第8章 血と愛
翌日の朝早く、ラーベンの難民たちが来ていると聞き、フィーリアはラックの街はずれまで馬を飛ばした。
街の入り口近くにかたまった人々を見て、フィーリアの目に安堵の涙が浮かぶ。見知った人たちだ。大半は小作農たちだが、乳母のドーマや小間使いのマルグリットの姿も見える。
「姫様、よくご無事で」
フィーリアは乳母に抱きしめられ、すすり泣いた。両親の訃報を聞いてから初めて流す涙だった。ファンは妻のオデットと抱き合って無事を喜んでいる。
「これからどうするの? どこへ行くの?」
フィーリアが無邪気に尋ねると、乳母は悲しい顔をした。
「それをお決めになるのは、姫様です。ラーベンの主は姫様なのですから」
大人や子供を合わせ50人ほどの人々が、期待を込めてフィーリアを見ている。そうだったと、10歳の姫は唇を噛んだ。自分が彼らの面倒を見なければならないのだ。泣いている場合じゃない。
サンジュアン卿に苦境を話したが、卿は首を横に振るばかりだった。
「50人もの人間を受け入れられる領地など、どこにもない。ばらばらになって、自力で生きていくことだ」
ラーベン近隣はどこも、天候不順と不作で苦しめられている。50人もの人間を受け入れて食べさせられる領地がないのは、よくわかる。でも、たとえばらばらになっても何処へ行けばいいのか。
「ラーベンはバリー候に占領されています。候に頼んで、農民を置いて頂くことはできないでしょうか」
フィーリアは誇りを捨てて尋ねた。小作農は領地の宝だと父は言っていた。彼らがいてくれるからこそ、領主は食べていけるのだと。バリー侯も小作農を粗末にはしないだろうフィーリアは思ったが、期待は見事に裏切られた。
「バリーにそんな余裕はない。彼の領地はここ何年も不作に苦しんでいる。ラーベンを攻めたのも、その辺に理由があるのかもしれんな」
サンジュアン卿のほのめかしに、フィーリアは館の地下に備蓄された食料を思い出した。飢饉に備え、父が少しずつ貯めたものだ。それが目当てでラーベンを攻めたんだろうかと、フィーリアは涙ぐんだ。食べ物のために、罪のない人を殺すのだろうか。
がっくりと肩を落として難民たちのもとへ戻ったフィーリアに、追い討ちをかけるように悪い知らせが届いた。ラックの代表者から、立ち退きを命じられたのだ。サンジュアン卿の部隊の駐留で、ラックは疲弊し始めている。この上難民まで来られたら、いかに裕福な商人の街であろうとも破産する。今日中に立ち去れと言われ、フィーリアは困惑した。どこに行けというのだろう。
「コルバイン村まで行ってみてはいかがでしょう」
小間使いのマルグリットが言った。
「私の親戚もいますし、もしかすると耕せる農地がいくらかあるかもしれません」
フィーリアははっとした。セルヴァ伯爵は助けてくれないだろうか。
「セルヴァ伯爵の城に、一時的に避難するのはどうかしら」
ファンに顔を向けると、彼は渋い顔で首を振る。
「あの森は危険だ。狼もいるし、底なし沼もある。伯爵が道案内してくれなければ、迷うだけだ」
「伯爵に連絡をとる方法は?」
「あるわけない」
城までたどり着ければカミールが助けてくれるのに、とフィーリアは思った。ばらばらになって自力で生きろとサンジュアン卿は言ったけれど、家族と別れる辛さは身にしみて知っている。できるだけ離れ離れにならないよう行き先を決めたい。どうすればいいんだろう。
「今日中に出て行けとは、無理難題だ」
ファンは憮然としている。
「しかも、フィーリア様は残らにゃならん」
そうだった。ラックから出るなとサンジュアン卿に申し渡されている。フィーリアは、頭を抱えた。
夕方近くになってカミールは立ち上がり、菜園を見回した。コナリーに頼まれていたハーブの種植えを、ようやく終えたところだ。
わたしには農作業が向いている、さすが農家の生まれだと苦笑する。菜園の隅の切り株に腰をおろし、これからどうしようかと考えた。今日一日そればかりを考えていたが、結論が出ない。
ここにはもう居られない。それだけは確かだ。伯爵に懇願して置いてもらっているけれど、わたしがいる限り伯爵は血への欲求に苦しむだろう。人間の血を飲まないよう人里離れた森の奥に住んでいるのに、それでは意味がない。
笑いが欲しい伯爵は、わたしに道化師の役を望んでいる。でももうそんな気もなくなっただろう。昨夜の冷たい拒絶を思い出し、胸が痛んだ。わたしの顔を見るのも嫌になったに違いない。
この城を出て何が出来るだろうかと考え、これを考えるのは何十回目だろうと嘆息した。何も出来ないという答しか出て来ない。今までフィーリア姫を守ることしかして来なかったし、剣を振り回す以外に才能がないのだから。
ふと、本当にそうだろうかと思った。もしも貴婦人のようなローブを着て、美しく着飾ったら? 伯爵の目に留めてもらえるだろうか。女性用のローブを着たことはないけれど、わたしのような者でも変われるかもしれない。
でも、どうやってローブを手に入れる? 金品を持っていないのに。……盗む?
自分の心の奥底から湧き上がる考えに、カミールはぞっとした。
だが農民は飢饉に苦しんでいるというのに、一部の商人は裕福だ。ラーベンの領主夫人は倹約に励み質素だったが、ラーベンに野菜の種を売りつける商人の妻は王侯貴族のように着飾っていた。あの妻のローブを一枚ぐらい頂戴したって……。
そこまで考えて、カミールは激しく首を振った。こんなのは、わたしじゃない。
湧き上がる考えを拒否すると、彼女の背後から黒い煙が立ち昇った。ぎくりとして振り返り、空中をゆらゆら漂う三本の腕を持つ異形の物を見て剣を抜こうとし、やめた。煙のような姿は、刃では切れまい。
(お前の望みは何だ?)
魔物が問いかけて来る。その声があたかも自分の心の底から湧き上がったように感じられ、彼女ははっとした。
(欲しいものはつかみ取れ。どんな手段を使ってでも。それが生きるということだ)
(嫌だ。消えろ、魔物め!)
心の中で叫ぶと、魔物はかき消すように消えた。
魔物はこうやって人間を操るのかと、カミールは拳を握り締めた。自分の心の声のように思わせ、少しずつ洗脳するのだ。
夜ごとそそのかされ、気がつくと善人ですら欲望と不安に満ちた悪人になっている。
ラーベンが滅ばされたのも、そのせいだろうか。そう思うと心の底から怒りがこみ上げた。
昨夜だけで、あれだけ大量の魔物が野放しになったのだ。どれほどの人間が影響を受けていることか。
人間だけじゃない。天候も――。伯爵は、彼自身の気分がこの森の天候に影響を与えていると言っていた。多くの魔物が集まれば、災害や飢饉を起こすこともあり得るだろう。だがそんな魔物と、どう戦えばいいんだろう。
カミールは城を出て、精霊の木まで歩いた。精霊の姿は無く、ラスですら去ってしまっている。何が起ころうとしているのだろう。
近くに魔物の発生源があったはずだと彼女は辺りを見回し、マーカム・ウェイランドが現れた方角に歩き始めた。
鬱蒼と茂った木々の向こうに、池を見下ろす伯爵の姿が見えた。
池は黒味がかった緑色で、生物がいる気配はない。巨木の葉に遮られ星の光すら届かない暗い水面に、どろりと粘り気のある泡が現れては消えていく。ここが魔物の発生源なのだろうかと、カミールは足を止めた。
地下世界につながる池のほとりに立ち、伯爵は深呼吸をした。呼吸など必要ないのに、習慣は消えないものだと苦笑する。
毎年冬至が近づくと魔物が現れるが、今年は異常に数が多い。昨年より人間の死者が増えたとも思えないがと、伯爵は感覚を研ぎ澄ませた。遥か遠くまで魔物の行き先をたどると、定かではないが魔物を呼び寄せている者がいる。見知った気配が、ぼんやりと彼の脳裏をかすめた。
(エリザベートか――)
齢千年を超える、女ヴァンパイアだ。ヴァンパイアになったばかりの頃に出会った彼女の妖艶な姿を思い出しても、かつてのような熱い想いは蘇らない。いや、想いがあったのは私の側だけで、あの女にはあの頃すでに心が無かった。ヴァンパイアはもはや人間ではないと教えてくれた女だ。カミールとは違う。
カミール――。自分が彼女をどうしたいのかわからず、伯爵は苛立った。彼女をどうしても手離せないと気づいた時、彼女の血に対する自分の欲望は、何があろうとも抑えると決めた。だのに昨夜は危うく抑えきれなくなるところだった。
昨夜の彼女の誘惑……。おそらく彼女は誘惑しているつもりもなく、誘惑の意味すら知らないだろう。
あの時、彼女を求めて全身の血が熱くたぎった。彼女から人間としての幸福を奪ってしまうところだったと、伯爵は苦しく目を閉じた。
エリザベートは、この池の存在に気づいている。いずれ、ここに来るだろう。私の城でエリザベートに会うと、マーカムも言っていた。
他のヴァンパイアどもも人間もどうでもいいが、カミールだけは助けてやりたい。連中にとって人間の彼女は餌でしかないのだ。私に彼女を守りきれるだろうか。
彼女をヴァンパイアに変えておいた方がいいのではないかと考え、すぐさま否定した。自分の欲望を満たす理由を、こじつけているだけだ。
ここから立ち去るべきなのだろうが、他のヴァンパイアに自分の居城を明け渡すのは誇りが許さない。
カミールか自分の誇りか。選択を迫られている――――。
足音に気づき振り向くと、彼女が立っていた。薄暗い木立の陰でなお輝く髪。ゆったりとした三つ編みに束ね、巻き毛が美しい顔を取り巻いている。優しく凛々しい顔立ち。敏捷そうな細身の体。足取りは隙がなく、どこから見ても戦士だ。伯爵は魅せられたように彼女を眺めた。
彼女の目には、伯爵の端整な顔は冷たく蒼い目は感情を映さないように見えた。堂々とした姿でじっと彼女を見下ろしている。
「わたしに戦う力をください」
カミールは、意を決して言った。
「そうすれば、わたしは目的をもってここから出て行けます」
伯爵と別れることを思うと、涙ぐみそうになる。カミールは唇を噛みしめた。
「出て行くだと?」
彼は眉をひそめ、彼女に歩み寄った。
「そんなことを、私が許すと思うのか」
「でも、あなたは……夕べは……私のような者を傍に置くのは嫌でしょう? 私は貴族じゃなくて……」
こらえきれず、涙が溢れ出る。
「容貌も醜くて……」
伯爵は、唖然としていた。
「お前は美しい。醜いなどと、二度と口にするな」
彼は、指で彼女の涙をぬぐった。
「夕べは悪かった。お前に襲いかかりそうになって、そんな自分に腹が立ったのだ。あんなことを言うべきではなかった」
彼女は顔を上げ、彼をみつめた。
「――わたしは戦いたいんです。この池から現れる魔物と」
「何のために?」
「人間を守るためです。ラーベンが滅びたのが魔物のせいなら、復讐のためでもあります。人間のままでは戦えません。わたしをヴァンパイアに変えてください。どうか、力を与えてください」
涙にきらきら光るカミールの瞳に、伯爵は魅入った。この勇敢で美しい娘をそばに置ける――永遠に。そんな誘惑に抗えるだろうか。
「お願いです」
懇願する彼女の顔を、伯爵は両手で包み込んだ。
「ヴァンパイアは闇に棲む化け物だ。人間の心を失い、生き血をすするようになる。それでもいいのか」
「あなたの助けが必要です」
彼女は目を閉じ、再び開く。
「あなたと同じ、狼の血を飲むよう導いてください」
「太陽の光や青空を見ることの出来ない、冷たい死体だ。人間には戻れず、悪くすれば獣以下になる。それでもか?」
「はい。心を失わないよう努力します」
伯爵は、彼女の額に額をつけた。
「私と共に生きてくれるか」
「はい」
彼女はどきりとした。彼は、本気で私を望んでいるのだろうか。
「あなたは、それでいいんですか? ……素晴らしい女性は他に大勢います」
「お前以外の女性は、目に入らないよ」
彼は優しく微笑み、自らの敗北を悟った。忍耐が限界を超えた。どうあっても、カミールが欲しい。彼女の顔をのぞき込み、伯爵は真剣な表情を浮かべた。
「最初は、肉を食い破られる痛みを感じる。寒さを感じ、震える。意識を失ったまま、死に近づく。死の一歩手前で私の血を飲み、眠る。目覚めた時、お前の世界は変わっているだろう」
「目覚めた後、もしもわたしが人間の血を欲しがったら、どこかに閉じ込めてください。わたしの頭がおかしくなり何を口走ろうとも、絶対に人間の血を与えないでください」
彼はにやりと笑った。
「今もこれからも、お前が飲むのは私の血だけだ。他の者の血は飲ませない」
伯爵の唇が、彼女の顔を優しくさまよった。涙の残る目に触れ、鼻の頭に触れ、二人の唇が合う。彼女の息が止まるほど力一杯抱きしめると、彼は伸びた牙を彼女の首筋に当てた。彼の全身の血が沸き立ち、ごうごうと音を立てて駆け巡る。伯爵は、彼女の首に牙を突き立てた。
体がびくんと跳ね、彼女は叫び声を呑み込んだ。食い破られた血管から暖かい血が溢れ出し、彼はむさぼるように口をつけた。こぼれないよう、一滴残らずすすり、飲み下す。芳醇な彼女の命が口いっぱいに広がり、喉を潤し、体内に流れ込む。伯爵は、我を忘れた。思考が止まり、彼女と彼女の濃厚な血以外何も考えられなくなった。
カミール――――私のものだ。
さらに深く牙を食い込ませ、傷口を唇で大きく覆う。急激に力を失い彼の方へ倒れ込んだ彼女の体を、自分の体に溶け込ませるかのように強く抱きしめた。
血液が失われるにつれ、彼女の意識は混濁した。夢と現実の境目があやふやになり、意識が過去や別の場所に飛んでいく。
夜空から降る、雪のように白く輝くもの。ちらちらと舞い降るそれは、地上に着くや長身の美男美女に変わった。人間とは違う生き物だ。体の輪郭が白く光り、ふわふわと漂うように移動する。歌や踊りが好きで絵や彫刻、色彩を楽しむ陽気な彼らは、笑いさざめきながら地上の暮らしを楽しんでいた。
(ラス……)
ラスの姿をした美青年を、獣の皮で体をおおった半裸の人間の娘が見つめている。ラスは娘を優しく抱き寄せ、カミールは慌てて目を逸らした。
地上にやって来たのは、精霊たちだけではなかった。地下からもまた人間ではないものが現れた。異形のそれらは人間や精霊のいない場所に住みつき、精霊もまた地下世界のものや人間のいない場所に住んだ。
人間はそんな暗黙の境界線には頓着せず、好きな場所に住みどんどん増えた。地上に人間があふれ、精霊は一体また一体と蛍のような光となって天に帰っていった。夜空を蛍が舞い、カミールは感嘆のため息を洩らした。
「……蛍は綺麗だけれど、儚いわ」
いつのまにか隣にアネッタが座っている。カミールは、アネッタの顔をのぞき込んだ。
「あなたに尋ねたいことがあるの」
アネッタは、にっこりと笑った。
「どうしていつもスープを作っているの? 何か思い出した?」
アネッタはこくりと頷き、ぽつりぽつりと話し始めた。カミールは言葉を挟まず聞いていた。
彼女はローマの料理人の家に生まれたらしい。四人兄妹の中で最も料理の才能に恵まれていたにもかかわらず、父親は女性の料理人を認めなかった。彼女がどんなに努力し素晴らしい料理を作っても、父親の愛情は彼女を素通りして三人の兄たちに注がれた。
彼女はローマの貴族が催すスープのコンテストに応募することにした。優勝すれば父親に褒めてもらえるかもしれない。そんな思いはコンテストの前日、馬車の事故に巻き込まれて挫かれた。自分が死んでしまったことに気づいた後も、彼女は悲しみでいっぱいになりながらスープを作り続けた。セルヴァ伯爵に拾われた後も。
「……伯爵は、言ったわ。父親や料理が人生のすべてじゃないって。でも、私にとってはすべてなの」
彼女はそう話し、うつむいた。
「結婚や恋愛や、家族や子供はどう? 大切じゃない?」
アネッタに尋ねながら、まるで自分自身に問いかけているようだとカミールは思った。13歳になった頃から縁談がいくつか持ち上がったけれど、ことごとく断っていたのだ。結婚しないと決めていたわけじゃない。その気になれなかっただけだ。
「……興味がないの」
アネッタが答え、カミールは微笑んだ。死者には永遠の時間がある。百年や二百年など、ほんの一瞬のことだ。一つのことに没頭したって構わない。料理が最も大切なものでなくなった時、別の何かに取り組めばいい。そうして長い長い時間を過ごしていくのだろう。
「ゆっくり生きて、アネッタ。急がないで。納得しないまま進むなんて、あなたらしくないから」
アネッタの黒い瞳が瞬いたように見えた。彼女はにっこり笑い、すっと消えた。
辺りは薄暗くなり、遠くにピエールの姿が見えた。
「ピエール」
呼びかけると、彼は満面の笑顔を向けてくれた。
「あなたと一緒に行ってもいい? あなたの家に住んでもいい?」
彼が尋ね、カミールは「いいよ」と答えようとして困ってしまった。彼女には、家がないのだ。ラーベンでは領主館の一室を借りていたし、今住んでいるのはセルヴァ伯爵の城だ。彼女の心が伝わったらしく、ピエールが言う。
「あなたも家が無いんだね。僕もなんだ」
彼は、悲しそうな顔をした。
「僕、本当はおうちに帰りたいんだ」
「おうちって、どこにあるの?」
「思い出せない。家族がいっぱいいたんだけど。父さんと母さんと、兄さんや姉さんや弟や妹や、赤ちゃんもいたよ。兄さんと姉さんは、いつの間にかいなくなっちゃった。妹もいなくなって、ある日父さんと母さんが僕を山へピクニックに連れて行ってくれたんだ。僕だけなんだよ。特別なんだって。父さんも母さんも、泣いてた。それからここで待っててねって言って、父さんと母さんは何処かへ行っちゃったんだ。僕、ずっと待ってたんだ」
彼は、困った顔をした。
「待ちくたびれて、家に帰ろうと思ったんだ。でも、どんな家だったか思い出せなくて。その頃には、父さんや母さんの顔も思い出せなくなってた。道を歩いてる人に『一緒に行ってもいい?』って聞いたんだ。その人の家を見たら、自分の家を思い出すかもしれないでしょ? でもみんな、僕を見ると逃げちゃうんだ」
間引かれたんだ、とカミールは思った。貧しい家では、子供は小さい頃から奉公に出す。彼女の家もそうだった。
ピエールはどこかに障害があって、奉公先が見つからなかったのだろう。両親は口減らしのために、彼を山に置き去りにしたのだ。熱いものがこみ上げ、彼女はピエールを抱き寄せた。
「わたしが暮らしているのはセルヴァ伯爵の城だけど、それでもいい?」
彼は、嬉しそうな顔をした。
「うん。伯爵は一緒に住んでもいいって言ってくれた、最初の人なんだ。親切な人だよ」
彼は彼女にもたれかかり、うっとりと目を閉じる。
「あなたはいい匂いがするね。母さんみたいだ」
彼女の胸が痛んだ。母親には、一生なれない。
目の前にあるピエールの柔らかそうな首筋に目が留まった。突然体の奥底から、激しい渇望がこみ上げる。彼の首を引きちぎり、噴きこぼれる血飛沫に口をつける自分が目に浮かんだ。彼女は自分におののき、息を荒げ、顔を覆った。
「血が欲しいの?」
ピエールが尋ね、彼女は首を横に振った。血の気のない真っ青な自分の腕を見る。急激に血を失った体が、血を求めている。
ピエールに目をやり、彼を殺してでも血が欲しいと願う自分に気がついた。彼の顔がフィーリア姫に変わり、それでも同じだった。誰を殺しても、血が欲しい。
「ピエール、そこにいてね」
彼女は立ち上がり、一歩下がった。ピエールを見下ろし、ここが境界線だと思った。足を踏み出せば、彼の首に噛みつくだろう。生きるためだと言いつくろって。でもそうまでして生きて、自分が許せるだろうか。
ピエールは信じきった目で、彼女を見上げている。頭に刻み込まれた騎士としての誓いの言葉がよみがえる。
『高潔であれ』――――その言葉が支えだった。そして今では、誇りだ。人間を殺す獣になって、どうして誇りが守れるだろう。
カミールはさらに一歩下がり、ピエールににっこり笑いかけた。
「大丈夫。戦いには慣れてるから。たとえ敵が自分であっても」
体が小刻みに震え始めた。――寒い。ピエールは消え、あたりは真っ暗になった。誰かの声が聞こえる。伯爵の声だ。
「カミール……」
彼女は、うっすらと目を開けた。伯爵の部屋だ。ベッドに横たわり、伯爵が見下ろしている。彼は牙で自分の手首を食い破り、血を滴らせた。
「飲め」
手首を彼女の口に押しつける。
血は金属の臭いがすると思っていたが、間違いだったとカミールは思った。血は花の香りがする。伯爵の血は、微かに革と樹木の香りが混じっている。一口すすると仄かに甘く、たとえようもなく美味だ。
彼女は彼の手首に噛みつき、飢えたように血を吸い上げた。餓死寸前の者が食事にありついたかのように全身が血を求め、渇望に骨身が軋んだ。――いくら飲んでも飲み足りない。もっと欲しい。
「おしまいだ」
伯爵に手首を取り上げられ、彼女は獣のような呻き声を上げた。彼は笑い、彼女にかがみ込む。
「たくさん飲んだな。いい子だ」
カミールが睨みつけると、伯爵は笑いながら彼女の唇に口づけた。
「最初は少しずつだ。体が血に慣れるまで。ずっとそばにいるから、少し眠るといい」
隣に横たわって彼女を抱き寄せる伯爵の体が、暖かく感じられた。
カミールは彼の肩に顔をうずめ、優しい抱擁の中で、眠りに落ちていった。