしら」

 彼女は、華やかな刺繍をほどこしたハンカチを鼻にあてた。

「歓迎するかどうかは、そちらの出方しだいだ」

 乾杯するようにグラスを掲げているが、伯爵は剣呑な雰囲気を漂わせている。

「この森は私の領地だ。今晩は泊めるが、明日の夜には立ち去ってもらいたい。池には近づかないでくれ。承知してもらえるな?」


 エリザベートは、冷たい笑みを浮かべた。

「池をどうするつもりなの?」

「封印する」

 カミールのはっとした顔が、伯爵に向けられる。

「どうやって?」

「方法は、これから考える。お前には関係のない話だが」


 お前呼ばわりされ、エリザベートの美しい顔に怒りが走った。

「わかったわ。話は後にしましょう。まずは休ませて頂けないかしら。疲れてしまったわ」

 額に手を当てて首を振り、カミールに向き直る。

「お部屋に案内してくださる?」

「もちろんです」

 カミールは立ち上がり、エリザベートを二階の最も広い部屋に案内した。


 部屋の中で召使いと侍女が荷ほどきを始め、カミールは二人を見て驚いた。人間のはずなのに、人間らしい生気がない。青白い顔をして、おどおどとエリザベートの顔色を伺っている。

「この二人は、ヴァンパイアですか?」

「半ヴァンパイアと呼ばれる者たちよ」

 エリザベートは丸テーブルの前に置かれた小さな椅子に腰掛けて、指でテーブルをこつこつ叩いた。召使いが急いで荷物の中から皮袋を取り出し、杯に血を注ぐ。


「半ヴァンパイア?」

 召使いから杯を受け取り、エリザベートはごくりと一口飲んだ。

「生死の境目まで血を飲み干された人間のことよ。あと一歩でヴァンパイアになるというところで放っておくと、こうなるの。親、つまりわたくしの血がもらえるなら何でもするようになるわ。毎日僅かずつ血を与えてやるだけで、忠実な人間の下僕が出来上がるというわけ」

 エリザベートは椅子に背中を預け、カミールに嘲るような視線を送った。

「ここには、いないの?」

「いません」


 カミールは、湧き上がる怒りを懸命に抑えた。口もとをほころばせたエリザベートが、カミールを凝視する。

「あなたも大変ね。変わり者のキリアンに合わせなければならないんですもの。でも、彼の血は美味だから。多少のわがままも我慢できるわね。今でも革と樹木の香りがするのかしら」

 カミールの顔色がさっと変わったのを見て、エリザベートは笑った。


「まさか、彼とわたくしの間で何もなかったとは思ってないわよね。彼が愛したヴァンパイアの女は、何人もいるわ。彼は、口説き魔だから。贈り物魔でもあるわね。口説く時はいつも、宝石や装飾品を贈るのよ。これも……」

 首を飾る首飾りに触れる。血のようなルビーをふんだんにあしらった首飾りは、女王の持ち物のように豪華だ。

「彼から贈られたものよ。あなたは何を貰ったの?」

「わたしは……別に、そんな……」

「何も貰えなかったの? まあ」

 エリゼベートは目を丸め、驚いた顔をした。


「ドレスは? 今着ているのは、一時代前のデザインのようだけれど」

 カミールが着ている古めかしいロイヤルブルーのローブに目を馳せる。

「準備をする前に、貴女が見えたので……。それに、普段はローブを着ないんです」

 言い訳をしているようで、嫌な気分だとカミールは思った。


「まあ! あの贈り物魔のキリアンが、ドレスも贈らないなんて。まあ」

 エリザベートは口をぽかんと開け、すぐに閉じ、哀れみの目をカミールに向けた。

「自分を安売りしたわね。伯爵から見れば好都合だったと言うべきかしら。手間暇かけずに手に入ったんだから。でも見たところあなたは貴族ではなさそうだし、仕方がないわね」

「失礼じゃありませんか」

「失礼なのは、彼よ」

 エリザベートは、優雅に手を振った。

「貴族の彼が使用人を愛人にしたからといって、見下すような真似をするなんて。あなたもきちんとした対応を彼に求めた方がいいわよ。そうしないと、後で泣きを見るわよ。彼って最初は情熱的だけどすぐに飽きるし、飽きた女に対しては冷淡だから」


 もう、たくさんだ。何も聞きたくない。カミールは耳を覆いたい衝動を抑え、静かに言った。

「わたしは失礼します。ご用がありましたら、コナリーにおっしゃってください」

 そう言い残し、部屋を出た。


 彼は最初は情熱的だけど――――エリザベートの言葉が頭を巡る。すぐに飽きるですって? 彼女の言葉など無視しようと思うけれど、毒がじわじわと効いてくる。女性にドレスや宝石を贈る贈り魔――――。カミールは二階から三階に上がり、廊下の壁に力なくもたれかかった。


 何も貰えなかった――――。嫌な言葉が脳裏をよぎり、彼女は激しく首を振った。

 贈り物が欲しいとは思わない。心は物では計れないし、宝石やドレスはわたしには必要のない物だ。だのに、どうしてこんなに悲しいんだろう。


 カミールは、低い声で笑った。彼から見れば、贈る時間もなかったじゃないの。わたしの方からそばに置いてほしいと懇願し、ヴァンパイアにしてくれと迫ったのだから。


 たとえ時間があったとしても、彼はわたしに何かを贈ろうとは考えないだろう。わたしは貴婦人ではないのだから。そう思うと涙があふれそうになり、天井を見て目をしばたいた。


 彼にとって、わたしは何だろう。わたしはどういう立場にいるんだろう。彼は離したくないと言ってくれたけれど、その気持ちがいつまで続くだろう。彼に尋ねてみたいけれど、どう尋ねればいいのか。言葉を間違えれば不安だらけの女、何かをねだる物欲しげな女に映るだろう。そんなつもりは全くないのに。

 エリザベートが嘘をついている可能性だってある。だけど彼女は彼の血の香りを知っていた。飲んだことのある者にしか分からないことだ。


 カミールは裏庭に出て、月を仰いだ。ふとフィーリアに会いたくなった。コナリーとアネッタから姫君は元気そうだったと聞かされたけれど、昼間は会いに行けない。もう眠っているだろうか。今のわたしを見て、怯えるだろうか。


 伯爵のように、城にいながらフィーリアの姿が見えたらいいのに。それが出来ない以上、こちらから会いに行くしかない。カミールは伯爵の寝室に戻り、いつもの男装に着替えた。――――やはりわたしに美しいドレスは似合わない。

 椅子に掛けたロイヤルブルーのローブに目をやり、時代遅れでも伯爵が贈ってくれたものだと丁寧にたたみ、丸テーブルの上に置いた。


 バルコニーに出て、飛べるだろうかと下を見た。飛べそうな気がする。一歩踏み出すとふわりと体が浮き上がり、ふわりと地面に着地した。地面を力一杯蹴ると、周りの景色が見えなくなるほどの速さで前に進んだ。巨木が目の前に迫り、あわてて方向転換する。

 一歩で数十メートル進んでいるようだ。伯爵のように上空までは飛べないが、巨木を飛び越すことはできる。面白くなって、彼女は歓声をあげながら木々を飛び越えた。





 フィーリアは眠る人々を眺めながら、自身は眠れないまま焚き火にあたっていた。

「眠れないのか」

 グレイが起きて来て彼女に囁きかけ、辺りの気配を探る。異質な気配を感じ、グレイは守るように彼女の隣に座った。


 焚き火にあたる二人を、カミールは遠くから眺めていた。数十メートル先のものでも、彼女の魔物の目にはよく見える。フィーリアの顔は懐かしく、別れた時より大人びていた。一度に色々なことがあり過ぎて、大人にならざるを得なかったのだろう。

 カミールの脳裏に、伯爵に仕えたいと申し出た時のフィーリアの悲しそうな顔が浮かんだ。フィーリアを助ける為だとは言えなかった。自分のせいでラスが死んでしまったと泣くフィーリアに、心の負担を負わせたくなかった。それに今思い返すと、理由は他にもあったように思える。あの頃既に、伯爵に心を奪われていたのだ。


 理由を問われても答えない自分をフィーリアは許してくれたけれど、内心傷ついていたのではないだろうか。そう思うと申し訳なくて、胸が痛んだ。


 彼女はしばらくの間フィーリアをみつめ、会うのはよそうと決めた。魔物になった今の自分を見られたくない。いつまでも人間のままの姿を記憶に留めておいてほしい。目の奥が熱くなり、カミールはフィーリアに背を向けた。


 城に戻ろうとしたところで、黒い霧が出てきた。霧は木々を通り抜け、北に向かって流れていく。ヴァンパイアになっても、黒い霧は以前と同じように見えた。霧の中でうごめく異形のものたちが、敵意を込めて彼女を見る。


 人間だった時は見逃されることが多かったのに、魔物になった途端、敵というわけか――。上等だ。魔物同士、戦ってやろうじゃないの。エリザベートと話して以来ぶすぶすと燻っていたものが、発散の場を求めている。カミールは剣を抜き、一匹の魔物に切りかかった。


 ぎゃあっ。魔物は甲高い声を上げ、真っ二つに切れた。彼女は信じられない思いで自分の剣を見た。刃のまわりが、青白く光っている。

 魔物たちが一斉に彼女に襲いかかり、彼らの動きが異様に遅く感じられる。彼女は飛び上がり、横に跳ね、一匹ずつ片付けていった。殆どの魔物は、真っ二つに切り裂かれると消えてしまう。消えないまま執拗に襲ってくるものは、さらに細切れに切り裂いた。


 カミールは戦いながら喜びを感じた。わたしは戦える。人間の時とは違い、ヴァンパイアの体は疲れ知らずで驚異的なスピードだ。青白い光が何なのかはわからないが、光が魔物を消すらしい。


 この先も生きていけると、彼女は思った。魔物を退治しながら生きよう。生きる目的があれば、一人でも生きていける。伯爵との別れを思うと胸が刻まれるようだけれど、もしも彼が望んだら別れるしかない。


 黒い霧が消えていく。彼女は目をしばたかせ、伯爵とのことはいつか終わりが来ると自分に言い聞かせた。覚悟があれば、終わりが来た時に醜態を晒さずにすむ。でも、まだ終わりじゃない。その時が来るまでは、幸せな思い出をたくさん作ろう。カミールは唇を噛み、城に向かっった。




 

 城の大広間で、伯爵は苛立っていた。

 これまでは森の中が手に取るように見えていたのに、エリザベートが現れた途端に何も見えなくなった。エリザベートの力は自分より遥かに強い。分かってはいたが、彼女に遮られて視界を奪われると、力の差を見せつけられているようで怒りがこみ上げる。


 エリザベートとカミールを二人きりにしたのは間違いだったかもしれないと、彼は大広間の床を行きつ戻りつした。何度階段を見上げても、カミールが下りて来る気配はない。一体何をしているんだと、心配と不安が怒りに変わっていく。とうとう待ちきれなくなり、彼は階段を駆け上がった。客室の扉を叩くと、ジレがぬうっと顔を出した。


「マダムは?」

 伯爵の問いかけに、ジレは伯爵を睨みつけ無言で応えた。伯爵が殺気立った眼つきで睨み返すと、ジレの表情がさっと変わる。

「お出かけになりました」

 伯爵は、ぴんときた。池だ。あの女、私の警告を無視したな。


「カミールも一緒か」

「いいえ」

 そう答えた後、再び無言で伯爵を睨む。威厳を取り戻すことにしたらしい。首をへし折ってやろうかと考え、時間の無駄だと思い直し、伯爵は急ぎ池に向かった。


 エリザベートが、魔物の池を眺めている。

「近づくなと言ったはずだぞ」

 伯爵の言葉に振り返ったエリザベートは、真剣な表情を浮かべていた。

「カミールが心配だったのよ。うまく飛べるかどうか気になって。でも、大丈夫。飛んだり走ったり、楽しそうに遊んでるわ」

「遊んでる?」

 伯爵は目を細めてエリザベートを見た。彼にはカミールの姿は見えない。


「あなた、彼女を押さえつけていたのね。一人で自由に飛ぶことをさせてあげなかったんでしょう?」

 彼は渋面をつくり、目を逸らした。時間がなかっただけで、彼女の自由を奪っていたわけではない。

「だから、この首飾りに関心を持ったのね」

 エリザベートは先ほどカミールに見せた、ルビーの首飾りに手を置いた。


「ビザンチンの王子から貰った物なのだけれど、彼女とても興味を持ったみたいで、根掘り葉掘り聞くのよ。あんまりしつこく聞きたがるものだから、わたくしつい怒ってしまって。彼女、部屋を飛び出したの。わたくしが心配になるのも無理はないでしょう?」

「カミールは宝石に興味をもったりしない」

 伯爵は、エリザベートの金色の混じった黒い瞳を見据えた。この女が嘘つきだということは、よく知っている。自分以外の誰かを心配するなどあり得ないということも。出会った直後に芽生えた熱い想いは、彼女の本性を知ってすぐ嫌悪に変わった。それは、今でも変わらない。


「いいえ、彼女が興味を持ったのは王子の方。ヴァンパイアの王子がいると知って、興味を持ったみたいよ。彼女の知っている世界は、とても狭いから。あなた、彼女をヴァンパイアに変える前に広い世界を見せてあげるべきだったわね。その上であなたを選ぶか他の人を選ぶか、判断させるべきだったわ」

 伯爵の胸が、ちくりと痛んだ。エリザベートの言う通りだと認めざるを得ない。ラーベン近隣から出たことのない彼女を、判断材料を与えないうちに自分のものにしてしまった。カミールの将来も考えず、抑え難い自分の欲求に屈服してしまったのだ。カミールが望んだというのは、言い訳にすぎない。


「お前の言うことは、何一つ聞かないことにしている」

 彼は内心の動揺を押し隠し、冷たく言い放った。

「あら、そう。でもこれだけは人生の先輩として、彼女と同じ女性として、言わせていただくわ。彼女に自由をあげなさい。今からでも遅くないから、彼女を解放するのよ。あなた以外の男性について何も知らない娘を、押さえつけて閉じ込めておくなんて、正しい事じゃないわ」

 伯爵は歯ぎしりし、エリザベートを睨んだ。


「私の望みは、お前を遠ざけることだけだ。池にもカミールにも私にも、今後二度と近づくな」

 一語一語、はっきりと命令した。彼の目の中の怒りを見て心の中で笑いながら、エリザベートは冷たい目で彼を見返した。

「わたくしに命令できるほど、あなたに力があるの? わたくしが本気になってあなた達と戦ったら、200年生きているあなたはともかく、ヴァンパイアになったばかりの彼女はどうなるかしらね。わたくしに出て行かせたいのなら、命令するのはやめることね」

 彼は目を細めた。

「命令や戦い以外に、お前を追放する方法があるとでも言うのか」

「懇願しなさい」

 エリザベートは、こちらに近づいて来るカミールに気づいて舌なめずりした。


「気が変わったわ。私の心を酔わせるような甘い口づけをして頂戴」

 妖艶に微笑むエリザベートを見て、伯爵は何か企んでいるなと警戒した。この女が無意味なことを言うはずがない。

 しかし周囲を見回しても何の気配も感じず、彼はエリザベートに向き直った。

 心の通わない口づけ一つでカミールの安全が買えるなら、安いものだと思う。エリザベートは嘘つきだが、気まぐれでもある。彼女の気まぐれな思いつきに乗ることでカミールの命が守れるのなら、乗ってみる価値はある。


 伯爵はエリザベートに顔を寄せ、おざなりに口づけた。その光景が池のそばにやって来たカミールの目に飛び込み、彼女を凍りつかせた。


 わたし達は、終わっていた……。

 まだ終わりじゃないと思っていたのはわたしだけで、伯爵の心はとっくにわたしから離れていた。


 カミールの心が悲痛な悲鳴をあげ、震えた。エリザベートが城に現れた時の姿が、脳裏に浮かぶ。豪華な彼女の衣装と、古ぼけた自分の衣装。まるで伯爵の気持ちを象徴しているかのようだ。

 カミールは後ずさりし、踵を返した。涙が幾筋も連なって、彼女の頬をこぼれ落ちた。


 走り去るカミールの哀しい後ろ姿に気づき、伯爵は奥歯を噛み締めた。怒りで血走った目をエリザベートに向ける。

「約束は果たしたぞ。出て行くんだろうな」

「ええ。もちろん」

 彼女はにっこり笑い、城に戻る道を歩き出した。エリザベートは信用できないと思いながらも、伯爵はカミールを追った。





 エリザベートは伯爵の後ろ姿を目で追いながら、忍び笑いを洩らした。

 あんな女としての魅力に欠ける娘でも伯爵の視線を自分や池から逸らせる役には立つらしいと、ほくそえみながら池に戻ってじっと水面を見つめると、地下世界を周回する魔物が透けて見えた。

 地上にいながら地下世界が見えるというのは便利な場所ではあるが、集まっている魔物の数が少なくて、彼女はがっかりした。強大な力を手に入れる為にはもっと大量の魔物を集め、一気に食べる必要がある。どうすればいいか……。


 生贄を使えばいいと思いつき、唇の端に悪鬼のような笑みを浮かべる。苦しみながら死ぬよう仕向ければ、魔物たちは喜んで集まってくるだろう。大昔の神官たちはそのことをよく知っていて、生贄に残虐な死を与えた。やはり若い娘がいいかしらと視線を巡らせ、森の入り口で焚き火にあたる格好の娘を見つけた。

 静かに死なれては、役に立たない。素直に泣き叫ぶ子供が生贄には相応しいと、エリザベートは紅い舌で唇を舐めた。


「ジレ」

 客室に戻り、侍従を呼ぶ。

「ありったけの香水瓶を持って、魔物の池で待っていなさい」

 ジレはぎょっとした。待っている間に魔物に襲われるかもしれない。強い力を持つエリザベートとは違い、ヴァンパイアになったばかりの自分に勝ち目はない。怖気づいた彼に、彼女は鋭い視線を向ける。


「役に立たないなら処分するわよ」

 激しく首を横に振るジレを一瞥し、彼女はバルコニーから夜空に向かって飛んだ。言い争うキリアンとカミールを下方に見ながら、森のはずれに向かう。


「そろそろ寝た方がいいよ」

 グレイがフィーリアに声をかけた。

「そうね。話を聞いてくれてありがとう、グレイ」

 眠そうに目をこするフィーリアを見ながら、グレイは心を痛めていた。

 コルバイン村に向かう難民達に付き添いたいというフィーリアの申し出に、サンジュアン卿はいい顔をしなかった。バリー侯との会談を控えていて、余計な手間を掛けさせるなと卿はフィーリアをたしなめた。

 コルバイン村に到着したらすぐに戻るからとグレイが卿を説得し、ようやく許可がおりたのである。 それでも明日の朝、フィーリアは難民達を置いてラックに戻らなければならない。泣き出しそうになるのを懸命にこらえている彼女の顔を見ると、グレイの胸は痛むばかりだった。


「本当に、そろそろ眠らないとね」

 フィーリアが言い終わらないうちに空から黒いマントが降って来て、彼女に覆いかぶさった。彼女の叫び声が夜のしじまに響き渡り、グレイは咄嗟にフィーリアに飛びついた。右手で彼女の足首をつかみ、左手で黒いマントを握る。顔を上げると、赤い唇の女が彼を見下ろしていた。


「グレイ、逃げて!」

 フィーリアが叫ぶ。

「もう、遅い!」

 下を見て、グレイは目が回りそうになった。森の上空を飛んでいる。

 フィーリアの叫び声に、難民たちは飛び起きた。ファンも目を覚まし、夢を見ているのかと目をこする。フィーリア姫とグレイが夜空を飛んでいる……。


「姫様が魔物にさらわれた!」

「サンジュアン卿の従士もだ!」

 人々が空を見上げて叫び、次いでファンに視線を向けた。人々の視線が自分に集まっていることに気づいたファンは戸惑い、はたと思い当たった。

 コルバイン村までフィーリア姫と難民達を護衛した兵士たちは村の駐屯部隊に合流し、今ここにいる兵士は自分一人。あの怖ろしい森を突っ切って姫君を助けに行くべき兵士は、自分一人。

 

 ファンは唸り声をあげ、両手で両頬をぱしっと叩いた。

「俺は……俺は……姫様を助けに行く」

 彼は、か細い声を張り上げた。

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